真夜中の涙
文字数 1,883文字
お梅の死んだ日、真輔が八丁堀の家に帰ったのは深夜になっていた。夕立のなかった夏の夜は風もなく、よどんだような暑い大気が疲れた体にまとわりつくようだった。門に着くと、玄関に行灯のほのかな灯りがともっているのが見える。近づくと、入り口の間に座った百合が柱にもたれて眠っていた。それを見た瞬間に、真輔は沈んだ気持ちも、疲れも、少し軽くなったような気がした。百合の前に立ち、そっと肩に触れる。
「あっ、お帰りなさいませ」
「待っていてくれたのか。すまない」
「寝てしまっていました」
百合は真輔から刀を受け取りながら、首をすくめた。
「佐吉から、人が亡くなって捕り物があったと聞きました」
先に帰した中元の佐吉が、差しさわりのない範囲で百合に伝えていた。
「うん、かわいそうな娘が亡くなった。殺されたわけではないのだが…」
「何か事情があったのですね」
「うん」
「お疲れでしょう。お食事は?」
「いい」
「では、せめて汗を流してお休みください」
百合に背中を押されるように、真輔は小さな内湯に向かった。湯はまだ十分熱く、頭からかけ湯をすると、汗と埃が流れ落ちて行く。戸が開く音がして、眼鏡を外した真輔の視界に、湯気の奥から人の形がぼんやりと映った。
「お背中を流しましょう」
百合の声がして、真輔の返事を待たずに背中をぬか袋でこすり出した。背中を流すと、濡れた髷の元結を外して髪を梳き、肩に手ぬぐいを置くと慣れた手つきでもみだした。ぼんやりとされるがままになっていた真輔は、いつのまにか自分が泣いていることに気が付いた。涙は止まらず、百合の手が触れている肩が震える。真輔は、みっともない、泣いていることがわかってしまう、と思っても、声を押さえるのがやっとであった。その時、肩をそっと包まれた。百合が背中から手を回し、震える真輔の肩を抱きしめていた。真輔はその手に自分の手を重ねると、寄り添ってくれる百合の暖かさを感じながら号泣していた。
風呂から上がると、真輔は布団に倒れこむようにして、眠りに引き込まれていった。百合は枕元で真輔の濡れた髪を拭きながら、まだ目元に赤みの残る寝顔を見つめていた。玄関でうたたねから起こされた時に見た真輔は、ぼろ布のようにくたびれて見えた。汗と埃は風呂で洗い流せる。体の疲れは一晩眠れば回復するだろう。でも、心は…。
百合は、真輔の持つ、父とは違う繊細さを気遣っていた。風呂場では、目の前で震える肩を、心の痛みに耐えかねる姿を愛しいと思う衝動に突き動かされ、思わず自分から抱きしめてしまった。そのことを思い出すと、頬が赤らむ。心の中で真輔に語りかけた。
「(はしたないことをすると思いましたか?でも、あなたも泣いている私の肩を抱き寄せてくれましたよね。ねえ、こうして気持ちを見せ合えば、心の痛みを分かち合って、辛いことも二人で乗り越えていけるかもしれませんね)」
百合は、自分が真輔の助けになることができるかもしれないと思い、胸の中に静かな波のように嬉しさが広がるのを感じた。
翌朝、百合の父の代から出入りしている髪結いが、真輔の洗い髪を念入りに結い上げた。髪結いは、帰り際に百合に囁いた。
「笠原様はこの頃また精悍なお顔になられて、子銀杏が一段とお似合いです。眼鏡を取ったお顔が、ご家族とあっしぐらいしか見れないのが、残念で」
「私が見れるのだから、よろしいでしょう。」
百合は長い付き合いの髪結いを、軽くにらんだ。
「こいつは失礼いたしました。それは、そうでございますね」
髪結いを返して部屋に戻ると、真輔はすでに着替え終わっていた。百合が刀を渡しながら、
「今日はお早いのですね」
と問うと、
「うん、昨日の始末がまだ残っている」
と答えると、少しうつむきながら続けた。
「昨夜は、みっともない姿を見せてしまった。面目ない」
「そんなことはありません。私は、あなたにどんな姿でも見せていただきたいです」
「え…」
「あなたが私の重い荷物を軽くしてくださったように、私にもあなたの荷物を分けていただきたいのです」
真輔の顔に、昨夜の帰宅以来、初めての笑顔が浮かんだ。
「ありがとう。でも、やはりすこし面目ないかな。昨夜はあなたを近くに感じた途端に、気が緩んで…」
百合も笑顔になった。
「私も、はしたなく思われないかと少し心配しました」
「まさか。そんなことはない。嬉しかったんだ」
朝食の席で暗い顔をしていた真輔が、笑顔で百合と会話しながら部屋から出てきたので、佐吉とおまつもほっとした。空は晴れ渡って、今日も暑くなりそうである。
「あっ、お帰りなさいませ」
「待っていてくれたのか。すまない」
「寝てしまっていました」
百合は真輔から刀を受け取りながら、首をすくめた。
「佐吉から、人が亡くなって捕り物があったと聞きました」
先に帰した中元の佐吉が、差しさわりのない範囲で百合に伝えていた。
「うん、かわいそうな娘が亡くなった。殺されたわけではないのだが…」
「何か事情があったのですね」
「うん」
「お疲れでしょう。お食事は?」
「いい」
「では、せめて汗を流してお休みください」
百合に背中を押されるように、真輔は小さな内湯に向かった。湯はまだ十分熱く、頭からかけ湯をすると、汗と埃が流れ落ちて行く。戸が開く音がして、眼鏡を外した真輔の視界に、湯気の奥から人の形がぼんやりと映った。
「お背中を流しましょう」
百合の声がして、真輔の返事を待たずに背中をぬか袋でこすり出した。背中を流すと、濡れた髷の元結を外して髪を梳き、肩に手ぬぐいを置くと慣れた手つきでもみだした。ぼんやりとされるがままになっていた真輔は、いつのまにか自分が泣いていることに気が付いた。涙は止まらず、百合の手が触れている肩が震える。真輔は、みっともない、泣いていることがわかってしまう、と思っても、声を押さえるのがやっとであった。その時、肩をそっと包まれた。百合が背中から手を回し、震える真輔の肩を抱きしめていた。真輔はその手に自分の手を重ねると、寄り添ってくれる百合の暖かさを感じながら号泣していた。
風呂から上がると、真輔は布団に倒れこむようにして、眠りに引き込まれていった。百合は枕元で真輔の濡れた髪を拭きながら、まだ目元に赤みの残る寝顔を見つめていた。玄関でうたたねから起こされた時に見た真輔は、ぼろ布のようにくたびれて見えた。汗と埃は風呂で洗い流せる。体の疲れは一晩眠れば回復するだろう。でも、心は…。
百合は、真輔の持つ、父とは違う繊細さを気遣っていた。風呂場では、目の前で震える肩を、心の痛みに耐えかねる姿を愛しいと思う衝動に突き動かされ、思わず自分から抱きしめてしまった。そのことを思い出すと、頬が赤らむ。心の中で真輔に語りかけた。
「(はしたないことをすると思いましたか?でも、あなたも泣いている私の肩を抱き寄せてくれましたよね。ねえ、こうして気持ちを見せ合えば、心の痛みを分かち合って、辛いことも二人で乗り越えていけるかもしれませんね)」
百合は、自分が真輔の助けになることができるかもしれないと思い、胸の中に静かな波のように嬉しさが広がるのを感じた。
翌朝、百合の父の代から出入りしている髪結いが、真輔の洗い髪を念入りに結い上げた。髪結いは、帰り際に百合に囁いた。
「笠原様はこの頃また精悍なお顔になられて、子銀杏が一段とお似合いです。眼鏡を取ったお顔が、ご家族とあっしぐらいしか見れないのが、残念で」
「私が見れるのだから、よろしいでしょう。」
百合は長い付き合いの髪結いを、軽くにらんだ。
「こいつは失礼いたしました。それは、そうでございますね」
髪結いを返して部屋に戻ると、真輔はすでに着替え終わっていた。百合が刀を渡しながら、
「今日はお早いのですね」
と問うと、
「うん、昨日の始末がまだ残っている」
と答えると、少しうつむきながら続けた。
「昨夜は、みっともない姿を見せてしまった。面目ない」
「そんなことはありません。私は、あなたにどんな姿でも見せていただきたいです」
「え…」
「あなたが私の重い荷物を軽くしてくださったように、私にもあなたの荷物を分けていただきたいのです」
真輔の顔に、昨夜の帰宅以来、初めての笑顔が浮かんだ。
「ありがとう。でも、やはりすこし面目ないかな。昨夜はあなたを近くに感じた途端に、気が緩んで…」
百合も笑顔になった。
「私も、はしたなく思われないかと少し心配しました」
「まさか。そんなことはない。嬉しかったんだ」
朝食の席で暗い顔をしていた真輔が、笑顔で百合と会話しながら部屋から出てきたので、佐吉とおまつもほっとした。空は晴れ渡って、今日も暑くなりそうである。