須賀川

文字数 857文字

須賀川
 福島県須賀川市にも芭蕉を記念したり、便乗したりするものがある。しかし、重要なのはここで詠まれた句が芭蕉の軽みへと至る俳諧の思想を明らかにしていることだ。

とかくして越行まゝにあぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城相馬三春の庄、常陸下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すが川の駅に等窮といふものを尋て、四五日とゞめらる。先白河の関いかにこえつるやと問。長途のくるしみ身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断てはかばかしう思ひめぐらさず。

 風流の初やおくの田植うた

無下にこえんもさすがにと語れば、脇第三とつゞけて、三巻となしぬ。

此宿の傍に、大なる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと間に覚られてものに書付侍る。其詞、

栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

世の人の見付ぬ花や軒の栗

 「世の人の見付ぬ花や軒の栗」は芭蕉最晩年の俳諧の原理の一つを示した句である。17世紀後半にあって歌枕に基づく創作はもはや困難である。それに代わるのが「世の人の見付ぬ花」だ。しかし、前近代の文芸は自己表現ではない。あくまで共同体の美意識の交歓である。歌枕が前提にする共同体は都の歌人を中心=支配の地位にし、外部を周縁=従属とするシステム構造をしている。芭蕉は、それに対し、周縁のサブシステムを中心のシステムと等価にする。東国のローカルナレッジもオリエンタリズムではなく、一つの美意識、「世の人の見付ぬ花」である。

 こうした転倒の根拠は西行や仏頂和尚から学んだ思想にある。「栗」は地味で、従来の美意識にはそぐわない。けれども、奈良の東大寺造営に貢献した行基上人は、「栗」は「西」の「木」と書くので、西方浄土に関係したものだと杖にも柱にもその木を使っている。そうした思想に基づくなら、新たな風雅が見出せる。思想に裏打ちされ、従来の美意識にとらわれない「世の人の見付ぬ花」を読むことが芭蕉の説く俳諧である。

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