遠雷

文字数 1,507文字

 真輔が、河内屋の暖簾をくぐって外に出ると、店の前で水打ちをしていた小僧が手を止めて深々とお辞儀をした。奉公を始めて間がないのであろう、動きの全てに緊張が現れている。安心しろという気持ちを込めて、真輔は小僧に微笑かけた。

「(この河内屋は、おまえのことを大切にしてくれるよ)」

 通りの中ほどに立ち止まった真輔は、道の両側に立ち並ぶ大店と働く人々、行きかう人々を眺めた。ここにある暮らしを守ることが自分の仕事なのだと、背筋を伸ばし、振り向くと家路に向かった。

 夕焼けに染まる空を眺めながら河岸を歩いていると、道の先から上背のある武士がこちらに向かって歩いてくる。河岸に沿って点在する飯屋か居酒屋のどこから出てきたのか、ゆっくり歩く姿はだいぶ酒が入っているようだったが、その視線は真輔の顔の上に止まっている。真輔は僅かに違和感を覚え、神経を張り巡らした。距離が縮まると、その武士が若く、河岸の居酒屋には不似合いな高価な装いであることもわかった。真輔が道を譲る形で、何事もなくすれ違うと、

 「おまえが笠原の婿か。」

 酔っ払いとは思えぬ張りのある声が、背中に届いた。

 その言葉に真輔が振り返ると、相手が刀の柄に手を添えて腰を落とした。真輔もすぐに反応して身構えた。すると、男はおもむろに刀を抜いて、上段に構えた。

 「(そうか、この男か…)」

 真輔の頭に、辛い告白をした日の百合の顔が浮かんだ。父の死の後、昔からの知り合いに乱暴されるという苦しみを味わった百合は、婚礼後も真輔と距離を置き、自分から笠原家を出ようとまでしたのだった。相手のことを百合は語らず、真輔も問わなかった。真輔にとって、そんな男のことはどうでもよかった。百合が笑って、真輔の隣で生きていてくれればよかった。今の二人にとって、相手のことは消し去られた存在であったが、忘れたわけではない。だから、真輔は一瞬で理解した。嫉妬の牙が自分に向けられたことを。この男は百合に焦がれて力ずくに及んだが、それが何の意味もなさなかったことに腹を立てているのだ。

 町廻りの同心が腰に差しているものは歯を落とした長脇差だが、それでもまともに当たれば相手を打ち殺すことができる。しかし、男の構えは酒のせいか、わずかに揺れている。それを見て、真輔は刀の柄に手を添えたまま肩の力を抜いた。

 男は、真輔が動かないことに焦れたのか、振りかぶりなおすと、気合を発しながら飛ぶように切りかかって来た。その瞬間、真輔は体を開きながらすばやく前に出ると、片足で相手の前足の脛を思い切り蹴り上げた。男は体の均衡をくずし、刀を振りあげたままの姿勢で地面に落ちた。地面に長々と横たわる体の周りで、夏の陽にさらされて乾いた地面が土埃を上げた。その時、真輔が思わず顔をそむけたのは、土埃のせいだけではなかった。

 顔を戻すと、男が出てきた河岸沿いの店から、一人の武士が顔を出しているのが見えた。倒れた男が四つん這いの姿勢に体を起こして、酔いのせいか嘔吐(えず)き始めると、男の姿に気づいて駆けつけて来た。その小柄な武士は、側に立つ真輔の顔を見て驚いたようであったが、男の脇に膝まずきながら謝った。

 「この者がご迷惑をおかけしましたようで、申し訳ない。」
 「いえ、酒のせいで転ばれたようです。」

 嘔吐(えず)く男の先に投げ出されている刀に気づいた小柄な武士は、もう一度真輔の方を見上げたが、真輔はもう二人を通り越して歩き出していた。

 歩きながら見上げた空では、夕焼けが湧き昇る黒い雲にどんどん隠れて行った。遠くから雷の音が聞こえる。真輔は、今日も夕立が来そうだと思い、その前に帰り着こうと、百合の待つ家に向かって足を速めた。

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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになってきている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせるようになっている。

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