象潟

文字数 3,321文字

象潟
 象潟は能因法師や西行に縁があり、芭蕉はその訪問を心待ちにしている。その喜びは句の数からも察することができよう。芭蕉2句の他、曾良が2句、「みのゝ国の商人低耳」が1句と一つのパートだけで5句も収められている。

江山水陸の風光数を尽して今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて、其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して、雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて雨の晴を待。其朝、天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上こぐとよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。比處に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

 汐越や鶴はぎぬれて海涼し

祭礼

 象潟や料理何くふ神祭
曾良

みのゝ国の商人低耳

 蜑の家や戸板を敷て夕涼
 
岩上に雎鳩の巣をみる

 波こえぬ契ありてやみさごの巣
曾良

 芭蕉はこの章でも「松島」に触れている。しかし、先の感激はなく、冷ややかで、象潟の哀感、すなわちペーソスに好意的である。死と再生を経た芭蕉には、古典と決別したわけではないけれど、歌枕はもはや不要である。その新たな俳諧はペーソスを帯び、それが「軽み」ている。

 芸術は発展するに連れ、規範が蓄積されてくる。創作・鑑賞の際に、それを踏襲する必要がある。ところが、門外漢や初心者にとってそうした予備知識は負担、すなわち「重み」である。新陳代謝が起きにくくなり、「新しみ」が生じにくい。「新しみ」にはそうした「重み」を取り払った「軽み」において出現する。熟達社にとっても自身の認識を対象化することになり、新たな発想の糸口になる。ただ、従来の見方に囚われた者は拒否感があるに違いない。

 芭蕉最晩年の作風を象徴する概念が「軽み」である。それを具現しているのが『炭俵』である。この撰集は、『おくのほそ道』の推敲をしていたと思われる1693年10月、芭蕉が三井商店の手代らと編んだものである。芭蕉は彼らの世俗の感覚に新しさを認める。和歌など伝統的文芸が見落としてきた俗世の美を描く。『おくのほそ道』では、軽みは表現方法にとどまっているが、『炭俵』においては内容にも拡張されている。

 芭蕉は、1691年(元禄4年)4月から京都の嵯峨野に入り、向井去来の別荘である落柿舎に滞在、5月初頭に同じく京都の野沢凡兆宅に移る。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組んでいる。『猿蓑』とは奇妙なタイトルだ。芭蕉は、『おくのほそ道』の旅路を1689年9月上旬に大垣で終えた直後、参拝のため船で伊勢に行く。その後、伊賀へ向かう道中において「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」を詠んで『猿蓑』はこの句に由来し、芭蕉はその作品を巻頭に置いている。

 芭蕉の句風は『おくのほそ道』で変化し、弟子の去来はそれを受け、旅行以後の俳諧を代表する撰集を編む提案をしている。そこから始まったが、『去来抄』や『湖東問答』などによると、弟子たちの間で激しい議論があり、芭蕉の指導も極めて厳しかったようである。句集『猿蓑』には当時の蕉門の認める名句が収録されている。俳諧七部集の一つで、蕉門派の最高傑作とも評されるが、洗練さはあっても、新鮮さはない。俳諧熟達のピラミッドにおけるトップを集めたものである。しかし、芸術性の追求はエリート主義に傾き、ボトムを置き去りにし、俳諧の土壌を痩せさせる。芭蕉はその危機に気づき、克服を目指している。「俳諧は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれ」(『三冊子』)。それを具現したのが『炭俵』である。

 1970年代、アート・ロックを代表にロックが洗練化・高度化が進んだ結果、行き詰まりを見せ始める。そこに登場したのがパンクである。それはロックの原点とも言うべき生(き)の魅力を思い出させ、音楽シーンは再び活性化する。『猿蓑』がプログレとすれば、『炭俵』はこのパンクである。

 奥羽の旅が作風を変え、それが『猿蓑』に反映している。けれども、その後、『おくのほそ道』の執筆・推敲がその認識をさらに進化させ、『炭俵』はそうした思想に基づいて編纂されている。だから、『おくのほそ道』は『猿蓑』よりも『炭俵』の方に近い。

 『猿蓑』が古典主義的とすれば、『炭俵』は自然主義的である。この時期の芭蕉は、写実主義と呼ぶには、その情景の輪郭が漠然としている。1698年(元禄11年)の『続猿蓑』は両者を弁証法的に使用した撰集であるが、それは芭蕉没後に刊行されたものである。

 芭蕉は古典重視の貞門派から出発、諧謔好みの談林派を取り入れ、両者を乗り越える新しい俳諧を模索する。それは芸術性と娯楽性を止揚したものである。だが、同時代的滑稽さを追求するだけでは通俗に落ちかねないし、古典からの引用を繰り返していてもマンネリに陥る。前近代における文学表現は典拠を必須とする。古典を研究し、先行世代や同時代の作品を学習する。それらを引用したり、組み合わせたり、ずらしたりすれば、作品を量産できる。だが、そういった創作ではマンネリに陥る。そもそも俳諧はもはや消耗品ではない。

 これを打開するために芭蕉は二つの手段を試みる。一つは仏頂和尚からの体系的思想の学習である。これにより文学史は再構成され、その裏付けに基づいて創作・鑑賞が実践されて通俗に堕することが回避される。もう一つは旅である。西行に範を求めつつ、旅の経験を通じて古典に依拠する文芸を転倒する。マンネリは頭の中だけで既成のものを反復している結果で、組み合わせやズレによる創造も限界がある。しかし、旅の経験は古典を相対化し、新しい美意識をもたらす。

 近世はかつてないほど文化における庶民の影響が大きい時代である。和歌が古代、連歌が中世を代表するとすれば、俳諧は近世を代表する文芸である。俳諧は風雅を庶民に拡張、その「クオリティ・オブ・ライフ」(Quality of Life: QOL)のためにある。「俳諧の益は俗語を正すなり。つねに物をおろそかにすべからず。この事は人のしらぬ所なり。大切の所なり」(『三冊子』)。「俳諧はなくてもあるべし。ただ世情に和せず。人情通ぜざれば、人調はず。ましてよき友なくては成りがたし」(同)。俳諧が活性化するにはて庶民を巻きこむことが欠かせない。それには裾野を広げるだけでは不十分で、草の根の土壌を養わなければならない。芸術性を追求すればトップが急進化してボトムが置いて行かれる。娯楽性を優先すれば、ボトムは喜ぶが、トップが離れていく。いずれも衰退に至る。トップとボトムの交流が必要であり、それが軽みの目標である。俳諧愛好家のトップとボトムのいずれも包括する。

 軽みは思想体系に基づいていなければ、通俗にすぎず、談林派への後退である。そこで、芭蕉は機知の笑いから離れ、代わりに、ペーソスを追求する。それは詫びの笑いで、芸術性と娯楽性の調停である。

 象潟は秋田県にかほ市にある。しかし、芭蕉と同じ風景は、地形が変わったため、見ることができない。1804年(文化元年)の象潟地震で海底が隆起し、潟湖が陸地化する。その後、本荘藩が水田開発のために干拓事業を進めようとしたが、蚶満寺の住職24世全栄覚林の行動によって保存運動が高まり、かつての景観を可能な限り維持することになる。ストリートビューで蚶満寺を確かめると、海沿いで見かける松が今も保持されている。芭蕉がこの話を知ったら、『おくのほそ道』に不易流行の例として書き記したことだろう。
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