分河内屋
文字数 2,695文字
翌朝、奉行所で上役の土井への報告を終えた真輔を、大崎が呼び止めた。その後ろに大崎よりも年配の同心が立っていた。
「萩原さん、笠原を紹介します。河内屋の分家のことを教えてやってください。」
さっそく神田廻りの同心に話を通してくれたようだった。
「笠原真輔です。なにとぞよろしくお願いいたします。」
「神田廻りをしている萩原だ。立ち話も何だ、こっちへ。」
三人は、空いている控えの間に入り、萩原が上座に座り、その前に二人が座った。
「聞きたいのは、『分河内屋』のことだったな。」
「分河内屋?」
「河内屋は分家に河内屋を名乗らせなかったのさ。あくまで、分家とわかる店名にさせた。」
「なるほど。幕府御用達の本家とは、格が違うということか。」
大崎が腕組みをしてうなった。真輔は一番気になることを聞いた。
「分河内屋は、繁盛しているのでしょうか?」
「本家ほどではないが、あの辺りでは一番大きい油屋だ。河内屋と仕入れ先が同じらしく、上等の品を扱っているという評判で、料理屋や寺など大口の得意先を持っているんだが…。実は、昨年の今頃、十日ほど店を休んでいたことがある。訳を問いただしたら、店の改装だと言っていたが、どうやら蔵を直していたらしいぜ。」
「昨年は今年以上に暑い夏でした。夏の最中に蔵の修理とは解せませんが。」
「うむ。蔵が傷んでいたのを放っておいたせいで、蔵の油を傷ませて売り物にならなくしたという噂があった。」
「主人は商売熱心なのでしょうか?」
「商売熱心なら、蔵の補修を怠ったりしねぇよ。分河内屋の主人の遊び好きは、あの辺りでは有名だ。息子は勉強好きの内気な男で、店に出ているのを見たことがない。こちらも商売に向いているとは言えないな。だが、これといって問題を起こしたことがあるわけではないから、すまないが、内情については俺の話せることはこれぐらいだ。気になることがあるんなら、自分の目で確かめてみるのが一番だな。」
「店に顔を出してもかまわないでしょうか?」
「お役目に必要だと思ったら、気にするこたぁないよ。でも、普段の店の様子が知りたいなら、同心とわからねぇように気をつけな。」
そう言うと、萩原は控えの間を出て行った。真輔は大崎を見た。大崎はにやりと笑いながら、
「羽織と足袋を脱いで、着流しの浪人風に…。いや、おまえの場合は、袴をつけて、手習いの師匠に見せる方がいいな。」
その日の町廻りを早めに終わらせた真輔は、一旦、八丁堀に帰り、大崎の助言に従って、三か月前までの自分の姿に戻った。猪牙で神田に向かい、陽が傾くころには分河内屋の前に立っていた。分河内屋は、本店の半分ほどの間口の店であった。店の前では、小僧が雲一つない空を恨めし気に見上げながら、のろのろと水を撒いていた。真輔は暖簾を上げて、店に入った。帳場には番頭らしき年配の男が座り、若い手代が客の相手をしていた。他に奉公人がいないのか、真輔に声を掛ける者はいなかった。それを幸いに、店の中をぐるりと観察した。
部屋の隅や、土間の油の入った甕の底の辺りに埃が見える。店の掃除が行き届いていない。客の相手をしている手代は、何かと番頭に確認を取っていて、仕事に慣れていないように見える。奉公人はこの二人と、外でまだ水を撒いている小僧の三人だけなのだろうか、店の奥もひっそりとしていて、全体に活気がなかった。
「(河内屋とは大違いだな。とても商売が上手くいっているようには見えない。)」
そこへ、天秤棒を担いだ男が一人、入って来た。荷物を土間に置いて、さっと汗をぬぐうと真輔の側に来て、何か御用でしょうか?と尋ねた。背丈は一人前だが、身なりは丈の短い着物に前掛けで、まだ手代にはなっていないようである。
「行灯に用いる油を所望したいのだが。」
と持参の瀬戸物の壺を渡すと、すぐにいくつかある甕から一つを選び、
「こちらがよろしいでしょう。」
と壺に注ぎながら、値段を伝えた。この店では安い油なのだろう、手ごろな値段で、真輔は内心ほっとしていた。手際よく蓋をして細縄でくくり渡して来た。真輔が金を渡すと、懐の財布から釣銭を出し、あっという間に用が済んでしまった。仕方なく店を出ようとすると、先ほど水を撒いていた小僧が入って来て、雨が降り出しました、と言った。年長の小僧がすぐ外を覗いて、真輔の方を振り向いた。
「お客さん、夕立がきちまいました。止むまで、中でお待ちください。」
真輔を上がり框に座らせると、外の暖簾を片付け、今度は台所に引っ込み、湯呑を持って戻って来た。
「あいにく火を落としていて、湯冷まししかありませんが、よろしければ。」
そして、次には雨宿りをしている人たちを店の中に案内している。真輔は、独楽鼠のように働く年長の小僧を、興味深く眺めていた。雨宿りの客に油の説明をして、いつのまにか注文を受け、今度は懐から矢立を出して書きつけている。それに比べて手代の方は、まだ手間取っているようで、客がいらいらしているのがわかる。帳場から番頭が出てきて、ようやく話がまとまったようだ。客は注文に時間がかかって、気がせいているのだろうか、まだ止まない夕立にかまわず、帰ろうとしていた。すると、年長の小僧が傘を持って飛んで来ると、外に出て開いて客に渡した。
年長の小僧の手が空いたすきに、真輔は話しかけた。
「おまえは、この店で長いのか?」
「いえ、こちらではまだひと月ほどです。」
「その前はどこにいた?」
「河内屋でございます。こちらへは、お手伝いにまいりました。」
話を聞いていた雨宿りの女が、話に加わった。
「奉公人が次々とやめちまったんですよ。で、人が足りなくなって本店から辛坊が来たってわけ。」
女は声を潜めて、続けた。
「今じゃ、この店は辛坊一人で回してるようなもんよ。番頭さんはそろばんを使うことしかしないし、あの手代は小間物屋に婿にいった番頭さんの息子を駆り出したもんだから、油屋の仕事がまるでわかっていなくて…。」
「何故、奉公人が辞めたんでしょう…」
女は、更に声を潜め、
「なんでも、借金がたいへんで給金が払えなくなって、辞めさせられたって聞きましたよ、辞めた女中さんから。だから、辛坊の給金は本店が出してるんじゃないかと思うのよ。」
「なるほど。」
女はそこまで話すと、雨が止んだのを機に、店を出て行った。年長の小僧は、買い物をしていない者にも大きな声で礼を言って送り出していた。真輔も油の入った壺を手に、大きな声に見送られて店を出た。分河内屋は、想像以上にひどい状態だった。
「萩原さん、笠原を紹介します。河内屋の分家のことを教えてやってください。」
さっそく神田廻りの同心に話を通してくれたようだった。
「笠原真輔です。なにとぞよろしくお願いいたします。」
「神田廻りをしている萩原だ。立ち話も何だ、こっちへ。」
三人は、空いている控えの間に入り、萩原が上座に座り、その前に二人が座った。
「聞きたいのは、『分河内屋』のことだったな。」
「分河内屋?」
「河内屋は分家に河内屋を名乗らせなかったのさ。あくまで、分家とわかる店名にさせた。」
「なるほど。幕府御用達の本家とは、格が違うということか。」
大崎が腕組みをしてうなった。真輔は一番気になることを聞いた。
「分河内屋は、繁盛しているのでしょうか?」
「本家ほどではないが、あの辺りでは一番大きい油屋だ。河内屋と仕入れ先が同じらしく、上等の品を扱っているという評判で、料理屋や寺など大口の得意先を持っているんだが…。実は、昨年の今頃、十日ほど店を休んでいたことがある。訳を問いただしたら、店の改装だと言っていたが、どうやら蔵を直していたらしいぜ。」
「昨年は今年以上に暑い夏でした。夏の最中に蔵の修理とは解せませんが。」
「うむ。蔵が傷んでいたのを放っておいたせいで、蔵の油を傷ませて売り物にならなくしたという噂があった。」
「主人は商売熱心なのでしょうか?」
「商売熱心なら、蔵の補修を怠ったりしねぇよ。分河内屋の主人の遊び好きは、あの辺りでは有名だ。息子は勉強好きの内気な男で、店に出ているのを見たことがない。こちらも商売に向いているとは言えないな。だが、これといって問題を起こしたことがあるわけではないから、すまないが、内情については俺の話せることはこれぐらいだ。気になることがあるんなら、自分の目で確かめてみるのが一番だな。」
「店に顔を出してもかまわないでしょうか?」
「お役目に必要だと思ったら、気にするこたぁないよ。でも、普段の店の様子が知りたいなら、同心とわからねぇように気をつけな。」
そう言うと、萩原は控えの間を出て行った。真輔は大崎を見た。大崎はにやりと笑いながら、
「羽織と足袋を脱いで、着流しの浪人風に…。いや、おまえの場合は、袴をつけて、手習いの師匠に見せる方がいいな。」
その日の町廻りを早めに終わらせた真輔は、一旦、八丁堀に帰り、大崎の助言に従って、三か月前までの自分の姿に戻った。猪牙で神田に向かい、陽が傾くころには分河内屋の前に立っていた。分河内屋は、本店の半分ほどの間口の店であった。店の前では、小僧が雲一つない空を恨めし気に見上げながら、のろのろと水を撒いていた。真輔は暖簾を上げて、店に入った。帳場には番頭らしき年配の男が座り、若い手代が客の相手をしていた。他に奉公人がいないのか、真輔に声を掛ける者はいなかった。それを幸いに、店の中をぐるりと観察した。
部屋の隅や、土間の油の入った甕の底の辺りに埃が見える。店の掃除が行き届いていない。客の相手をしている手代は、何かと番頭に確認を取っていて、仕事に慣れていないように見える。奉公人はこの二人と、外でまだ水を撒いている小僧の三人だけなのだろうか、店の奥もひっそりとしていて、全体に活気がなかった。
「(河内屋とは大違いだな。とても商売が上手くいっているようには見えない。)」
そこへ、天秤棒を担いだ男が一人、入って来た。荷物を土間に置いて、さっと汗をぬぐうと真輔の側に来て、何か御用でしょうか?と尋ねた。背丈は一人前だが、身なりは丈の短い着物に前掛けで、まだ手代にはなっていないようである。
「行灯に用いる油を所望したいのだが。」
と持参の瀬戸物の壺を渡すと、すぐにいくつかある甕から一つを選び、
「こちらがよろしいでしょう。」
と壺に注ぎながら、値段を伝えた。この店では安い油なのだろう、手ごろな値段で、真輔は内心ほっとしていた。手際よく蓋をして細縄でくくり渡して来た。真輔が金を渡すと、懐の財布から釣銭を出し、あっという間に用が済んでしまった。仕方なく店を出ようとすると、先ほど水を撒いていた小僧が入って来て、雨が降り出しました、と言った。年長の小僧がすぐ外を覗いて、真輔の方を振り向いた。
「お客さん、夕立がきちまいました。止むまで、中でお待ちください。」
真輔を上がり框に座らせると、外の暖簾を片付け、今度は台所に引っ込み、湯呑を持って戻って来た。
「あいにく火を落としていて、湯冷まししかありませんが、よろしければ。」
そして、次には雨宿りをしている人たちを店の中に案内している。真輔は、独楽鼠のように働く年長の小僧を、興味深く眺めていた。雨宿りの客に油の説明をして、いつのまにか注文を受け、今度は懐から矢立を出して書きつけている。それに比べて手代の方は、まだ手間取っているようで、客がいらいらしているのがわかる。帳場から番頭が出てきて、ようやく話がまとまったようだ。客は注文に時間がかかって、気がせいているのだろうか、まだ止まない夕立にかまわず、帰ろうとしていた。すると、年長の小僧が傘を持って飛んで来ると、外に出て開いて客に渡した。
年長の小僧の手が空いたすきに、真輔は話しかけた。
「おまえは、この店で長いのか?」
「いえ、こちらではまだひと月ほどです。」
「その前はどこにいた?」
「河内屋でございます。こちらへは、お手伝いにまいりました。」
話を聞いていた雨宿りの女が、話に加わった。
「奉公人が次々とやめちまったんですよ。で、人が足りなくなって本店から辛坊が来たってわけ。」
女は声を潜めて、続けた。
「今じゃ、この店は辛坊一人で回してるようなもんよ。番頭さんはそろばんを使うことしかしないし、あの手代は小間物屋に婿にいった番頭さんの息子を駆り出したもんだから、油屋の仕事がまるでわかっていなくて…。」
「何故、奉公人が辞めたんでしょう…」
女は、更に声を潜め、
「なんでも、借金がたいへんで給金が払えなくなって、辞めさせられたって聞きましたよ、辞めた女中さんから。だから、辛坊の給金は本店が出してるんじゃないかと思うのよ。」
「なるほど。」
女はそこまで話すと、雨が止んだのを機に、店を出て行った。年長の小僧は、買い物をしていない者にも大きな声で礼を言って送り出していた。真輔も油の入った壺を手に、大きな声に見送られて店を出た。分河内屋は、想像以上にひどい状態だった。