消えた男
文字数 2,573文字
翌朝、真輔は奉行所で神田廻りの荻原に声を掛けられた。
「昨日のおまえの話が気になって、分河内屋を覗いてきた。話の通り、がらんとしてやがる。番頭を捕まえて訳を聞いたら、口を濁していたが、奉公人が辞めだしたのはここひと月ぐらいらしい。」
「理由は噂通りなのでしょうか?」」
「辞めた奉公人の行方を探させているから、見つかったら、事情を聞きだして来ようと思う。」
「よろしくお願いします。」
そこへ、支配与力の土井と、根岸廻りの大崎が現れて、急いで二人を空いている部屋に誘った。襖を閉めると、大崎が頭を下げた。
「笠原、すまぬ。寮番の男が消えた。今朝方、女房の方が見張りの下っ引きに亭主が帰って来ないと泣きついてきた。どうやら、昨日のうちに見張りの目を盗んで抜け出したようだ。夜には帰ると言っていたのに、朝まで帰らない、と。」
「どこに行ったのか、女房は聞いていないのか?」
と、萩原が冷静に訪ねた。
「いや、女房はわからないと言っているそうだ。」
大崎は、手ぬぐいで汗を拭きながら答えた。
「だが、これから俺が出向いて、女房と話してくる。何か手がかりになることを聞き出せるとよいのだが。」
「そうだな。俺は、分河内屋の件を、もう少しつっこんでみるよ。」
「私は、河内屋行って、寮番の男が来なかったか、確認してきます。吉次の方は栄三郎に頼みましょう。」
支配与力の土井は腕組みをしながら、眉間にしわを寄せている。
「大崎、寮番は何のために抜け出したと思う…。」
「大方、ゆすりでございましょう。あの夫婦はお梅が与左衛門を殴ったのを見ていたはずです。」
「ならば、どこへ行くかはおのずと知れるのではないか?」
「お梅のところでしょうか…。いや、お梅は金を持っていない。吉次か吉左衛門か。」
そこへ、真輔が勢い込んで言う。
「吉左衛門です。」
土井が顔を上げて聞く。
「何故、そう考える。」
「寮番が吉次や吉左衛門の顔を見知っていたと仮定すると、住んでいる場所がすぐわかるのは吉左衛門です。店の名前から辿り着けます。」
大崎と萩原は合点がいったというように頷いた。
「なるほど。俺が吉左衛門を探します。」
荻原がすぐに出て行った。
「よし、大崎、おまえは寮番の女房から話を聞いたら、大番屋に連れて行って預けておけ。笠原、おまえは念のために河内屋と吉次に目を配れ。」
「承知しました。」
三人が出て行った後も、土井の厳しい眼差しは変わらなかった。
昨日と同じ番屋で、栄三郎が真輔を待っていた。話を聞くと、下っ引きの平太を連れて、すぐに深川に向かって飛び出した。真輔も佐吉と共に河内屋へ走る。
河内屋は、昨日と変わりなく商売をしていた。真輔と佐吉が店に入ると、おかみと番頭は客の相手に忙しそうで、手代が二人に近づき、すぐに奥へと案内した。
「お梅さんは息災かな。」
「はぁ…、ずっと離れにおりますので、私にはわかりかねます。」
「誰かついているのか?」
「はい、女中が側にいて、世話をしておりますが。」
真輔は案内された座敷に入ったが、佐吉は離れの見える縁側に座った。女中が茶を運んで来るとほどなくして、おかみの康江が入って来た。
「お待たせして申し訳ございません。節季前で立て込んでおりまして…」
「実は、根岸のこちらの寮番の亭主が昨夜から帰らないと、番屋に女房から訴えがあったそうで、それをお知らせにまいりました。」
「まあ…」
康江は驚いて顔を上げた。
「一体どうしたのでございましょう。まさか、夫婦喧嘩で御奉行所を煩わせたわけではないと思いますが…、奉公人の不始末でお手数をお掛けして、まことに申し訳ございません。」
「それで、こちらに来てはいまいかとお訪ねしたのですが。」
「いいえ。」
「お梅さんところには、顔を出しませんでしたか?」
「聞いておりませんが、女中に確かめてみましょう。これ、誰かおつねを呼んで来ておくれ。」
まもなく、手代が若い女中を伴って戻って来た。
「おつねです。」
部屋の中に同心が座っていたので、おつねは驚いて縮こまって廊下でひれ伏した。
「笠原と申す。忙しい中、申し訳ないが少々尋ねたいことがあってな。時間は取らせないから、中に入ってくれないか。」
康江に目で促され、おつねはおずおずと入ってきた。
「ありがとう。尋ねたいのは、昨日から今日にかけて、お梅さんを訪ねて来た者がいないかどうかなのだが。」
ほっとした表情でおつねが答えた。
「誰もお梅さんのところには来ておりません。夜も一緒の部屋で寝ておりますので、間違いございません。」
「ありがとう。このことは、お梅さんには黙っていてほしい。よいかな?」
真輔の言葉を聞いて、康江の目が一瞬、空を泳いだようだった。若い女中は、承知しましたと、緊張したように深々と頭を下げた。康江は気を取り直したように女中の方を向くと、
「お梅さんは旦那様の子供を宿しているのだから、心配をかけるようなことは耳に入れたくないのだよ。おまえも、お梅さんの気にさわるようなことがないように、気を付けておくれ。」
諭すようにやさしく言い、おつねは安心したように顔を上げた。
「はい、おかみさん。」
と元気な返事をして下がって行った。康江はあらためて真輔の方に向き直ると手を付き、一度息をのむ様にしてから必死の顔で聞いた。
「寮番の喜作がいなくなったのは、主人与左衛門が亡くなったことと関係があるのでしょうか?」
「何故、そうお聞きになるのですか?」
真輔は、康江の真っすぐな問いかけに、理由次第ではこちらも正直にならざる負えないと感じていた。
「教えて頂きたいのです。主人はお梅に殺されたのですか?」
「それは…」
「主人の遺体には、頭に傷が二つございました。」
「お気づきでしたか。確かに、お梅さんが与左衛門さんを殴って傷を負わせたのではないか、寮番夫婦がそれを見ていたのではないかと、私達は考えています。しかし、与左衛門どのが亡くなったのは、石段に頭を打ったからです。お梅さんが付けた傷が原因で倒れて頭を打ったのかもしれないし、違うかもしれない。どちらにしても、寮番の亭主はお梅さんをゆすろうとするかもしれません。」
「そうですか…。ならば、主人の死は因果応報なのかもしれませんね。」
「昨日のおまえの話が気になって、分河内屋を覗いてきた。話の通り、がらんとしてやがる。番頭を捕まえて訳を聞いたら、口を濁していたが、奉公人が辞めだしたのはここひと月ぐらいらしい。」
「理由は噂通りなのでしょうか?」」
「辞めた奉公人の行方を探させているから、見つかったら、事情を聞きだして来ようと思う。」
「よろしくお願いします。」
そこへ、支配与力の土井と、根岸廻りの大崎が現れて、急いで二人を空いている部屋に誘った。襖を閉めると、大崎が頭を下げた。
「笠原、すまぬ。寮番の男が消えた。今朝方、女房の方が見張りの下っ引きに亭主が帰って来ないと泣きついてきた。どうやら、昨日のうちに見張りの目を盗んで抜け出したようだ。夜には帰ると言っていたのに、朝まで帰らない、と。」
「どこに行ったのか、女房は聞いていないのか?」
と、萩原が冷静に訪ねた。
「いや、女房はわからないと言っているそうだ。」
大崎は、手ぬぐいで汗を拭きながら答えた。
「だが、これから俺が出向いて、女房と話してくる。何か手がかりになることを聞き出せるとよいのだが。」
「そうだな。俺は、分河内屋の件を、もう少しつっこんでみるよ。」
「私は、河内屋行って、寮番の男が来なかったか、確認してきます。吉次の方は栄三郎に頼みましょう。」
支配与力の土井は腕組みをしながら、眉間にしわを寄せている。
「大崎、寮番は何のために抜け出したと思う…。」
「大方、ゆすりでございましょう。あの夫婦はお梅が与左衛門を殴ったのを見ていたはずです。」
「ならば、どこへ行くかはおのずと知れるのではないか?」
「お梅のところでしょうか…。いや、お梅は金を持っていない。吉次か吉左衛門か。」
そこへ、真輔が勢い込んで言う。
「吉左衛門です。」
土井が顔を上げて聞く。
「何故、そう考える。」
「寮番が吉次や吉左衛門の顔を見知っていたと仮定すると、住んでいる場所がすぐわかるのは吉左衛門です。店の名前から辿り着けます。」
大崎と萩原は合点がいったというように頷いた。
「なるほど。俺が吉左衛門を探します。」
荻原がすぐに出て行った。
「よし、大崎、おまえは寮番の女房から話を聞いたら、大番屋に連れて行って預けておけ。笠原、おまえは念のために河内屋と吉次に目を配れ。」
「承知しました。」
三人が出て行った後も、土井の厳しい眼差しは変わらなかった。
昨日と同じ番屋で、栄三郎が真輔を待っていた。話を聞くと、下っ引きの平太を連れて、すぐに深川に向かって飛び出した。真輔も佐吉と共に河内屋へ走る。
河内屋は、昨日と変わりなく商売をしていた。真輔と佐吉が店に入ると、おかみと番頭は客の相手に忙しそうで、手代が二人に近づき、すぐに奥へと案内した。
「お梅さんは息災かな。」
「はぁ…、ずっと離れにおりますので、私にはわかりかねます。」
「誰かついているのか?」
「はい、女中が側にいて、世話をしておりますが。」
真輔は案内された座敷に入ったが、佐吉は離れの見える縁側に座った。女中が茶を運んで来るとほどなくして、おかみの康江が入って来た。
「お待たせして申し訳ございません。節季前で立て込んでおりまして…」
「実は、根岸のこちらの寮番の亭主が昨夜から帰らないと、番屋に女房から訴えがあったそうで、それをお知らせにまいりました。」
「まあ…」
康江は驚いて顔を上げた。
「一体どうしたのでございましょう。まさか、夫婦喧嘩で御奉行所を煩わせたわけではないと思いますが…、奉公人の不始末でお手数をお掛けして、まことに申し訳ございません。」
「それで、こちらに来てはいまいかとお訪ねしたのですが。」
「いいえ。」
「お梅さんところには、顔を出しませんでしたか?」
「聞いておりませんが、女中に確かめてみましょう。これ、誰かおつねを呼んで来ておくれ。」
まもなく、手代が若い女中を伴って戻って来た。
「おつねです。」
部屋の中に同心が座っていたので、おつねは驚いて縮こまって廊下でひれ伏した。
「笠原と申す。忙しい中、申し訳ないが少々尋ねたいことがあってな。時間は取らせないから、中に入ってくれないか。」
康江に目で促され、おつねはおずおずと入ってきた。
「ありがとう。尋ねたいのは、昨日から今日にかけて、お梅さんを訪ねて来た者がいないかどうかなのだが。」
ほっとした表情でおつねが答えた。
「誰もお梅さんのところには来ておりません。夜も一緒の部屋で寝ておりますので、間違いございません。」
「ありがとう。このことは、お梅さんには黙っていてほしい。よいかな?」
真輔の言葉を聞いて、康江の目が一瞬、空を泳いだようだった。若い女中は、承知しましたと、緊張したように深々と頭を下げた。康江は気を取り直したように女中の方を向くと、
「お梅さんは旦那様の子供を宿しているのだから、心配をかけるようなことは耳に入れたくないのだよ。おまえも、お梅さんの気にさわるようなことがないように、気を付けておくれ。」
諭すようにやさしく言い、おつねは安心したように顔を上げた。
「はい、おかみさん。」
と元気な返事をして下がって行った。康江はあらためて真輔の方に向き直ると手を付き、一度息をのむ様にしてから必死の顔で聞いた。
「寮番の喜作がいなくなったのは、主人与左衛門が亡くなったことと関係があるのでしょうか?」
「何故、そうお聞きになるのですか?」
真輔は、康江の真っすぐな問いかけに、理由次第ではこちらも正直にならざる負えないと感じていた。
「教えて頂きたいのです。主人はお梅に殺されたのですか?」
「それは…」
「主人の遺体には、頭に傷が二つございました。」
「お気づきでしたか。確かに、お梅さんが与左衛門さんを殴って傷を負わせたのではないか、寮番夫婦がそれを見ていたのではないかと、私達は考えています。しかし、与左衛門どのが亡くなったのは、石段に頭を打ったからです。お梅さんが付けた傷が原因で倒れて頭を打ったのかもしれないし、違うかもしれない。どちらにしても、寮番の亭主はお梅さんをゆすろうとするかもしれません。」
「そうですか…。ならば、主人の死は因果応報なのかもしれませんね。」