夫婦
文字数 2,190文字
「(与左衛門さんの死が、因果応報…)」
思いもかけない重い言葉が、河内屋のおかみ、康江の口から出てきた。その言葉は一瞬、真輔の耳から激しい蝉の鳴声すらかき消した。それは、主人与左衛門の死からずっと、いや、それ以前から康江の胸にあった思いが、ふとこぼれたようだった。
「(やはり、自分以外の女に子供を作ったことに腹を立てていた、夫を恨んでいたのか…)」
真輔は姿勢を正して康江を見つめた。こぼれた言葉を真輔に拾われて、康江は動揺しているようである。その時、外の蝉の鳴声が一段と高く、大きくなった。それは、まるで、その先の話を康江に促すかのように、風の代わりに座敷に渦巻いていた。
最初に与左衛門が康江にお梅の話をしたのは、ひと月半ほど前のことであった。嫁に来て七年、子供が出来ない康江に、与左衛門も姑の芳香もやさしく責められたことは一度もなかった。それどころか、康江の甥の正弥に目を掛け、正弥も河内屋の人たちと馴染み、養子にという暗黙の了解ができていたはずだった。
だから、それは、康江には思いもよらぬことで、目の前で手を付き、頭を下げて事の次第を言いよどむ与左衛門を前に、康江の心の臓は早鐘のように打った。しかし、武士の娘である康江はきっぱりと言った。
「それでは、私を離縁して下さい。」
慌てて顔を上げた与左衛門は、激しく首を振り、康江の両腕をつかむと「頼む、話を聞いてくれ」とすがって来た。康江よりも一回り年上の与左衛門は、康江と夫婦になるまでは、大店の跡取りとしてそれなりに遊んで来た。一、二年、付き合いが続いた相手もいたが、子供が出来ることはなく、自分は子供を作れないのかも知れないという不安があったという。康江と一緒になって七年、仲睦まじくやって来たのに、やはり子供は出来なかった。
与左衛門は、自分には子供ができないことの証(あかし)を立てたくて、吉次の紹介で何人かの芸者と寝たと、告白した。そして、お梅を相手にして子供が出来なければ、本当に子種がないことになると言う吉次の言葉に、これで本当に証しが立つと思っていたと。
しかし、万が一つの出来事が起き、お梅は懐妊した。
「主人は、馬鹿げた事をしたと、泣いて謝りました。私は武家の出でございますので、大の男が泣きながら悔む姿に、最初は当惑致しました。でも、私が跡継ぎを授からないのは、自分のせいだとはっきりさせたかった、自分のせいでお前が世間に揶揄されるのが辛かったのだと。主人は、心の内を何もかも正直に、自分の弱さ、愚かさを私にさらけ出して話しました。私は、主人や義母が受け入れてくれているのに、世間の人の後ろ指など気にはすまいと思っていましたが、主人の言葉は嬉しゅうございましたし、その弱さを愛おしいとも思いました。」
康江の目尻から、ひとしずくの涙がこぼれた。
「それで、お梅さんを受け入れたのですね。」
「万が一つが起きてしまったと、主人は悔んでおりました。そして、お梅さんが身二つになったら、赤子は養子に出し、お梅さんには一生困らないだけのものを渡して縁を切るつもりだと、言われました。亡くなった日、主人はお梅さんに、この話をするために行ったのです。これを最後に顔を合わせることもないと言うので、それがようございましょうと言いました。」
康江は、与左衛門が語った、お梅の子供を河内屋に入れない理由を口にしなかった。だが、真輔は、与左衛門はお梅の資質を受け継ぐかもしれない子供を、河内屋に入れる危険をおかそうとはしなかったのだろうと察しがついた。
「笠原様、主人の気持ちが少しもお梅さんに向いていないと知って、私はお梅さんを憐れみました。受け入れたのではなく、可哀そうだから施しをするような気持ちだったのです。お梅さんの気持ちなど、微塵も気遣わず、慢心しておりました。」
康江は、開けられた障子の先に、この部屋からは見えない離れを探すように振り向き、うなだれた。康江は自分のお梅への仕打ちが、お梅を怒らせ、与左衛門の死を招いたと考えていた。
「因果応報の因は、あなたではありません。ですから、ご自分を責めてはいけません。」
真輔のきっぱりとした言葉を聞いて、顔を上げた康江の目は涙で溢れていた。
「与左衛門さんが亡くなった不幸の中でも、康江さんは、お店のため、家族のために尽くしておられる。良い意味での因果応報が訪れると、私は信じています。」
真輔の胸の内には、康江の話を聞いている間に、ひとつの推測ができあがりつつあった。それを証明するために、まだ積み上げなくてはならない事実がある。今は、まだそれを話せないもどかしさを覚えながら、何とか康江を元気づけようとしていた。
河内屋を離れると、佐吉が独り言のようにつぶやいた。
「男ってのは、馬鹿でございますね。」
「話が聞こえたか?」
「申し訳ありません、障子が開いていたもので、大方聞こえてきてしまって。」
「かまわないよ。」
「河内屋のおかみさんは大丈夫ですよ。」
「そうかな。そうだと良いな。」
「与左衛門さんが全部さらけだして、おかみさんはそれを受け止めたんですから。」
「それは夫婦だからかできたのかな…」
「そういうこともございましょう。」
自分が心の弱さをさらけ出したら百合は受け止めてくれるのだろうか、今一つ、自信が持てない真輔だった。
思いもかけない重い言葉が、河内屋のおかみ、康江の口から出てきた。その言葉は一瞬、真輔の耳から激しい蝉の鳴声すらかき消した。それは、主人与左衛門の死からずっと、いや、それ以前から康江の胸にあった思いが、ふとこぼれたようだった。
「(やはり、自分以外の女に子供を作ったことに腹を立てていた、夫を恨んでいたのか…)」
真輔は姿勢を正して康江を見つめた。こぼれた言葉を真輔に拾われて、康江は動揺しているようである。その時、外の蝉の鳴声が一段と高く、大きくなった。それは、まるで、その先の話を康江に促すかのように、風の代わりに座敷に渦巻いていた。
最初に与左衛門が康江にお梅の話をしたのは、ひと月半ほど前のことであった。嫁に来て七年、子供が出来ない康江に、与左衛門も姑の芳香もやさしく責められたことは一度もなかった。それどころか、康江の甥の正弥に目を掛け、正弥も河内屋の人たちと馴染み、養子にという暗黙の了解ができていたはずだった。
だから、それは、康江には思いもよらぬことで、目の前で手を付き、頭を下げて事の次第を言いよどむ与左衛門を前に、康江の心の臓は早鐘のように打った。しかし、武士の娘である康江はきっぱりと言った。
「それでは、私を離縁して下さい。」
慌てて顔を上げた与左衛門は、激しく首を振り、康江の両腕をつかむと「頼む、話を聞いてくれ」とすがって来た。康江よりも一回り年上の与左衛門は、康江と夫婦になるまでは、大店の跡取りとしてそれなりに遊んで来た。一、二年、付き合いが続いた相手もいたが、子供が出来ることはなく、自分は子供を作れないのかも知れないという不安があったという。康江と一緒になって七年、仲睦まじくやって来たのに、やはり子供は出来なかった。
与左衛門は、自分には子供ができないことの証(あかし)を立てたくて、吉次の紹介で何人かの芸者と寝たと、告白した。そして、お梅を相手にして子供が出来なければ、本当に子種がないことになると言う吉次の言葉に、これで本当に証しが立つと思っていたと。
しかし、万が一つの出来事が起き、お梅は懐妊した。
「主人は、馬鹿げた事をしたと、泣いて謝りました。私は武家の出でございますので、大の男が泣きながら悔む姿に、最初は当惑致しました。でも、私が跡継ぎを授からないのは、自分のせいだとはっきりさせたかった、自分のせいでお前が世間に揶揄されるのが辛かったのだと。主人は、心の内を何もかも正直に、自分の弱さ、愚かさを私にさらけ出して話しました。私は、主人や義母が受け入れてくれているのに、世間の人の後ろ指など気にはすまいと思っていましたが、主人の言葉は嬉しゅうございましたし、その弱さを愛おしいとも思いました。」
康江の目尻から、ひとしずくの涙がこぼれた。
「それで、お梅さんを受け入れたのですね。」
「万が一つが起きてしまったと、主人は悔んでおりました。そして、お梅さんが身二つになったら、赤子は養子に出し、お梅さんには一生困らないだけのものを渡して縁を切るつもりだと、言われました。亡くなった日、主人はお梅さんに、この話をするために行ったのです。これを最後に顔を合わせることもないと言うので、それがようございましょうと言いました。」
康江は、与左衛門が語った、お梅の子供を河内屋に入れない理由を口にしなかった。だが、真輔は、与左衛門はお梅の資質を受け継ぐかもしれない子供を、河内屋に入れる危険をおかそうとはしなかったのだろうと察しがついた。
「笠原様、主人の気持ちが少しもお梅さんに向いていないと知って、私はお梅さんを憐れみました。受け入れたのではなく、可哀そうだから施しをするような気持ちだったのです。お梅さんの気持ちなど、微塵も気遣わず、慢心しておりました。」
康江は、開けられた障子の先に、この部屋からは見えない離れを探すように振り向き、うなだれた。康江は自分のお梅への仕打ちが、お梅を怒らせ、与左衛門の死を招いたと考えていた。
「因果応報の因は、あなたではありません。ですから、ご自分を責めてはいけません。」
真輔のきっぱりとした言葉を聞いて、顔を上げた康江の目は涙で溢れていた。
「与左衛門さんが亡くなった不幸の中でも、康江さんは、お店のため、家族のために尽くしておられる。良い意味での因果応報が訪れると、私は信じています。」
真輔の胸の内には、康江の話を聞いている間に、ひとつの推測ができあがりつつあった。それを証明するために、まだ積み上げなくてはならない事実がある。今は、まだそれを話せないもどかしさを覚えながら、何とか康江を元気づけようとしていた。
河内屋を離れると、佐吉が独り言のようにつぶやいた。
「男ってのは、馬鹿でございますね。」
「話が聞こえたか?」
「申し訳ありません、障子が開いていたもので、大方聞こえてきてしまって。」
「かまわないよ。」
「河内屋のおかみさんは大丈夫ですよ。」
「そうかな。そうだと良いな。」
「与左衛門さんが全部さらけだして、おかみさんはそれを受け止めたんですから。」
「それは夫婦だからかできたのかな…」
「そういうこともございましょう。」
自分が心の弱さをさらけ出したら百合は受け止めてくれるのだろうか、今一つ、自信が持てない真輔だった。