文字数 3,993文字

『おくのほそ道』 on ストリートビュー
Saven Satow
Feb. 29, 2020

"Je hais les voyages et les explorateurs".
Claude Levi Straus “Tristes Tropiques”


 その旅はiPhoneの「ストリートビュー」を起動することから始まる。「正木稲荷神社」を検索すると、画面は小名木川が隅田川に合流する一角に急接近、萬年橋通り付近の東京都江東区常盤1-1-2をアイコンが指し示す。画面のボトムに提示された画像をタップすると、拡大する。

 UIを指で上下左右に動かしてみる。2020年3月27日の状態である。赤地に白字で記された「正木稲荷神社」の幟が祠を囲むように何本も立っている。しかし、近所の3階建てマンションと比べて、この神社は決して大きくない。住宅地にひっそりとたたずんでいる。

 正木稲荷神社は「芭蕉稲荷神社」と呼ばれる。ここに松尾芭蕉の住居があったとされているからだ。ストリートビューもこの通称で検索可能である。

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は日〃旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

 草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。

 芭蕉は、元禄2年3月27日、すなわち1689年5月16日、芭蕉庵から旅に出る。その年は芭蕉が敬愛する西行の500回忌にあたる。門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、武蔵や上野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、美濃をめぐる全行程約600里(2,400km)、日数約150日間の旅の始まりである。なお、これから月日に言及する際には、旧暦を採用、年齢も数えとする。

 この「序」は日本文学史上最も有名な書き出しの一つである。「月日」は「月」と「日」の対比であると同時に、時の循環を意味する。時間の捉え方には、線的なものと円環的なものがある。「月日」は時間が循環的なものであり、すべてはその中にある。それは道家の「造化」である。芭蕉は前作の紀行文である『笈の小文』で「造化にしたがひて造化にかへれ」と記し、天地自然に従い、移り行くことを共にすることが俳諧には必要だと説いている。時間の循環こそがアルケーであり、俳句はその認識を具現するものだ。移り行く旅というものはその造化を体験することである。

 実は「序」の最後の「面八句を庵の柱に懸置」は何を言わんとしているのかよくわからない。「八句」は50韻連句の最初のパートである。この連句は8・14・14・14の構成をとる。確かに、『おくのほそ道』の芭蕉の句数は50であるが、その配置が合わない。この謎については研究者の興味をそそり、さまざまな説が提示されている。いずれにせよ、50韻連句を芭蕉が想定していることは間違いなかろう。

 芭蕉稲荷神社は、1917年(大正6年)に地元の住民によって建立され、アプリの画面をクロースアップしてみると、境内には芭蕉庵跡や俳句の碑がある。かつてこの辺りに芭蕉庵があったとして東京都の旧跡に指定されている。芭蕉の門人で、終生の支援者だった魚問屋の杉山杉風の所有地に庵はあり、1680年(延宝8年)から16944年(元禄7年)10月に大阪で病死するまで住み、芭蕉はここより全国の度に出ている。庵は3回建てられている。最初のものは、火事で焼失、その後、同じ場所に再建、さらにしばらくして付近に建て替えている。

 芭蕉の住居は「芭蕉庵」と呼ばれている。しかし、それは芭蕉が住んでいたからではない。その逆である。芭蕉庵に住んでいたので、この俳人は「芭蕉」を名乗っている。

 芭蕉は、1680年、深川に居を移す。当初、杉山杉風の所有地にあるこの住居を芭蕉は杜甫の詩に因み「泊船堂」と呼んでいる。しかし、門人の李下から贈られたバショウが大きく育ったため、それを「芭蕉庵」に改称する。

 「バショウ」は、”Japanese Fiber Banana”の英名が示す通り、バナナに似た実をつけるが、主に観賞用として親しまれている。熱帯を中心に広く分布しており、耐寒性があるため、本州でも関東地方以南であれば、路地植で生育する。なお、沖縄ではバショウから採取した繊維で織った芭蕉布が昔から利用されている。

 1681年秋、「芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉」と「芭蕉」を織りこんだ字余りの句を創作している。これは長い詞書を記した上で、句を詠むという芭蕉独特のスタイルを初めて示した作品の一つでもある。俳聖はこの頃より「芭蕉」を名乗るようになったとされている。バショウは大きく育ったが、あくまで観賞用で、実用性に乏しい。それは俳諧師としての自分に重なると「芭蕉」を使い始めたとされている。俳諧師らしい自身に対するユーモアである。現存の史料においては、1683年(天和3年)に望月千春編で刊行された『むさしぶり』に収められた句で「芭蕉」の号を公にしている。

 ただ、この間、芭蕉庵は一時消失している。1682年(天和2年)の末に八百屋お七の火事が発生する。この天和の大火は江戸の半分を焼いたと言われ、芭蕉も焼け出され、煙に巻かれ、海の塩水の中で逃げ惑っている。その後、甲斐谷村藩(現山梨県都留市)国家老高山繁文(伝右衝門)に招かれ、芭蕉はそこに疎開する。翌年5月、江戸に戻り、冬に芭蕉庵が再建される。

 そのようなことを思い、ストリートビューで歩いても、道が足を押し返すことも、風が肌をなでることも、入り混じった匂いが鼻に飛び込んでくることも、街のでる音が耳に響くことも、空気が唾液をにじませることもない。もちろん、新型コロナウイルス感染症とも無縁だ。ただ、眼だけが徘徊しているだけである。

 しかし、その眼に街は気がつかない。それは天使だ。ヴィム・ヴェンダーㇲ監督の『ベルリン・天使の詩』(1987)の天使としている。誰もが天使になって街を彷徨える。それも地球上の至る所に気の赴くままに放浪できる。

 火事の中を逃げ窓う芭蕉の姿を想像しながら、ストリートビューを進めると、「すみだがわ」という東京都のプレートが付いた壁に突き当たる。ひらがなの他、ローマ字や漢字、ハングルでも記されている。

 地図画面に戻し、隅田川を上り、千住大橋に向かう。人型のアイコンを進めていくと、川から見得る街並みの画像が次々と提示される。河川もかつては重要な交通路だ。もちろん、川を上っても、風も音も匂いも感じない。ストリートビューは人間を天使にする。天使の旅が始まる。しかし、それは天使を人間に変える。実際、芭蕉も旅によって「芭蕉」になっている。

 先日、ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン天使の詩』をみて、『内省と遡行』以来の自分の仕事のことをぼんやりと考えた。これは、天使が人間の女に恋して人間になるという話である。物語としては、古いパターンであるが、ただこの天使たちは、ベルリンという都市の人々を見守ってきて、しかもベルリンがナチズムとスターリニズムのもとで荒廃するにいたるまで、無力でしかなかった天使たちなのである。つまり、天使として描かれているけれども、彼らは、ある種の人間のことだといってよい。それは、実践家ではなく、認識者であり、しかも、どんな人間的実践にも物語にも幻滅したがゆえに二度とそれに加担することがなく、ただ実践がなにも生み出さないことを確認するためだけに生きているというようなタイプの認識者である。
 天使たちには、地上の人々がどこにいようが見えるし、彼らの内心の声がすべて聞こえる。しかし、天使たちは、何も「経験」しないし、「知覚」しない。彼らが把握するのは、いわば「形式」だけなのだ。彼らは、人間の歴史をずっと見てきているが、一度も生きたことがない。さらに、彼らにとって、歴史は、たんに形式の変容でしかなく、なにごともそこでは起こらない。つまり、歴史は存在しないのである。映画では、彼らの世界はモノクロームで描かれており、主人公の天使ダミエルが人間になったとたんにカラーに転じる。彼は、自分の流した血をみて、はじめて色彩を経験するのだ。むろん、色彩はひとつの例でしかない。それは、いわば「形式」の外部を経験するということである。
  天使ダミエルは、人間になろうとする。それは、天使たることの放棄であり、有限で一回的な世界に生きることである。人間になるとは、彼にとって、他者(女)を愛することである。そのとたんに、彼は前方が見えない世界のなかで生きはじめる。それは「暗闇のなかでの跳躍」である。天使たることとは、何たる隔たりであろう。にもかかわらず、天使たちは、人間になることを欲する。それは、「外部」を欲するということである。
  「形式的」であることは、べつに特権的な事柄ではない。それはハイテク時代において、われわれのほとんど日常的といってよいような生の条件である。われわれは、そこでありとあらゆるものを「知覚」したり「経験」した気になっているだけで、実は天使と同じくモノクロームの世界、すなわち自己同一性の世界に閉じこめられているのである。私たちは、ブラウン管を通して血まみれの死体を見慣れているが、実際に血の色を見たことがないのだ。
(柄谷行人『「内省と遡行」学術文庫版へのあとがき』)

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