佐藤庄司が旧跡
文字数 684文字
佐藤庄司が旧跡
福島県福島市平石に石那坂古戦場跡がある。ストリートビューで確認すると、辺りは低い山の前に田園が広がり、その中をセンターラインのない道路が走っている。これは信夫庄佐藤一族に縁がある。彼らは奥州藤原氏の一族であると同時に、家臣でもある。佐藤一族の中で最も有名なのは、源義経の従者佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)の兄弟である。2人は義経に従い、平家打倒に臨む。しかし、継信は屋島の戦いで義経をかばって戦死する。平家滅亡後、忠信は、頼朝に追われた義経を逃がし、自分は京都に潜伏したものの、見つかり自害している。
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て尋尋行に、丸山と云に尋あたる。是庄司の旧館なり。梺に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす。
笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月朔日の事也。
佐藤庄司は佐藤基治(もとはる)の別名である。彼は佐藤継信・忠信の父である。石那坂(いしなざか)で頼朝軍の常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)の息子らに敗北する。石那坂古戦場跡はこの石那坂の合戦に由来している。佐藤一家を記した石碑のある医王寺に義経の太刀や弁慶の笈(背中に背負う箱)が保管されている。この章は「平泉」の伏線の一つである。ちなみに、西行の本名は佐藤義清(のりきよ)である。
福島県福島市平石に石那坂古戦場跡がある。ストリートビューで確認すると、辺りは低い山の前に田園が広がり、その中をセンターラインのない道路が走っている。これは信夫庄佐藤一族に縁がある。彼らは奥州藤原氏の一族であると同時に、家臣でもある。佐藤一族の中で最も有名なのは、源義経の従者佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)の兄弟である。2人は義経に従い、平家打倒に臨む。しかし、継信は屋島の戦いで義経をかばって戦死する。平家滅亡後、忠信は、頼朝に追われた義経を逃がし、自分は京都に潜伏したものの、見つかり自害している。
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て尋尋行に、丸山と云に尋あたる。是庄司の旧館なり。梺に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす。
笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月朔日の事也。
佐藤庄司は佐藤基治(もとはる)の別名である。彼は佐藤継信・忠信の父である。石那坂(いしなざか)で頼朝軍の常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)の息子らに敗北する。石那坂古戦場跡はこの石那坂の合戦に由来している。佐藤一家を記した石碑のある医王寺に義経の太刀や弁慶の笈(背中に背負う箱)が保管されている。この章は「平泉」の伏線の一つである。ちなみに、西行の本名は佐藤義清(のりきよ)である。