石段の男

文字数 2,407文字

 すでに太陽は容赦ない熱を、真輔の背中に浴びせていた。真輔の目の前には、石段に仰向けに横たわる男の死体がある。男の濡れた着物が、昨夜の激しい夕立を思い出させた。

 「笠原、河内屋の遺体を運ぶぞ。」

 同心の大崎に声を掛けられ、頷いた真輔は、これが最後と河内屋の主人の倒れているさまを記憶に刻み付けようと見つめた。船着き場に続くゆるい石段に、足を船着き場に向けて倒れている。上等な草履は履いたままだが、着物の裾が少し乱れているのは、倒れたはずみのようだ。

 大崎の指図で人足が戸板の上に河内屋の体をそっと移した。河内屋の死体の跡が乾いている。

 「雨で濡れた石に足を滑らせた、というわけではないようだな。」

 大崎が腕組みをしながら唸るように言い、真輔も頷いた。

 「おっつけ検視の役人が来るから、それからだな。」
 「こちらに出むいて来られるのですか?」
 「うむ、この暑さだ。早くすませて、遺体を家の者に返してやらないとな。」
 「なるほど。」


 今朝早く、真輔は奉行所に呼び出された。そこで、真輔の廻り先である日本橋通い町の油問屋河内屋の主人が根岸の寮の近くで死んでいた、と聞かされた。そして、支配与力の土井から、根岸を廻り先とする同心の大崎と一緒に現場に行くように指示されたのだった。

 大崎は四十過ぎの同心としては脂の乗った年齢であるが、やや小柄で小太りの体形は粋な八丁堀の旦那という風情ではなかった。陽気な人柄で、根岸に向かう猪牙舟の中では、真輔相手に根岸の名所を解説してくれた。だが、現場に着くと鋭い眼差しに変わり、岡っ引きにきびきびと指図をする。支配与力の土井が真輔を同行させたのは、大崎から大いに学べということかもしれない、と真輔は思った。

 河内屋の亡骸は、番屋ではなく直接河内屋の寮に戻された。その方が船着き場から近く、後の手配が楽である。寮では、寮番の夫婦が変わり果てた姿で戻って来た主人を出迎えた。

 検視役人が来るまで、河内屋の遺体は戸板に乗せられたまま土間に置かれた。土間に居座る同心や岡っ引きに茶を出すと、寮番夫婦はそそくさと台所に引っ込んでしまった。それを横目で見ながら茶を飲んでいた大崎は、

 「どれ、検視役人が来るまでにこの家に者と話しをするか。」

と、真輔を促し、台所に向かった。

 大崎と真輔の姿を見ると、夫婦は追い詰められたねずみのように台所に隅に逃げた。その姿を見た大崎は、笑いながら「取って食おうというわけではない。」と、手で二人を呼び寄せて聞いた。

 「名前を教えてくれ。」
 「喜作と申します。こっちは、女房のおよねで。」
 「ここには、普段はおまえたちと、河内屋の妾だけか?」
 「はい。私らとお梅さんだけです。」
 「そうか。で、昨日、旦那はいつ来て、いつ帰ったんだ?」

 夫婦で顔を見合わせた後、夫の方がおそるおそる答えた。

 「昼過ぎにいらして、夕刻前に帰られました。」
 「船着き場まですぐなのに、送らなかったのか?」
 「へえ、旦那様が帰られるときお梅さんの具合が悪くなって、あっしらは世話をしていたもんで。荷物もないから、お梅を頼むと言ってお一人で出られました。」
 「それじゃ、驚いたろう。帰ったと思っていた旦那が、すぐそこで死んでたんだ。」

 夫婦はまた縮みあがった。

 「ここを出る時は、旦那は元気だったのか?」
 「はい、もちろんでございます。」

 寮番夫婦は二人して、激しく首を縦に振った。

 「で、お梅はどこだ?旦那の遺体が帰ってきたのに顔も出さないのか。」
 「お梅さんは、旦那様が亡くなられていたことを知らせたら、倒れてしまって。」
 「話を聞きたいが…。」
 「今は、とても無理でございましょう。」
 「そうか。ところで、旦那は何だって具合の悪いお梅をおっぽって帰っていったんだろうな。」

 夫婦はまた顔を見合わせた。

 「お店の方で御用がおありだったのではないでしょうか…。」
 「何も言っていなかったのか?」
 「へえ。」

 主人の行動を詮索する立場でもない二人は、何も知らないようだった。土間に戻ると、検視の役人が到着して、すでに検視を始めていた。それを眺めながら、真輔は遠慮がちに疑問を口にした。

 「大崎さん、お梅とは?」
 「ああ。河内屋がここに囲っている妾だ。」
 「すみません、廻り先のことなのに知りませんでした。」
「気にするな。店は商家の表の顔だが、こういった寮では裏の顔が見えたりするのさ。だから、根岸辺りを廻っていると大店の妾に詳しくなる。」

大崎は、豪快に笑った。検視を終えた役人が二人の方へ近づいてきた。

 「いかがでしたか?」

 髪がだいぶ白くなった初老の役人に、大崎は丁寧な口をきいた。

 「うむ。頭の傷以外には傷ついているところはない。腰と肘に痣ができているのは、倒れた時のものだろう。」
 「腰を落とし、肘で支えきれず頭を打ったとしたら、それで死ぬようなことになりますでしょうか?」

 口を挟んだのは真輔だった。

 「勢いがあれば、それでも強く頭を打つこともあろう。倒れている姿はみたかな?」
 「はい、着物の乱れはさほどでもありませんでした。」
 「ならば、倒れた理由も頭にあるかも知れんな。」
 「中風とかでしょうか?」

 大崎が、顔をしかめながら聞いた。河内屋の主人は大崎と同年配なので、この年で中風というのが気になるようだった。

 「うむ。腑分けをすればはっきりするが、そうもいくまい。だが、中風の発作を起こしたなら、頭を打ったことが止めになるだろう。頭をぶつけた石の形はわかるかな?」
 「はい、石段の石で、平らな形です。」

 真輔の答えに役人は首を少し捻った。

「ならば上の痣は何かな…。」
「どれでしょうか?」
「これだ。」

役人は、死体を裏返させて、頭を指し示した。頭を打った時についたであろう傷の上に、小さな痣があった。そこは、石段の平らな石にはぶつからない位置だった。
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになってきている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせるようになっている。

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