草加

文字数 1,653文字

草加
 芭蕉が活動した17世紀後半は、4代家綱や5代綱吉の治世である。徳川家康が江戸に幕府を開いた頃と比べ、安定と発展が社会にもたらされ、耕地面積は2倍、人口も3倍近くにそれぞれ増加している。三都の中で最も人口規模が小さかった江戸も急膨張する。また、天下泰平の下で城下町が確立、参勤交代も恒例化して街道や宿場町が整備される。人・物・カネ・情報が交通インフラを通じて相互浸透し、都市と地方の間の文化交流も進む。芭蕉の旅はこうした歴史的・社会的背景が可能にしている。俳諧も京都・大阪・江戸の三都だけでなく、地方にもその流行が伝播する。芭蕉もこの知縁を通じて旅で社交を行っている。

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共耳にふれていまだめに見ぬさかひ若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた雨具墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。

 草加は日光街道の宿場町だ。宿場は五街道や脇往還における駅逓事務を取り扱うために整備された町場である。日光街道には21の宿場があり、草加宿は日本橋から出発して千住宿の次に当たる。幕府は、1603年(慶長8年)、草加地域の大半を直轄地とし、1630年(寛永7年)に草加宿を伝馬宿として認める。

 街道整備を構想したのは徳川家康である。関ケ原で勝利した家康は東海道から着手する。1601年(慶長6年)、品川から大津までの53駅と定め、「東海道五十三次」を計画している。宿場町は順次整備され、1624年(寛文元年)、最後の庄野宿が完成する。

 家康は日光街道の整備も計画している。その目的は日光山への参詣のためである。ただ、参詣の際のルートは必ずしも日光道中だけではなく、この街道は物流などの経済的な交通インフラとしての役割が少なくない。

 草加の街をストリートビューであれこれ寄り道してみると、瓦屋根の家など宿場町を思い起こさせるものがある。ただ、ほとんどの風景はここが草加ではなくとも目にするものだ。もっとも、普段はそうであったとしても、祭りでは宿場町のイメージがわくようなデコレーションやパフォーマンスが沿道に現われるのだろう。芭蕉は移り変わり行くものであっても、人間の努力によってそれを継承することもできるとこの旅で不易流行の思想を発見するが、それはまだ砂金話である。

 芭蕉は、旅する時、自身を古の漂泊の詩人に重ねるので、苦労の記述があったとしても、そのまま受け取る必要はない。確かに、旅は始まったばかりで、不安があることは理解できる。けれども、開通して半世紀以上も経った日光参詣の街道である。西行の頃と道路事情は雲泥の差だ。街道を始めとする交通インフラの整備があったからこそ芭蕉は10年間に亘って各地を旅して歩けたのであって、いささかの自己劇化があると芭蕉の話を聞く方がよい。そういう泣きよりも、選別の気持ちはありがたいけれども、旅には邪魔だと本音を漏らすことに芭蕉の魅力がある。

 日光街道は五街道の一つで、江戸から日光までの約140kmを結ぶ街道である。日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道は総称して五街道と呼ばれる。日光には東照大権現と祀られた徳川家康の墓があり、歴代将軍や諸大名の参拝のための道として1636年(寛永13年)に開通している。日光街道は宇都宮まで奥州街道と重複しており、その以南を前者、以北を後者として区別する。もともとこの区間には古道奥州道が通っていたが、幕府が日光道中を開通させたため、こういった状況になっている。現在の国道4号線は日光街道と奥州街道を母体にしている。ただ、国道4号線は当時の街道をそのまま通っておらず、ストリートビューでそこを進んでも、芭蕉の道程を辿れるわけではない。そのための道草が必要である。
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