全昌寺・汐越の松

文字数 1,330文字

全昌寺・汐越の松
 この章から第5部に入る。全昌寺は現在の石川県加賀市にあるように、前半は加賀であるけれども、一人旅であるから、ここで区切るべきだろう。第5部は越前・美濃の旅路で、時期は8月と9月である。

大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜此寺に泊て、

 終宵秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと心早卒にして、堂下に下るを若き僧ども紙硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば、

 庭掃て出るや寺に散柳

とりあへぬさまして草鞋ながら書捨つ。

越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。

 終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松
西行

此一首にて数景尽たり。もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。

 芭蕉はこの章で西行を引用している。一人旅を続ける最後の章でも西行への言及がある。そもそも旅は西行の没後500年をきっかけに始まっている。第5部は『おくのほそ道』の旅全体の投影である。西行を通じて風雅の新たな読み替えを改めてこの最終部で芭蕉は強調する。

 芭蕉は「庭掃て出るや寺に散柳」を即興で詠んだと言っている。『去来抄』によると、芭蕉は即興の要求される句会であらかじめ用意してきた作品を詠むことを「手帳」の句と厳しく批判する。主題をめぐるその場の流れや場の雰囲気などを察して臨機応変に対応し手最善の句を詠むことを説いている。

 また、芭蕉に倣えば、「手帳」は熟達者の病だ。それは特定のイデオロギーに基づいて創作することへの戒めでもある。芭蕉も不易流行を代表に思想を持ち、それに立脚して創作・鑑賞している。けれども、それは世界感観や倫理観などの基本原理である。それをどのように実践するかにおいて固定的な姿勢をとることが「手帳」だ。芭蕉は俳諧において一所にとどまらない。つねにイノベーションに取り組んでいる。俳諧に終着点などあり得ず、革新を続けなければならない。特定イデオロギーにとどまって停滞していては、俳諧は衰退してしまう。「新しみは俳諧の花也」(『三冊子』)。革新主義者である芭蕉は逸脱に寛容で、蕉風は字余りや季語の不在にもおおらかである。「問曰、上手になる道筋たしかに有り。師によらず、弟子によらず、流によらず、器によらず、畢竟、句数多く吐したるものの、昨日の我に飽ける人にて上手にはなれりといへり」(去来『旅寝論』)。

 ただし、即興で作ったとしても、芭蕉は、出版に際して後に改作することが多い。即興は才を磨くが、推敲は力をつける。優れた創作には両者の相互作用が必要だ。どちらかに囚われることも「手帳」でしかない。

 「汐越の松」は現在の福井県あわら市浜坂の「芦原ゴルフクラブ」のゴルフ・コース内にある。ストリートビューでも確認できない。ただ、駐車場の画像が表示されるだけである。「俳聖・松尾芭蕉が、西行をしのんで立ち寄ったとされる松林。句こそ詠んでいないが、「奥の細道」に立ち寄ったことが記されている。芦原ゴルフクラブの海コースに句碑がある。あわら市浜坂」(福井新聞ONLINE『うんちく豆辞典 汐越の松』)。
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