雲厳寺

文字数 4,527文字

雲厳寺
 栃木県大田原市には「黒羽芭蕉の館」や「芭蕉公園」といった芭蕉来訪を記念した施設があり、句碑も建てられている。ただ、芭蕉がこの地にやって来たが本来の目的の場所である雲厳寺言は様子が異なる。雲厳寺には芭蕉の足跡はそうした形で残されていない。この寺院は日本禅宗4大道場の一つである。修業の場であり、観光など考えていない。ストリートビューも歩くのではなく、画像の確認にとどまる。

 日光と違い、人の姿はない。陽の反射により緑が光り輝く中、朱塗りのそり橋「瓜鉄橋」が子孫繁栄を願っている。その先に何段あるのか数えるのが嫌になる石段が控えている。石段の上で待ち構えている山門は古く、巨大で威圧感さえある。芭蕉が来訪した頃にすでにあったであろう杉らしき巨木も山門の向こう側に姿を見せている。一方で、沿道や庭園の植物はきれいに手入れされ、心朗らかにさせてくれる印象だ。山門の内側も木や花は丁寧に整備されているが、それらに囲まれた木造の歴史の重さを感じさせる建築物は仏頂面をしているようで、ここがあくまで厳しい修行の場だと痛感させられる。

 ここはかつて仏頂和尚が修行した寺である。芭蕉は尊敬する和尚縁の寺院ということでわざわざ訪れている。ただし、芭蕉は「雲岸寺」と記している。

当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
竪横の五尺にたらぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば
と松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人〃すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて谷道遥に、松杉黒く苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。

さてかの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。

 木啄も庵はやぶらず夏木立

と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。

 芭蕉は、1680年(延宝8年)、深川に転居する。この深川で芭蕉は出家し、仏頂和尚に印可を受けている。仏頂和尚は臨済宗妙心寺派の根本寺(現茨城県鹿嶋市)の第21代住職で、芭蕉より3歳年長である。鹿島神宮との間で領地争いがあり、訴訟のため、江戸にしばしば滞在している。その際、根本寺の末寺だった深川の臨川庵(臨川寺)に宿泊する。臨川寺は芭蕉庵に近く、芭蕉は参禅に訪れ、和尚に教えを乞うている。芭蕉は非常に尊敬しており、『おくのほそ道』以前にも、『鹿島詣』の旅で和尚に会いに行っている。

 仏頂和尚が芭蕉にとって師であるのは、俳諧に理論的基礎を与えてくれたからである。その理由は芭蕉のこれまでを辿ると、明らかになる。

 芭蕉は、1644年、伊賀国(現三重県伊賀市)に生まれる。この生年に関して寛永21年もしくは荘保元年と伝記に記されるのは詳しい月日が不明だからだ。阿拝郡柘植郷(現伊賀市柘植)の土豪一族出身の松尾与左衛門の次男で、幼名は金作である。兄妹は兄1人と姉1人、妹3人がいる。苗字帯刀を許されていたが、与左衛門の身分は武士ではなく、農民である。

 1656年(明暦2年)、13歳の時に父が亡くなり、 兄の半左衛門が家督を継ぐ。芭蕉は、1662年(寛文2年)、伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の嗣子である主計良忠に仕える。2歳年上の良忠は蝉吟という俳号を持つ俳諧の愛好家で、京都に住む貞門派の北村季吟に師事している。芭蕉は良忠の俳諧の相手や京都との連絡役をさせられ、自身も季吟に弟子入りすることになる。最初の俳号は「宗房(そうぼう)」である。当時、芭蕉は「松尾忠衛門宗房」を名乗っている。武家社会において個人名で呼ぶことができたのは親のみであり、芭蕉のようなパシリにも「忠衛門」の通称が与えられている。芭蕉の本名は「松尾宗房(むねふさ)」で、個人名を音読みしただけの俳号である。俳聖は上司の接待から生まれたというわけだ。

 連歌においては奈良の存在感も無視できない。伊賀上野はその奈良に近く、そうした背景も考慮する必要があるが、季吟が若き芭蕉には決定的である。季吟は貞門派に属する俳諧師である。京都は貴族文化の伝統があり、古典教養が重んじられる。季吟の古典主義は芭蕉の俳諧の基礎となる。

 古典をずらすにはそれを知る必要がある。北村季吟は、そのため、古典を熱心に勉強している。背景には出版産業の勃興がある。木版印刷が発達したことにより、従来貴族や僧侶など一部のエリートしか触れることのできなかった日本や中国の古典を武士や町人、富農なども読めるようになる。加えて、その解説本や偉人の評伝も出版される。また、撰集も印刷出版することにより、地方にも愛好家を開拓できる。こうした古典の民主化の下で貞門派の方法論が可能になっている。季吟に師事した芭蕉も彼の古典に対する姿勢を受け継ぐ。古典から縦横無尽に引用するスタイルはこの歴史的・社会的背景の下での修行時代に培われたものである。

 貴族文化の伝統がある京都に対して、商都の大阪では、連歌師の西山宗因らを中心にして談林派が盛んになっている。作風は「心付」と呼ばれ、和歌や連歌などが使わない漢語や俗語、流行語などを大胆に採用し、より諧謔的な表現を追求する。貞門派が江戸俳諧の第1世代とすると、同派は第2世代に当たる。宗因の他、菅野谷高政や田代松意らが活躍している。後に浮世草子作者で成功する井原西鶴も談林派の俳諧から出発している。

 西鶴は1642年(寛永19年)頃に生まれ、 1693年(元禄6年)に亡くなっているので、芭蕉と同じ時期の作家である。芭蕉は西鶴の能力を認めつつも、『去来抄』によると、彼の俳諧を「浅ましふ下れる姿」と評している。これは両者の文学観の違いによるだろう。芭蕉は俳諧を和歌と並ぶ文芸ジャンルに高めるための芸術性を追い求めている。他方、西鶴は浮世の人情を描こうとしたのであり、世俗にまみれることを厭わない。それには美だけでなく、醜も描かなければならない。西鶴の目指す者には物語が不可欠で、俳諧から離れたことは必然的である。

 この談林派に代わって俳諧のヘゲモニーを獲得するのが、芭蕉の蕉風である。芭蕉は江戸俳諧の第3世代に当たる。消耗品だった俳諧が集積化・古典化を経て芸術と認知されたのは個々からだ。近現代の俳句の直接的起源はこの第3世代に遡れる。

 1666年(寛文6年)、良忠が病により他界する。これにより、芭蕉は仕官の道を諦め、不安定な立場になる。ただ、その後も芭蕉は自分や良忠の句を貞門派の撰集へ投稿することを続けている。1672年(寛文12年)、29歳の芭蕉はデビュー作『貝おほひ』を菅原道真を祀る上野天神宮に奉納し、俳諧師として生きていく決心を固める。これは30番の発句合で、小唄や六方詞など流行語を軽妙に取り入れており、貞門派よりも談林派に近い著作である。当時の芭蕉は談林派を知らなかったので、俳諧の第2世代の意識が同時代的に共有されていたと考えるべきだろう。また、1674年(延宝2年)、季吟から俳諧作法書『俳諧埋木』が伝授される。これは、言わば、季吟学校の卒業証書である。さらに、同年、藤堂家の当主が没する。これらを機に、芭蕉は江戸に旅立つ。

 江戸に来てからの芭蕉の詳しい足取りは不明である。わかっていることとしては、俳人たちと交流し、江戸俳壇の有力者である磐城平藩主内藤義概のサロンに出入りするようになっていることだ。また、1675年(延宝3年)5月に西山宗因を迎えて開催された興行の九吟百韻に参加、初めて触れた談林派の俳諧に刺激を受けている。この時初めて「桃青」の号を用いている。

 芭蕉は、34歳の頃に俳諧師として自立、36歳で江戸・大坂・京都の三都の18人に選ばれている。ただ、当時の作品は言葉遊びの域を出ず、あくまで今話題の俳諧師の一人にすぎない。

 芭蕉は、1677年(延宝5年)、水戸藩邸の防火用水として神田川を分水する工事に携わっている。職務内容は現場労働者や設計技術者ではなく、事務職である。就職の理由は定かではない。また、俳諧師として点者の仕事をしている。日本橋の旦那衆の間で俳諧が流行、座興と楽しまれている。芭蕉はそうした場に呼ばれ、彼らがうまく作れるように助言し、それらを評点して優劣をつけている。ただ、芭蕉はこういった営業が嫌だったようで、「座興庵」と署名することもあったという。この頃、芭蕉は現在文京区関口にある「関口芭蕉庵」の辺りに住んでいる。

 こうした生活をしていた芭蕉が1680年に深川に転居する。当時の深川は両国橋の完成から発展した新興の地区で、なぜ移ったのかはわかっていない。点者に呼ばれることはなくなり、弟子から授業料ないし志を受け取って生計を立てざるを得ない。ただ、弟子を取るにはロケーションがよくない。この地では自分の俳諧を見つめ直したり、古典を学習したりする時間が増えたことは間違いない。

 芭蕉は貞門派から出発し、談林派の影響を取り込みながら、これまで俳諧師としての活動を続けてきたが、独自の方法論が確立できていない。さまざまな古典を踏まえつつ、芸術性と娯楽性を統合し和歌に並ぶ文芸ジャンルとして俳諧を世間に認知・浸透させる。それには従来の姿勢では限界がある。

 芭蕉は俳諧の理論の必要性を痛感したことだろう。俳諧は周縁のジャンルであり、それが中心に立つためには理論武装しなくてはならない。真に自立した芸術であるには古典化の後には理論化が必須だ。理論がなければ、基準は暗黙知にすぎず、創作・鑑賞する際にも、人格化された評価にとどまってしまう。一方、理論は理解を共有できる。それに基づいて創作・鑑賞すれば、都市から遠く離れた地方であっても、俳諧を行える。また、それを共にする知縁のネットワークにより相互交流が生まれ、俳諧が活性化する。

 俳諧の基礎づけのための理論を模索している時に出会ったのが仏頂和尚だったと思われる。芭蕉は、新たな俳諧創出に向けて、深川生活から俗世から距離を取った漂泊の古の詩人を模範としたことはうかがえる。しかし、そこに基礎づける理論がなければ、新たな展開がない。俳句は5・7・5によって構成されている。これで何かを詠むには、足し算ではなく、引き算の認識が必要である。典拠はもちろん、省略や飛躍を用いて、語句を圧縮する。豊かさではなく、貧しさの中に美を見出すことになる。そこで「詫び」、すなわちわびしさの発想が求められる。この理論的基礎づけを芭蕉は和尚から得る。

 芭蕉は和尚から禅は言うに及ばず、同郷も真名でいる。影響は、むしろ、前者より後者の方が強い。荘子の述語である「造化」の援用がそれを端的に示している。万物は造化の中にある。俳諧はそれを受けとめなければならない。なぜ詫びが美であるのかはこの造化によって意味づけられる。すべてが移り行く巡行において変わらぬものの本質を認識する。本質はさまざまなものを取り払い、研ぎ澄ました貧しさの中にある。それは世間がいまだ知らない、あるいは見落としているものである。芭蕉の風雅がそこにある。
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