小松

文字数 1,491文字

小松
 芭蕉は、この章において、太平洋側の旅路で触れてきた『平家物語』に関連する人物に共感を示す。

小松と云所にて

 しほらしき名や小松吹萩すゝき

此所太田の神社に詣。真盛が甲錦の切あり。往昔源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ龍頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁記にみえたり。

 むざんやな甲の下のきりぎりす

 この「むざんやな」は謡曲『実盛』の台詞を踏まえている。斎藤実盛は、平安時代末期の武将である。1183年(永2年)、73歳という高齢でありながら、彼は平維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北、手塚光盛に討ち取られる。最期の戦いと覚悟し、髪を染めて出陣したため、首実検の際に義仲らは実盛本人と特定できない。しかし、事情を樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、白髪が現われる。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだと『平家物語』は伝えている。

 芭蕉は運命愛の人物に鎮魂の句を詠む。諸行無常や盛者必衰ではなく、不易流行の中でそれを捉えている。芭蕉は、運命に対して受動的な態度をとる貴族ではなく、能動的にそれを引き受ける武士に共感を示し、涙と句を捧げる。

有名(ゆうめい)な「奥(おく)の細道(ほそみち)」の道中(どうちゅう)で、芭蕉(ばしょう)は小松(こまつ)を訪(おとず)れた後(あと)、山中温泉(やまなかおんせん)に行(い)きますが、その後(ご)ふたたび小松(こまつ)を訪(おとず)れています。「奥(おく)の細道(ほそみち)」の旅(たび)で同(おな)じ土地(とち)を2度(ど)も訪(おとず)れたのは小松(こまつ)のほかになく、芭蕉(ばしょう)と小松(こまつ)の人々(ひとびと)との間(あいだ)に特別(とくべつ)な関係(かんけい)があったと思(おも)われます。芭蕉(ばしょう)は、前田利常(まえだとしつね)の招(まね)きで小松天満宮(こまつてんまんぐう)の別当(べっとう)をしていた連歌(れんが)の巨匠(きょしょう)能順(のうじゅん)や、山王宮(さんのうぐう)(現在(げんざい)の本折日吉神社(もとおりひよしじんじゃ))の神主(かんぬし)・藤村鼓蠣(ふじむらこせん)、町役(まちやく)の越前屋歓生(えちぜんやかんせい)などの俳人(はいじん)と出会(であ)いました。そして3回(かい)の句会(くかい)が催(もよお)され、芭蕉(ばしょう)は、「しほらしき名(な)や小松(こまつ)吹(ふ)く萩(はぎ)すすき」、「むざんやな甲(かぶと)の下(した)のきりぎりす」、「石山(いしやま)の石(いし)より白(しろ)し秋(あき)の風(かぜ)」など、小松(こまつ)ゆかりの有名(ゆうめい)な句(く)を残(のこ)しています。当時(とうじ)の小松(こまつ)はすでに有名(ゆうめい)な絹織物(きぬおりもの)の産地(さんち)で、地方都市(ちほうとし)としては相当(そうとう)の経済力(けいざいりょく)を持(も)ち、人口(じんこう)も1万人(まんにん)を超(こ)えていました。句(く)にあるような豊(ゆた)かな自然(しぜん)の風(かぜ)はもちろん、人(ひと)の風(かぜ)、文化(ぶんか)の風(かぜ)が吹(ふ)いていたまち・小松(こまつ)。芭蕉(ばしょう)はその風(かぜ)をしっかりと感(かん)じたのでしょう。
(小松市ホームページ『松尾芭蕉(まつおばしょう)』)

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