日光

文字数 1,744文字

日光
 芭蕉はこの章の冒頭に「卯月朔日」、すなわち4月1日と記している。『おくのほそ道』には日付がわかる章とそうでない章がある。芭蕉は概して月の変わった時に日付に言及している。だから、日付けは物語の区切りの一つと理解できよう。白河の関迄の武蔵・上野が3月4月とまとまって捉えられる。この間において序や旅立ちと並んで、この「日光」が重要な賞である。

 序の「月日」は「月」と「日」の巡行を指している。「日光」は「日」である。出羽路において芭蕉は月山に登る。これは「月」である。「日光」=「日」と「月山」=「月」は対をなしている。芭蕉は日から月に向かって行く。その出羽三山登頂を通じて芭蕉は死と再生を象徴的に体験している。この旅路が造化の営みの中にあることがこうしたシンボルによって示されている。

卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを空海大師開基の時「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゞやきて恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。

 あらたうと青葉若葉の日の光

黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。

 剃捨て黒髪山に衣更
曾良

曾良は河合氏にして、惣五郎と云へり芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労をたすく。このたび松しま象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字力ありてきこゆ。

廿餘丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめて入て滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申傳え侍る也。

 暫時は瀧に篭るや夏の初

 芭蕉はこの章で同行者の曾良を紹介する。かの絵画によって芭蕉と親子ほど離れているイメージがあるけれども、曾良は5歳下であるだけで、この時、41歳である。芭蕉の46歳にかすみがちであるが、41歳でほぼ同じ行程を歩いているのだから、彼もかなりの健脚である。

 芭蕉は「河合曾良」と紹介している。だが、実際の彼の姓は「河西」である。『おくのほそ道』はロード・ムービーであり、事実を元にしながらも、改変したり、フィクションを付け加えたりしている。この曾良が随行日記『曾良旅日記』を記している。これは記録を目的としたメイキングで、実際の旅の様子を伝えている。曾良の日記により、『おくのほそ道』だけではわからない旅の日程や実態が明らかになるのみならず、芭蕉の制作意図を知る参考になっている。

 芭蕉は紀行文を5作品書いている。伊賀上野への旅を記した『野ざらし紀行』に始まり、根本寺の前住職仏頂禅師に会いに行く『鹿島詣』、京都から江戸への帰路を描いた『更科紀行』、伊勢へ向かう『笈の小文』、最後の『おくのほそ道』である。芭蕉の紀行文についての認識がわかるのが『笈の小文』だ。「されども其の所々の風景心に残り、山館・野亭の苦しき愁(うれひ)も、かつは話の種となり、風雲のたよりとも思ひなして、忘れぬ所々跡や先やと書き集め侍る」。

 『おくのほそ道』の旅路を1689年9月上旬に終えた芭蕉は同年12月に京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごす。そこで芭蕉は『笈の小文』を執筆したとされる。内容は前の伊勢路であるが、思想には奥羽路の経験も影響しているだろう。

 芭蕉はこのように紀行文をたんなる旅の記録とはとらえていない。『土佐日記』以来の叙述と歌を組み合わせた形式を借りながら、自らのレトリックによって新たな風雅を展開してみせる。詞書で文脈を明示して、それを句によって象徴化する。こうした有機的な構造の物語がかつてない美意識を明らかにするから、事実に拘泥する必要はない。

 曲がりくねった道路をストリートビューで登っていく。広い日光山を闇雲に歩くわけにもいかない。そこで輪宝寺宝物殿に向かう。青い空が広がり、「日光」の漢字通り、道に影ができている。宝物殿の庭に「あらたうと青葉若葉の日の光」の芭蕉句碑がある。はずなのだが、見つけられない。これかと予想して石碑らしきものを拡大してみるけれども、日陰のせいか暗くて不鮮明だ。当然と言えば当然であるが、日光は必ずしも芭蕉の思いを引き継ぐことに積極的ではない。早々に立ち去ることにする。
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