闇の入り口

文字数 2,782文字

 それぞれが探索に走り回った日の夜、支配与力の土井に指定された小料理屋に、真輔は栄三郎を伴って入っていった。案内された離れの小座敷には、すでに土井をはじめ、根岸廻りの大崎と神田廻りの萩原も集まっていた。栄三郎は廊下にかしこまったが、土井に言われて部屋に入り、部屋の隅に落ち着かなそうに座っている。まもなく、膳と酒が運び込まれ、「後はこちらでやる」、と土井が女中を下がらせた。

 「まずは、一杯。」

 栄三郎は膳を据えられて恐縮していたが、素直に皆と一緒に杯を開けた。

 「食べながら聞こう。」
 「では、私から。」

 大崎が寮番の女房の話をする。次は、萩原が神田での聞き込みを、真輔が河内屋で聞いた話をした。最後は栄三郎だった。

 「吉次は、鶴屋の芸者お染の家にもぐりこんでいました。今朝方、夜明け前に慌てて駆け込んだのを、向かいの蕎麦屋の主人が見ております。」

 土井は箸を止めた。

 「吉左衛門は一緒ではないのだな。」
 「はい、一人でございます。吉次が住処の長屋にいなかったので、他に身を寄せるところがあるのかと、深川であっしが懇意にしている藤太親分に、訪ねたんです。」
 「藤太か、達者にしているか?」
 「へえ、親分の息子に助てもらいやした。」
 「そうか、藤太の息子も一人前か。」
 「土井さん、深川の岡っ引きをご存じなのですか?」

 萩原が興味深そうに聞いた。

 「うむ。昔の話だ。中川の前の深川廻りが、捕り物でずいぶん頼りにしておった。笠原にとっての栄三郎のようなものだな。」

 とんでもない、というように栄三郎は縮こまり、真輔は頷いた。

 「話をもどそう。で、藤太はなんと言っていた?」
 「それが、吉次は深川からお染の家に駆け込んだのではないだろう、と言われました。吉次の深川での居場所は、長屋かお染の家か鶴屋しかないと。実は、鶴屋は藤太親分の方が張っていて、吉次は尋ねてこなかったそうです。といって、長屋の方も、慌てて出たような跡はありませんでした。猪牙を使えば、神田からでも、日本橋からでも木戸を通らず深川に入れます。昨夜は月も出ていましたから、手慣れた船頭ならば、造作のない仕事です。」

 早くも膳の物をすべて平らげていた大崎が、腕組みをして唸る。

 「吉次が寮番の亭主の件に、関わっているかもしれないというわけか。」

 寮番の亭主が消えた件を除けば、表立った事件は起きていない。ちらちらと、河内屋の周辺で不穏な影が見え隠れしているだけである。それでも、土井をはじめ二人の手練れの同心が調べを進めているのは、やはり長年養った探索の勘が働いているのだろうか、と真輔はのろのろと魚の身をほぐしながら思った。

 「(私には、算学の問題を解く勘ぐらいしかないな…。)」

 皆がそれぞれ考えこみ、座が静かになった。しばらくして、土井が「かもしれない、だらけだな…」と呟いた。それを聞いて真輔は、居ずまいを正した。行き詰まっていた他の三人が、何か思い出したのかというように、真輔の顔を見つめる。真輔は、ためらいがちに話し出した。

 「私は、笠原家に婿に入るまで、ずっと算学の勉強を続けておりました。」
 「聞いてるよ。」

 合いの手を入れた大崎が、にやりと期待するような顔をする。

 「算学では、わからない数に甲や乙と名付けて問題を解く方法があります。」
 「ふむ。では、河内屋の件では?」

 土井は、真輔に言うと、銚子を取り上げ、自分の杯に注いた。

 「仮にですが、まだこの件で話に出てきていない、表にいない者を甲とします。」
 「影で操るものがいるとするのか。」
 「はい、そうです。」

 土井は杯を飲み干すと、真輔に先を促した。真輔は考え、考え、慎重に話を進めた。

 「河内屋は、皆さまもご存知のように、主人一家は商売熱心、奉公人はよく躾けられた優れた者ばかりです。商売については盤石、もし甲が河内屋に何らかの力を及ぼそうとしても、簡単にはかないません。
 ですが、分河内屋の主人吉左衛門は商売に不熱心で、外に女房以外の女もいる。そして、芸者と良い仲の吉次という外腹の息子もいる。吉左衛門に借金を負わせ、子供のいない与左衛門に吉次の旧知の女を紹介させ、子供が生ませて、河内屋の跡継ぎにしようと企んだのではないでしょうか。そして、吉左衛門と吉次が女の後見になり、河内屋の内情に口出しをする入り口にするつもりだったと考えると繋がります。きっと、吉左衛門の借金の相手は、甲に関係があると思います。」

 土井が手酌で更に杯を満たした。

 「外に赤ん坊ができたところで、河内屋の商売には関係なかろう。すると、甲の次の手は与左衛門を消すことだったのか…。」

 大崎が「しかし、」と呟いた。

 「赤ん坊が生まれる前に与左衛門が死んだのは、計画とは違った。」

 真輔が思わず膝を進めた。 

 「はい。お梅の子供を河内屋の跡継ぎに据えてからでないと、吉左衛門たちが河内屋に口を挟めません。現に、河内屋では、与左衛門がいなくなった後の商売の形や跡継ぎのことは、大おかみとおかみが主導で滞りなく進んでいます。お梅はもちろん、親戚も蚊帳の外です。」

 萩原が面白そうににやりとする。

 「その甲のやろうは、手中の駒のせいでしくじったのか。」
 「そこに寮番のゆすりが加わったら、その甲とやらは、腹を立てたろうな。」
 「そうではないかと。それで、今、吉左衛門と吉次が怯えているのではないでしょうか。」

 土井が「欲を出したばかりに…」と苦い顔で言った。

 「寮番は消されましたね。」

 酒の徳利に手を伸ばしながら、大崎がやはり苦い顔で言った。しばらく考え込んでいた土井は、腹が決まったようだった。

 「大崎、寮番の女房を逃がしてやる先にあてはあるか?」
 「はい、八王子につてがありますので、明日にでも移します。」
 「うむ、萩原は分河内屋にはもうかまうな。笠原の言う甲とやらが警戒したら、奉公人まで消すかもしれん。栄三郎も、吉次のおもりはいらねえ。吉次と吉左衛門には、自分のけつぐらい自分で拭かせろ。お梅は河内屋で大切にされているなら、心配なかろう。俺たちはこの件からは手を引く。下手につついて、傷を広げるようなことになってはいけない。」

 大崎と萩原が、「承知しました。」と素直に答えて座敷を退いても、真輔は座ったままだった。それを見て、土井は苦笑した。

 「答えをあせるな、笠原。算学だって、解き方がすぐ見つからない時はあるだろう。今はまだ、入り口だ。俺たちは、今回は手を引くが忘れるわけではない。いつか、おまえの言う甲を洗い出す新たな材料が見つかるだろう。」

 土井の言葉に、真輔は算学の師によく言われたことを思い出した。「答えを急ぐと誤った方向に誘導されやすい。じっくりと検証しなさい。」
 よいしょと腰を上げた土井が部屋を出るのを、真輔と栄三郎が平伏して見送った。 
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