やじろべえ
文字数 1,762文字
小料理屋での会合のあった翌日の夜、真輔は役宅で町廻り同心の戸崎賢吾と杯を傾けていた。戸崎とは廻り先も家も隣同士で、真輔の妻の百合と戸崎の妻はいとこ同士である。真輔が婿に来てから、町廻り同心の仕事を手取足取り教えてくれたのが戸崎賢吾であった。真輔にとって、八丁堀で一番信頼が置ける相手である。その日の朝、奉行所へ向かう道すがら、折り入って相談したいことがあると伝えると、
「それなら、今夜、夕飯の後でおまえの家に行くよ。我が家より落ち着いて話ができるだろうからな」
と、快く引き受けてくれた。戸崎家には、幼い子供二人と、昨年末に生まれた赤ん坊がいる。隣に住む真輔は、元気の良い子供の声を聞くと、手習い所で教えていた日々のことを懐かしく思い出していた。
「さて、相談とは、おまえが今かかわっている探索事についてなのか?」
「はい、いえ、直接ではないのですが。それに、河内屋の件は打ち止めになりました」
「ほう」
昨夜、会合から帰って来た真輔が、夜食の茶漬けの箸が進まない様子を百合が心配した。
「暑さでお疲れなのですか?」
「いや、大丈夫です。考え事をしてしまって…」
真輔は茶漬けをかきこんだ。
「では、お話合いが上手く運ばなかったのですね」
「うん、調べを止めるように言われたよ。時を待てと」
「土井様が?」
「うん」
「私も言われました」
「えっ?」
「父のことです。葬儀の後に土井様から手紙を頂きました。下手人探しが打ち止めになってしまい申し訳ない。だが、決してこれで終わりにするつもりはないから、時が来るのを待ってくれと。私はその言葉を信じています。だから、あなたも諦めることはないと思います」
「そうか。百合が信じているなら、私も信じよう。悪事は必ず明らかになる、答えはみつかる」
「そうでございます。お代わりはいかがですか?」
「うん、頼む」
戸崎は苦笑いをしながら、
「藪をつついて蛇を出すなということか」
とつぶやくと、杯の酒を飲み干した。
「河内屋の件では、根岸廻りの大西さんと、分河内屋のある神田廻りの萩原さんにご助力いただきました。しかし、お梅は深川の出で、他に分河内屋の外腹の息子も住んでいるのですが、土井さんは深川廻りの中川さんを故意に蚊帳の外に置いています。」
「中川は、曰くがありすぎるからな。あいつは、八丁堀の外から中川家の養子に入った男なのだが、代々の書式係から、何故か深川廻りに抜粋された。先代の深川廻りが、捕り物で怪我を負って町廻りを降りた時、他にも適任の者はいたんだがね」
「誰か推す方がいたのですね」
「今の奉行所の中は、手っ取り早く言っちまえば二派に分かれててしまっていてね」
酒の入った戸崎は、両手を広げやじろべえのように体を揺らした。
「今は、こんな風に、どっちかに傾かないように慎重にやり取りしている」
「それで良いのですか?」
「よかねぇよ。ただ、土井さんや池田さんは、入り込んできた新しい力が何をするつもりなのか、見極められないでいるようだ。だから土井さんは、今度の河内屋の件みたいな、はっきりしない探索には、中川を関わらせるわけにはいかないと考えられたんだろう」
戸越は、真輔の杯に酒を注ぎ、更に自分の杯も満たした。真輔は、杯の中の酒を見つめながら、中川の顔を思い出そうとしたが、はっきりしない。戸越にそう伝えると、
「会ってないのかもしれないな。あいつは、滅多に奉行所に顔を出さない」
「私が町廻りを拝命したのも、釣り合いを取るためなんでしょうか」
「笠原のおじさんが亡くなられて、大きく傾くところを食い止めてくれたと思っているよ」
「義父上の死にも奉行所内のことが関係あるのでしょうか?」
「それは、わからねぇ。でも、下手人の探索を止めたのは、あっち方の力だ」
自分で持ち込んだ酒をあらかた自分で飲むと、戸越は百合の前でもやじろべえの真似をしながら、家に帰って行った。
「お義兄さまはご機嫌だったけれど、あなたは難しいお顔をされているのですね」
「私は、考えていることが顔に出過ぎだな」
「私はその方が…」
「えっ?」
「お義兄さまも、お姉さまの前ではわかりやすいそうですよ」
真輔は、それでも、戸崎は、家では仕事の重荷は陽気な笑顔の下に隠しいるのだろうと思った。
「それなら、今夜、夕飯の後でおまえの家に行くよ。我が家より落ち着いて話ができるだろうからな」
と、快く引き受けてくれた。戸崎家には、幼い子供二人と、昨年末に生まれた赤ん坊がいる。隣に住む真輔は、元気の良い子供の声を聞くと、手習い所で教えていた日々のことを懐かしく思い出していた。
「さて、相談とは、おまえが今かかわっている探索事についてなのか?」
「はい、いえ、直接ではないのですが。それに、河内屋の件は打ち止めになりました」
「ほう」
昨夜、会合から帰って来た真輔が、夜食の茶漬けの箸が進まない様子を百合が心配した。
「暑さでお疲れなのですか?」
「いや、大丈夫です。考え事をしてしまって…」
真輔は茶漬けをかきこんだ。
「では、お話合いが上手く運ばなかったのですね」
「うん、調べを止めるように言われたよ。時を待てと」
「土井様が?」
「うん」
「私も言われました」
「えっ?」
「父のことです。葬儀の後に土井様から手紙を頂きました。下手人探しが打ち止めになってしまい申し訳ない。だが、決してこれで終わりにするつもりはないから、時が来るのを待ってくれと。私はその言葉を信じています。だから、あなたも諦めることはないと思います」
「そうか。百合が信じているなら、私も信じよう。悪事は必ず明らかになる、答えはみつかる」
「そうでございます。お代わりはいかがですか?」
「うん、頼む」
戸崎は苦笑いをしながら、
「藪をつついて蛇を出すなということか」
とつぶやくと、杯の酒を飲み干した。
「河内屋の件では、根岸廻りの大西さんと、分河内屋のある神田廻りの萩原さんにご助力いただきました。しかし、お梅は深川の出で、他に分河内屋の外腹の息子も住んでいるのですが、土井さんは深川廻りの中川さんを故意に蚊帳の外に置いています。」
「中川は、曰くがありすぎるからな。あいつは、八丁堀の外から中川家の養子に入った男なのだが、代々の書式係から、何故か深川廻りに抜粋された。先代の深川廻りが、捕り物で怪我を負って町廻りを降りた時、他にも適任の者はいたんだがね」
「誰か推す方がいたのですね」
「今の奉行所の中は、手っ取り早く言っちまえば二派に分かれててしまっていてね」
酒の入った戸崎は、両手を広げやじろべえのように体を揺らした。
「今は、こんな風に、どっちかに傾かないように慎重にやり取りしている」
「それで良いのですか?」
「よかねぇよ。ただ、土井さんや池田さんは、入り込んできた新しい力が何をするつもりなのか、見極められないでいるようだ。だから土井さんは、今度の河内屋の件みたいな、はっきりしない探索には、中川を関わらせるわけにはいかないと考えられたんだろう」
戸越は、真輔の杯に酒を注ぎ、更に自分の杯も満たした。真輔は、杯の中の酒を見つめながら、中川の顔を思い出そうとしたが、はっきりしない。戸越にそう伝えると、
「会ってないのかもしれないな。あいつは、滅多に奉行所に顔を出さない」
「私が町廻りを拝命したのも、釣り合いを取るためなんでしょうか」
「笠原のおじさんが亡くなられて、大きく傾くところを食い止めてくれたと思っているよ」
「義父上の死にも奉行所内のことが関係あるのでしょうか?」
「それは、わからねぇ。でも、下手人の探索を止めたのは、あっち方の力だ」
自分で持ち込んだ酒をあらかた自分で飲むと、戸越は百合の前でもやじろべえの真似をしながら、家に帰って行った。
「お義兄さまはご機嫌だったけれど、あなたは難しいお顔をされているのですね」
「私は、考えていることが顔に出過ぎだな」
「私はその方が…」
「えっ?」
「お義兄さまも、お姉さまの前ではわかりやすいそうですよ」
真輔は、それでも、戸崎は、家では仕事の重荷は陽気な笑顔の下に隠しいるのだろうと思った。