疑惑
文字数 1,886文字
康江は二人を、居間の隣の小座敷へ案内した。そこには、与左衛門の母と思われる老女と少年、初老の番頭が待っていた。
「義母の芳香、甥の正弥と番頭の幸吉でございます。」
「大崎様、笠原様、この度は朝早くからお手を煩わせることになり、申し訳ございません。」
康江の姑の芳香は、まだ声も涙で震え、二人に向かって頭を下げて深く折った体のまま、袖に顔を埋めてしまった。その背を、隣に座っていた少年の手がそっと撫でた。真輔が以前、挨拶に出向いた折に会った芳香は、老女と言える年齢であるにもかかわらず、大店の一人娘として育てられた自信と、若い頃の美貌を思わせる華やかな笑顔で真輔を迎えた。だが、一人息子の不慮の死に、しぼんだような弱々しい姿になっているのが、痛ましかった。甥の正弥とあらためて紹介された少年も、初めての身近な死に動揺し緊張しているようだったが、真輔には、芳香を思いやるやさしさが彼の本質を表しているように思えた。
「急なことでさぞお悲しみのことと、お悔やみを申し上げます。検視の所見をお伝えしますが、ご不審なことがありましたら、なんなりとお尋ねください。」
大崎はていねいな口調で検視役人が言ったことをなぞって話したが、検視役人が不審がったもう一つの傷のことは言わなかった。真輔が顔を向けると、大崎は河内屋の面々にわからないように目配せをした。それで、真輔は開きかけた口を閉じた。
大崎の説明を聞いて、康江も堪えきれずに嗚咽をもらし、芳香と手を取り合って泣き出した。
少年も目に拳をあてて泣き出し、番頭も膝頭をつかんで涙を堪えている。亡くなった主人を思って悲嘆にくれる家族や長年の奉公人の姿に、与左衛門が何故お梅のような妾を持ったのか、真輔の胸に納得のいかない思いが沸き上がった。考え込んでいると大崎に促され、二人であらためて悔みの言葉を発し、そっと席を立った。番頭が二人のために襖を開け、案内のために立ち上がった。廊下に出ると番頭は二人に、
「この後こちらで仮葬儀を済ませ、本宅での通夜、葬儀は明日以降に行うつもりですが、よろしいでしょうか?」
と聞いてきた。大崎が鷹揚に頷き、真輔も日取りが決まったら知らせてくれとだけ言って土間に続く板の間に向かった。農家風の造りの板の間には囲炉裏が切ってあり、鉤には鍋がかかったままだったが、薪は囲炉裏の中にも部屋にも見当たらなかった。番頭は二人を土間まで送り、若い手代に船着き場までお見送りするようにと言ったが、それは大崎が断った。
寮を出て河内屋の奉公人の姿が見えなくなると、真輔はもの問いたげな視線を大崎に向けた。大崎は苦笑しながら、
「もう一つの傷のことか?」
「はい、河内屋におっしゃらなかったのは、何か理由があるのでしょうか?」
「なに、はっきりしないことを伝えて、今の河内屋に面倒を起こさせたくなかったのさ。あの妾の様子では、あの傷の理由は察しがつく。」
「やはり、お梅だと思われますか?」
「おまえもそう思うか?」
「はい、傷の位置から考えて、高いところから何かで殴ったのではないかと思います。寮番の夫婦は主人を高いところから送るような立場ではないので、昨日あの家に他の人間がいない限り、お梅ではないかと。」
「なるほど、理詰めでもそうなるか。だが、お梅が与左衛門を殺したと言えない。」
「しかし、傷のせいで石段で倒れたのかもしれません。」
「確かに、そうなると罪は重くなるな。」
「はい。それに証しとなるような物が、板の間にも土間にもないのが気になります。囲炉裏があれば部屋の隅に薪が積んであるものですが、あそこには何も置かれていなかったのです。寮番夫婦がお梅をかばって片付けたのではありませんか?」
「寮番夫婦を責め立てても、俺達にはちっとやそっとでは口を割らないよ。一銭の得にもならにからな。」
真輔は、驚いて大崎を見た。
「それに、河内屋は商家と言っても幕府御用達の大店だ。よほどのはっきりとした証しがなきゃあ、主人が妾に殺されたなんて醜聞は立てられねえ。」
「かといって、このままほっておいては…。」
「心配だな。店の方が落ち着いてから、河内屋の中で納めさせることができればいいが。それまでは、お梅も寮番夫婦も見張っておく必要がある。とりあえず、うちの岡っ引きに見張らせておくが、店の方はお前の方で目を配ってくれ。」
真輔は、八方に目を配っている大崎の思考に圧倒されて頭を下げた。
「はい、承知しました。」
「よし、今日は上に洗いざらい報告しちまおう。」
大崎は真輔の肩をたたくと、船着き場への道を急いだ。
「義母の芳香、甥の正弥と番頭の幸吉でございます。」
「大崎様、笠原様、この度は朝早くからお手を煩わせることになり、申し訳ございません。」
康江の姑の芳香は、まだ声も涙で震え、二人に向かって頭を下げて深く折った体のまま、袖に顔を埋めてしまった。その背を、隣に座っていた少年の手がそっと撫でた。真輔が以前、挨拶に出向いた折に会った芳香は、老女と言える年齢であるにもかかわらず、大店の一人娘として育てられた自信と、若い頃の美貌を思わせる華やかな笑顔で真輔を迎えた。だが、一人息子の不慮の死に、しぼんだような弱々しい姿になっているのが、痛ましかった。甥の正弥とあらためて紹介された少年も、初めての身近な死に動揺し緊張しているようだったが、真輔には、芳香を思いやるやさしさが彼の本質を表しているように思えた。
「急なことでさぞお悲しみのことと、お悔やみを申し上げます。検視の所見をお伝えしますが、ご不審なことがありましたら、なんなりとお尋ねください。」
大崎はていねいな口調で検視役人が言ったことをなぞって話したが、検視役人が不審がったもう一つの傷のことは言わなかった。真輔が顔を向けると、大崎は河内屋の面々にわからないように目配せをした。それで、真輔は開きかけた口を閉じた。
大崎の説明を聞いて、康江も堪えきれずに嗚咽をもらし、芳香と手を取り合って泣き出した。
少年も目に拳をあてて泣き出し、番頭も膝頭をつかんで涙を堪えている。亡くなった主人を思って悲嘆にくれる家族や長年の奉公人の姿に、与左衛門が何故お梅のような妾を持ったのか、真輔の胸に納得のいかない思いが沸き上がった。考え込んでいると大崎に促され、二人であらためて悔みの言葉を発し、そっと席を立った。番頭が二人のために襖を開け、案内のために立ち上がった。廊下に出ると番頭は二人に、
「この後こちらで仮葬儀を済ませ、本宅での通夜、葬儀は明日以降に行うつもりですが、よろしいでしょうか?」
と聞いてきた。大崎が鷹揚に頷き、真輔も日取りが決まったら知らせてくれとだけ言って土間に続く板の間に向かった。農家風の造りの板の間には囲炉裏が切ってあり、鉤には鍋がかかったままだったが、薪は囲炉裏の中にも部屋にも見当たらなかった。番頭は二人を土間まで送り、若い手代に船着き場までお見送りするようにと言ったが、それは大崎が断った。
寮を出て河内屋の奉公人の姿が見えなくなると、真輔はもの問いたげな視線を大崎に向けた。大崎は苦笑しながら、
「もう一つの傷のことか?」
「はい、河内屋におっしゃらなかったのは、何か理由があるのでしょうか?」
「なに、はっきりしないことを伝えて、今の河内屋に面倒を起こさせたくなかったのさ。あの妾の様子では、あの傷の理由は察しがつく。」
「やはり、お梅だと思われますか?」
「おまえもそう思うか?」
「はい、傷の位置から考えて、高いところから何かで殴ったのではないかと思います。寮番の夫婦は主人を高いところから送るような立場ではないので、昨日あの家に他の人間がいない限り、お梅ではないかと。」
「なるほど、理詰めでもそうなるか。だが、お梅が与左衛門を殺したと言えない。」
「しかし、傷のせいで石段で倒れたのかもしれません。」
「確かに、そうなると罪は重くなるな。」
「はい。それに証しとなるような物が、板の間にも土間にもないのが気になります。囲炉裏があれば部屋の隅に薪が積んであるものですが、あそこには何も置かれていなかったのです。寮番夫婦がお梅をかばって片付けたのではありませんか?」
「寮番夫婦を責め立てても、俺達にはちっとやそっとでは口を割らないよ。一銭の得にもならにからな。」
真輔は、驚いて大崎を見た。
「それに、河内屋は商家と言っても幕府御用達の大店だ。よほどのはっきりとした証しがなきゃあ、主人が妾に殺されたなんて醜聞は立てられねえ。」
「かといって、このままほっておいては…。」
「心配だな。店の方が落ち着いてから、河内屋の中で納めさせることができればいいが。それまでは、お梅も寮番夫婦も見張っておく必要がある。とりあえず、うちの岡っ引きに見張らせておくが、店の方はお前の方で目を配ってくれ。」
真輔は、八方に目を配っている大崎の思考に圧倒されて頭を下げた。
「はい、承知しました。」
「よし、今日は上に洗いざらい報告しちまおう。」
大崎は真輔の肩をたたくと、船着き場への道を急いだ。