平泉

文字数 1,638文字

平泉
 「平泉」は『おくのほそ道』における中核の章の一つである。芭蕉はこれまでの章に多くの伏線をこのために用意している。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて、大河に落入。康衡等が旧跡は衣が関を隔て南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり。城春にして草青みたりと笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

 卯の花に兼房みゆる白毛かな
曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

 五月雨の降のこしてや光堂

 栄華を誇った奥州藤原氏の跡のほとんどが消え去っている。造化の力に押し流されたが、すべてが失われたわけではない。光堂はそれを守ろうとした人たちの取り組みによって今なお光り輝き、当時の繁栄の雰囲気を伝えている。

 芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」を詠む際に、曾良の句が添えられる。これは義経と家臣のアナロジーである。古来より鎮魂のために歌を詠む習慣があり、芭蕉もそれを踏まえている。「夏草や兵どもが夢の跡」と「卯の花に兼房みゆる白毛かな」は義経や忠臣への鎮魂である。このように2部の曾良の句は50韻連句の構成から外すことができない。

 芭蕉が義経を敬愛するのは、彼が運命に対して能動的に立ち向かったからである。忠臣たちもそれを受け入れ、華々しく散っている。そのような生き方をしたからこそこうせいの人々が彼らを語り継ぎ、遺産の継承に取り組んでいる。その運命愛の姿勢に芭蕉は感極まっている。運命を引き受けて全力を尽くして生きる時、その思いは後の人々に引き継がれる。それは一つの不易流行である。

 この「夏草や兵どもが夢の跡」は芭蕉において最も有名な句の一つであるが、これは後から創作されたものである。旅の反芻によって生まれた名句だ。『おくのほそ道』には芭蕉の句が50作品収録されている。この中で、旅路において詠んだ句がそのまま載ったのは17作品である。22句は手直ししたものであり、11句は旅の後に創作されたものだ。大まかに言うと、旅の前編に新作、中編に改作、後編に既作と言う傾向が認められる。旅路で新たな思想を獲得したために、それに合わせた作品が必要だったからだと思われる。

 芭蕉は紀行文を旅の記録と見なしていない。『土佐日記』以来の旅をめぐる物語と歌の形式を踏まえつつ、風雅の再検討を表わすものと捉えている。そのため、芭蕉は事実に固執しない。美意識の再考にふさわしいように修辞したり、改変したりしている。句の掲載にしても、場面にふさわしいものであることは言うに及ばず、物語全体との整合性も考慮している。「夏草や兵どもが夢の跡」は杜甫を典拠にし、奥州藤原氏や義経らの古戦場の今を詠んでいる。

 芭蕉は、『風俗文選』の「柴門の辞」や『韻塞』の「許六離別の中で、「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」と述べている。これは空海の『性霊集』にある「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ」に拠り、先人の抜殻ではなく、その理想追い求めるべきだという意味である。太平洋側の旅路はこの実践だ。歌枕の実態を眺め、造化の中で多くが流行していくが、不易のものも確かにある。それを経験した芭蕉は出羽に向かう。

 確かに、ストリートビューでは足は疲れない。しかし、座りっ放しでは腰が痛くなる。そのため、歩きスマホを時々する必要がある。けれども、そうしても、長くなれば、眼が疲れ、肩こりもしてくる。ストリートビューもユーザーは天使ではなく、やはり人間であることを自覚させる。
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