恋する乙女と春のパンフェス

文字数 3,700文字

 八月二十日 午後七時十二分

 葉梨と一緒に私のマンションに帰っている途中だが、前方二十メートル先に見覚えのある男がいる。松永さんだ。挙動不審バージョンの、松永さんだ。

 松永さんは笹倉さんと手を繋いでいるが、暑いせいなのか笹倉さんは離れたそうにしている。だが松永さんはお構いなしだ。体を寄せて、笹倉さんがスッと離れて、追いかけて、また体を寄せるが睨まれている。頬を膨らませる松永さんを見た笹倉さんはしぶしぶ体を寄せた。松永さんは嬉しそうに笑っている。

 ――幸せそうだな。

 ちらりと葉梨を見ると、目が合った。

「松永さんって、ああいうところもあるんだね」
「ふふっ、ね。中二の頃から好きなんて、驚いたよ」

 私の入院中、松永さんは笹倉さんへの想いが溢れ、ボロボロと涙を零しながらずっと笹倉さんの名前を呼んでいた。
 事件事故災害が起きれば、私たちは家族に、愛する人に、背を向けて走らなくてはならない。普段は制服を着ているだけで批難されるが、私たちの仕事が、私たちが、感謝される時は国民が苦難に直面している時だ。だから家族に背を向ける。私たちは公僕だから。

 笹倉さんは松永さんに、自分が先に死ぬことをなぜ想定していないのかと問うたという。松永さんの懸念は全て丸め込まれ、結婚が決まったと言っていた。
 松永さんが尻に敷かれているのは意外だと思ったが、相手が笹倉さんなら、それも当然かと私は思う。

「あ! 加藤さんだ!」
「こんばんはー」

 笹倉さんの声に驚く松永さんは私たちの顔色をうかがっている。全部見てましたよと言いたいが、何も見ていないことにしないとならないだろう。私は松永さんを見た。

「お出かけですか?」
「ああ、飲みに行く」
「いいですね」
「あら、加藤さん……その風呂敷……」
「ああ、これは……」

 葉梨が持つものに視線を落とす笹倉さんは笑ってはいけないと思ったのだろう。必死に堪えて肩を震わせていた。

「実家から持って来た食器なんですよ。母がなぜかこの風呂敷に包みましてね」
「んふふ……そうでしたか」

 母に頼んでおいた食器は、プチプチと新聞紙に包まれ、箱に入れた上に唐草模様の風呂敷で包んであり、それを紙袋に入れてあった。
 唐草模様の風呂敷といえば泥棒なのに。娘の私は警察官なのに。

「ではお気をつけて」
「はい、行ってきます」
「お疲れさま」
「お疲れさまです。失礼します」

 松永さんは一瞬たりとも笹倉さんとの時間を邪魔されたくなくないのだろう。眉根を寄せた松永さんを見ていたら、須藤さんと中山さんから言われた言葉を思い出した。

『笹倉さんのことになると敬志は本当にバカになるから、気をつけて見ててよ。状況次第では殴っていいから』

 そのうち本気で殴る時が来そうだと思いながら、私は二人の後ろ姿を見ていた。


 ◇


 私は今、実家から持って来た皿をダイニングテーブルに広げている。葉梨は皿が包まれていたプチプチをプチプチしている。

 私の家は来客を想定しておらず、皿は自分の分しか無い。だから結婚に備え、皿を増やそうと実家から持って来た。
 元々、うちにある皿は警察学校を卒業して配属された頃から使っている強化ガラスの白い皿だ。それは実家から持って来たもので、今日は食器棚の奥の方で眠っていた同じ皿を持って来た。

 ――お前たちは十六年以上も眠っていたのか。

 葉梨は興味深そうに皿を眺めている。
 この強化ガラスの白い皿は、日本三大祭りの一つであるパンメーカーの春のパンフェスの皿だ。葉梨の実家はロイヤルコペンハーゲンのイヤープレートを飾ってある家だから、参加賞に皿がもらえる庶民のフェスなど知らないかも知れないなと思ったが――。

「春のパンフェスが始まると、朝食はサンドウィッチで、おやつは菓子パンだったよ」

 まあ、なんということでしょう。将由坊ちゃまも春のパンフェス民だったのでした――。

「そうなんだ」
「うん。麻衣子が皿をもらいに行きたがってね、いつもついて行ってた」
「んふふ……」

 私はパンフェス民ではないが、松永さんがパンフェス民で、フェス期間中は私や岡島、中山さんがパンフェス民となり、ひたすらシールを集めている。
 松永さんはシールが貯まると嬉しそうにお店に行って皿をもらって来るが、皿をもらうことが目的で、皿には一切興味がなく、皿はいつも岡島が持って帰っている。

 ――春のパンフェス、か……。

 葉梨が私と結婚するとなると、葉梨はもうこちら(・・・)の人間になる。もちろん私たちの仕事をするわけではないが、立ち位置はこちらの人間だ。ならば毎年恒例のフェスにも、呼ばれるかも知れない。

「ねえ、ちゅむちゃん」
「ん? なに?」

 葉梨はプチプチをプチプチするのが面倒になったのか、プチプチをくるくるっと巻いてブチブチしていた。

「来年の春ノーパンフェス、呼ばれるかもよ」
「ん? もう一回言って?」
「春、ノーパン、フェス」

 葉梨は見たことのない反応をしている。目を見開き、若干口が開いている。これはアレだ。ネットミームの宇宙猫みたいな顔だ。ちょっと可愛い。

「ノーパン……?」
「うん。松永さんと中山さんと岡島がね。私もいるけど」
「ええっ!?」
「ああ、私はパンツ履いてるから。大丈夫だよ」

 葉梨は、眉根を寄せて真っすぐ見つめている。いつもの顔だ。カッコいいな。

 ずいぶん前だが、松永さんに膝丈のワンピース三着を買って来いと指示され、何に使うのかと思いつつウニクロで購入して官舎へ行くと、松永さんと中山さんと岡島がいた。

 松永さんたちは私が買って来た女物のノースリーブワンピースを素肌に着て、二月初旬の寒いベランダに出て、ああでもないこうでもないと言っていた。
 松永さんはスカートの女性がどれだけ寒いか身をもって体験したかったそうだが、ペアを組んで間もない私でも、松永さんが本当にやりたかったことは別にあるんだろうなと気づいた。
 リビングのテーブルにしゃぶしゃぶの準備がしてあったのだが、あるはずの肉や野菜が、棚の上に乗っていたのだ。松永さんはノーパンしゃぶしゃぶをしたいのだと気づいた。

 その日私は、松永さんに松阪牛のしゃぶしゃぶを振る舞うと言われてノコノコ来たことを、心底後悔した。

「ノーパンしゃぶしゃぶ」
「えっ、なに? もう一回言って?」
「ノーパン、しゃぶ、しゃぶ」

 葉梨はまた眉根を寄せて真っすぐ見つめている。カッコいいな。

「パンツ履かずに女物のワンピースを着てね、棚の上にある肉とか野菜を背伸びして取るんだよ」
「ノーパンしゃぶしゃぶ」
「うん。男しかいないと緊張感が無いから、私がいる」
「それってセクハラじゃ……」
「何を今さら」
「うん、そうだけど……」

 あの日、ジャージにダウンコートを着て松永さんの官舎へ行った私は、ジャージの上衣もダウンコートも初っぱなからケツが出ているからバスタオルをお借りしてもいいですかと松永さんに訊いたのだが、説教を食らった。

 お前は何を言っているんだ、お前はノーパンしゃぶしゃぶの嬢ではない、ノーパンは俺たちだけだ、ノーパンの俺らが背伸びして肉や野菜を取る際にタマが見えたらグーパンする係だ、と。

 背が高いせいで、ワンピースの丈が短い松永さんは少しの動きで玉も竿もケツも出てしまうから、内股気味に前かがみになって裾を一生懸命押さえながら私に説教をしていた。
 その年以降、パンメーカーの春のパンフェスが始まると、松永さんは春ノーパンフェスを思い出し、各自予定を合わせて毎年開催されている。

 ――葉梨もいずれ、ノーパンしゃぶしゃぶするのか……。

 中山さんは反対するだろう。中山さんにとって葉梨は可愛い後輩だから。だが、私はワンピース姿の葉梨を見てみたい。パッツパツの葉梨だ。奈緒は確実にキュンキュンしてしまうだろう。

 来年まで待てないから今やってもらってもらいたいが、ワンピースが無い。どうしようか。ワンピースのようなものは……バスタオル、だろうか。だがフレアースカートのように広がっていないとならない。バスタオルを巻いただけではピタッとしていてダメだろう。

 ――バスローブ、かな。

 うちにはバスローブなんてお洒落なものは無い。どうすればいいのだろうか。そんなことを考えているいると、ふと思い出した。まだ私たちはラブホに行ってないなと。五連休はいろいろとやることはあるが、初日の今日なら大丈夫だ。今日なら行ける。

「ねえ、ちゅむちゃん」
「ん?」
「今日さ、ラブホ、行かない?」
「えっ……」
「ダメ?」

 私はダイニングチェアに座る葉梨に近寄り、顔を寄せて耳元で囁いた。だって、いつも声を我慢してるから――。

 その言葉に反応したのか、葉梨は私の背中に腕を回して、引き寄せた。私が葉梨の首に腕を回すと、葉梨は囁く。いいね、行こうか――。

 ――チョロい。ちゅむちゃんはチョロい。

 バスローブの丈の調整には書類クリップでも持参すればいいだろう。
 葉梨と初めてのラブホはノーパンフェス……箱根の慰安旅行は行きたかったが、葉梨のノーパンフェスなら、ノーパンフェスの方がいい。

 一人の女だけを夢中にさせる男は、いい男――。

 私はもう、葉梨に夢中だ。




 
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