越後路

文字数 2,027文字

越後路
 鼠の関の「越後路」から第4部に入る。芭蕉が言及しているように、越後・越中・加賀の行程である。また、最初の句に「文月」とあるので、期間は7月だ。

 鼠の関跡、すなわち鼠ヶ関跡は山形県鶴岡市にある。実は、鼠の関も、尿前の関同様、義経に関連している。ストリートビューで確認すると、芭蕉の頃とは若干位置が違うが、国道7号線沿いの山形県と新潟県の県境に石碑「史蹟念珠関址」がある。交通量も多いこの沿道には住宅も少なくなく、辺りにはガソリンスタンドもある。こうして見ると、関所の跡も各地によって扱いが異なるものである。

酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望、遥〃のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

 文月や六日も常の夜には似ず

 荒海や佐渡によこたふ天河

 「荒海や佐渡によこたふ天河」は芭蕉自身が気に入っていたことで知られている。「天河」、すなわち七夕の天の川であり、二つの間を引き裂くものである。「荒海」はその天井に流れる天の川のように、佐渡と越後を分かつ。その佐渡は古くからの流刑地である。古からの人の想いとそれを阻む自然の営みを描く。歴史や伝説を踏まえているが、特に古典を典拠にしているわけではない。

 ところで、芭蕉には痔の「持病」がある。しばしば歩行困難になるほどの痛みを覚えている。痔は、現代の日本ではウォシュレットの普及に伴い、激減している。芭蕉の死因は諸説あり、痔をそれと結びつけ、潰瘍性大腸炎とする説もある。しかし、腸結核の可能性もある。この説を主張している者はあまりいないが、理由を説明しよう。

 芭蕉の亡くなる1カ月半の状態は、支考の『芭蕉翁追善之日記』や其角の『芭蕉翁終焉記』を始め弟子の記録により明らかになっている。9月4日から句会が連続し、発熱と下痢の症状を示す。7日、伊賀上野を発ち、9日、大阪に到着し雨の中を移動、12日、句会開催、13日夕方、悪寒を覚える。14日、再び句会を開いたが、その後に発熱と頭痛、下痢が始まる。19日、発熱による震えや頭痛の続く中、句会を開き、病状悪化する。この状態が継続し、27日、園女宅で句会、その後に食事会、メニューはキノコを始め山海の珍味、芭蕉は食欲が回復している。28日、句会を開き、また容体悪化、29日、下痢により倒れる。

 芭蕉は、10月に入ると、連日1日20回以上の下痢が続く。悪寒や震えの他、虚脱や血行障害など下痢に伴う急速な脱水による症状を示す。5日に籠で移動、6日、小康状態を呈したものの、極度の脱水からしわくちゃの老人顔になっている。8日から下痢の回数はが減り、睡眠もよくとれたけれども、衰弱著しく、12日、芭蕉は永眠している。

 おそらく直接の死因は激しい下痢による極度の脱水と思われる。問題は下痢の原因である。

 胃腸病とよく言われるが、胃と腸は別の臓器であり、一緒くたにすることはできない。症状は腸に認められるので、通説の胃疾患は考えられない。また、食中毒という説は、下痢や発熱、悪寒の持続期間が長すぎる。さらに、食事を共にした弟子らに症状が見られないので、食べ物が原因とも考えにくい。加えて、当時の大阪で赤痢や腸チフスの流行の記録もない以上、この可能性も低い。

 潰瘍性大腸炎により痔を患うことは確かにある。先に挙げた芭蕉の症状は潰瘍性大腸炎の特徴に似ており、そのため、それが関連したのではないかとする死因の意見がある。潰瘍性大腸炎が腸内の免疫を低下させていたところに、何らかの感染症が発症したというストーリーである。その場合、類似した症状を示す腸結核の可能性を考慮に入れた方がよい。と言うのも、芭蕉には結核歴があるからだ。抗菌剤のない時代であり、腸結核として再発しても不思議ではない。

 腸結核は腸に結核菌が感染することで発症する疾病である。その部位で最初にはする原発性と他の臓器から転移する続発性がある。腹痛や発熱、下痢、下血、食欲低下、体重減少など他の腸炎と同様の症状が見られるが、無症状のこともある。加齢や病気、治療などにより免疫力が低下すると発症しやすくなる。

 甥の桃印が結核を患い、3人の子どもへの感染予防のため、1693年(元禄6年)2月、芭蕉は彼を庵に引き取る。芭蕉は熱心に看病し、前年の末から精力的に仕事をしたり、借金をしたりして治療費や薬代をねん出している。しかし、看病の甲斐なく、3月、桃印は亡くなり、芭蕉も体調を崩し、以後急速に弱っている。おそらく結核に感染したと思われる。結核の潜伏期間は半年以上であり、それとも合致する。京都御所の与力を辞職していた医師中村史邦が江戸に滞在、芭蕉は彼の診療を受け、回復に向かっている。ただ、以後、急速に衰えが目立つようになったと伝えられている。この結核が最終的に芭蕉の命を奪ったと思われる。
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