天竜寺・永平寺

文字数 942文字

天竜寺・永平寺
 永平寺も天竜寺も福井県吉田郡永平寺町にある。両者共に曹洞宗の寺院であるが、永平寺は大本山である。ストリートビューに永平寺の画像は非常に多い。春夏秋の風景や建物内部の様子もわかる。周囲を歩くと、参拝客を相手にした食堂や土産物屋が見え、人通りもある。他方、天龍寺には芭蕉の石像や石碑があるはずだけれども、見つからない。歩いても、人と出会わないが、墓地は確認できる。

 一人旅ではあるけれども、芭蕉には地元の人が時々旅に随行してくれる。前近代において文芸は自己表現ではなく、共同体の美意識を交歓し、社会関係資本の蓄積に寄与する。文芸において古代が和歌、中世が連歌だったとすれば、近世は俳諧の時代である。教養を共有した貴族が洗練さを始めとする美意識を和歌により交歓する。また、戦に備えて一体感を共有する武士が大勢で集い、連歌がその紐帯を強める。俳諧は、太平の世に、出版産業を背景に都市を中心に地方へのネットワークも広がり、庶民も楽しむ。芭蕉が地元の人と歩きながら、句について交歓する光景はまさに江戸時代ならではの文芸の在り方である。

丸岡天竜寺の長老古き因あれば尋ぬ。又金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此處までしたひ来る。所〃の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別に望みて、

 物書て扇引さく余波哉

五十丁山に入て永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも貴きゆへ有とかや。

 芭蕉を武芸者のような求道者と捉えることは適当ではない。芭蕉は農民の出身で、武士の世界に入りかけたけれども、事情により断念、俳諧師という専門職で生きていくことになる。江戸に出て、土木工事や俳諧を通じてさまざまな身分や境遇の人と出会う。さらに、各地を旅して歩き、多様な人々とめぐり会っている。こうした経歴は内向に没頭することを許さない。芭蕉は俗にまみれているわけではないが、我が道を行く孤高の人でもない。芭蕉は古典を踏まえ、平易な語彙を用いて創作する。古典の引用に関してプロは舌を巻き、やさしい言葉遣いにビギナーは親しみやすさを覚える。芭蕉の俳句はトップからボトムまで楽しめる。だから、芭蕉は後継者を育成、俳諧を広く普及させた教育者でもある。
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