最上川

文字数 2,266文字

最上川
 『古今集』の「稲船」が運用されていることに芭蕉は感激している。出羽の旅は古より受け継がれてきた物事の発見が何度となく記されている。この章の芭蕉はもはや歌枕や義経縁に触れても訪れることはしない。訪れた場所に自らの蕉風を教え広めている。

 大石田にはかつて談林派が伝わり、指導者不在のため、地元独自に発展してきたが、路線対立が顕在化している。それは独自路線を継続するか、原点回帰するかである。芭蕉はそれに何と答えたかは記していない。ただ、歌仙を一巻残したとあるから、蕉風を参考にすることを暗に勧めている。江戸時代は出版文化がかつてないほど成長、書物が都市のみならず、地方にも流通し、それにより知的ネットワークが形成される。文芸は共同体の美意識を交歓する。古典を共通理解として美意識の共有を前提にし、評価基準は師匠など権威が決定する。教養と経験がその良し悪しの判定に不可欠である。しかし、今や指導者がいなくても、テキスト・クリティークによって創作・鑑賞が可能になる。芭蕉はそうした時代にふさわしい俳諧のあり方を実践する。 

最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。
最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。こてんはやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをやいな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。

 五月雨をあつめて早し最上川

 この『おくのほそ道』の引用は素龍清書本である。自筆本で芭蕉は「五月雨をあつめて早し最上川」を「さみだれをあつめて早し最上川」とかなを用いている。かなにしたのは6月に揃えたかったためと推測されている。

 芭蕉は『おくのほそ道』の最初の草稿を1693年の7~8月の間に書き上げたとされる。「ストリートビューによる『おくのほそ道」』も、当然、1カ月間で草稿を終えなければならない。その後、芭蕉は、『おくのほそ道』の草稿の推敲を繰り返し、76枚も貼り紙をしたため、読みにくくなり、弟子にそれを書き写させている。この弟子が写す原本が芭蕉自筆本である。高価な上質紙を使い、和姿綴じをしており、草稿と言うよりも、本来は聖書のつもりだったのだろう。芭蕉はその原稿に朱と黒で加筆・補正をして仕上げる。これを弟子で、能書家の柏木素龍に聖書を依頼している。ところが、素龍は漢字をかなに換えたり、その逆を行ったり、違う字を使ったり、異なる改行にしたりしている。理由はミスかもしれないし、レイアウト上の都合かもしれない。芭蕉はこの清書を確認したが、校正を加えていない。おそらくこれを決定稿として版下とし、将来の出版と考えていたからではないかと思われる。

 現在一般的に流通している『おくのほそ道』はこの素龍清書本を底本にしている。自筆本は書き写した弟子に、修正を加えた本は曾良に、清書本は自ら『おくのほそ道』のタイトルを記して兄に芭蕉はそれぞれ贈っている。

 亡くなる半年前の1694年4月には完成していたが、芭蕉の生前、この作品を読めたものは極めて限られ、ほとんどの弟子も目にしていない。弟子の去来が清書本を遺族より譲り受け、そのまま版下にして芭蕉の7回忌に出版する。これは少部数であったけれども、芭蕉没後80年にリバイバル・ブームが起き、普及版が刊行、今日まで読み継がれている。

 芭蕉の没後、直弟子たちは各地に散在する句や遺稿を集め、出版している。また、彼らは芭蕉の発言や裏話の回想録も公表する。今日、芭蕉の作品が読めたり、関連情報を知ったりできるのは弟子たちのおかげである。彼らは全国各地をめぐり、蕉風の俳諧の普及に努めている。ただ、蕉風を発展させたと言うよりも、芭蕉と違い、十分に思想を伴わなかったこともあり、世俗におもねる傾向が強い。

 愛弟子の死後、芭蕉は過去の人として忘れかける。蕉風俳句よりも、付け句の技巧を競う川柳を中心に雑俳が流行っている。そんな状況だったが、77回忌を機に著作が出版、芭蕉が再発見され、与謝蕪村を始め新世代の俳人たちが熱狂的に支持する。著作や作品集、弟子の回想録、評伝なども相次いで出版されたこのリバイバルを通じて芭蕉の全体像が明らかになる。その時から芭蕉は日本文学史上の重要な古典の一つとして今に至っている。

 芭蕉自筆本が公開されたのは1995年の阪神・淡路大震災がきっかけである。この本は長らく行方不明になっていたが、大阪の所蔵者が貴重なこの本が失われるリスクを認識し、翌年、所在を明らかにする。芭蕉の最終稿の発見により、本来の執筆・編集意図や形成過程などの新たな研究が発展している。

 「五月雨」=「さみだれ」はそうした一例である。これは芭蕉が物語を月による区切りとして構成していたことの論拠になる。物語の構成上の区切りのために、芭蕉はあえて月が分からないように記している。それに基づけば、(3+)4・5・6・7・8(+9)の5部構成で、これは滞在地による区分に呼応する。そうなると、白河の関・尿前の関・鼠の関の他、「全昌寺・汐越の松」の吉崎が物語の区切りと見なせる。このように、芭蕉は『おくのほそ道』を体系的に創作しており、それを前提にしたうえで、読む必要がある。
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