敦賀

文字数 1,106文字

敦賀
 道は誰かがとれば、その後にできるものではない。それを多くの人が行き交うことで道になる。先人が熱意をもって道を開き、その思いを後に続く者が引き継ぐ。芭蕉は不易流行をそう捉える。『おくのほそ道』というタイトルはみちのくへの道だけを意味しているのではない。「世の人の見付けぬ」美を見出す細き道であり、それを後に継ぐ者たちにも通って欲しいということでもある。

漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鴬の関を過て湯尾峠を越れば、燧が城、かへるやまに初鴈を聞て、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。

その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる。おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず。神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、亭主かたりける。

 月清し遊行のもてる砂の上

十五日、亭主の詞にたがはず雨降。

 名月や北国日和定なき

 名月を見ようとするが、芭蕉一行は雨に邪魔される。『徒然草』137段の「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨に向ひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情けふかし。吹きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ」を踏まえている。『徒然草』は「江戸の論語」とも呼ばれ、庶民に最も影響を及ぼした古典である。武士文化の随筆であるが、江戸時代に庶民の道徳の基礎にもなっている。芭蕉の美意識は貴族文化ではなく、武士のそれに親近感がある。だが、西行の頃のままではない。近世にふさわしく再構成されたものである。それは「種の浜」で決定的に示される。

 芭蕉は酒好きだったと伝えられている。酒をめぐる句もいくつかある。酒の原料である米は食料でもあり、幕府は酒造統制を行っている。芭蕉が生きた17世紀後半は酒をめぐる制度環境が整備されていく時期である。そうした状況で酒を飲んでいる姿は終戦直後の無頼派の作家に重なって見える。この頃の日本酒のアルコール度数は10%もなく、水で割った下級酒は5%程度と言われる。味は甘く、酸味もあり、現在とはかなり違う。

 敦賀をストリートビューで歩いても、それは昼間の風景だけである。雨の画像もないが、降らなくても、これでは名月を見ることは不可能だ。ストリートビューの画像も一つの美意識に基づいている。それは芭蕉としばしばすれ違う。

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