最終話 37歳の夏
文字数 4,789文字
最終話は横浜のみなとみらいを舞台にしています。よかったらストリートビューでご覧下さい。
『万国橋』
神奈川県横浜市中区新港
本文 約3000文字
お礼とあとがき 約1200文字
**********************************************
七月二十一日 午前六時十分
昨夜十時から五時まで、俺と中山、岡島と飯倉はベイサイドファクトリーで作業をしていた。
作業を終えて横浜の事務所に戻るはずが、帰り道にしては遠回りな、みなとみらいの端にある運河にかかる万国橋 で俺だけ車から降ろされた。
俺を置いて白いワンボックスカーは去って行く。
同じ視界の中にコンクリート橋の欄干に手をついて朝焼けに輝く水面を眺める男がいた。須藤さんだった。
ライトブルーのデニムに白のポロシャツを着た須藤さんは、顔を上げて右方にある神奈川県警本部を見上げた。建物上部にある円弧状に張り出たガラスに朝日が反射している。
近づく俺の気配に気づいたのか、ちらりと視線を俺に向け、微笑んだ。
「お疲れ様」
振り返った須藤さんは欄干に背を預け、正面のみなとみらい側を向いた。俺は須藤さんの右側で、同じように欄干へ背を預けた。
「ランドマークタワーの横にある背の違う白い三つのビル、クイーンズタワーだっけ? ビルの真ん中に廊下があって、こっち側は海側で、廊下の向こう側は山側って言ってて、山側の賃料は安いんだって。ふふっ」
「あー、海側は眼下に遊園地ですもんね。みなとみらいって感じですもんね」
「山側は向かいのビルしか見えないから安いんだって」
――そんなこと、話すために俺を呼んだわけないよな。
ちらりと須藤さんに視線を向けると、須藤さんは俺に顔を向けた。その顔はただ穏やかな表情だった。だから俺も、肩の力を抜いて微笑んだ。
すると須藤さんも微笑みを返してくれて、口を開いた。
「結果を、教えて」
優衣香との話し合いの結果か。吉崎さんからは聞いていないのか。
「辞めません。転属も希望しません。今のままで、います」
そう答えると、須藤さんは微笑みを崩さず、俺の目をじっと見つめた。
俺はその目を真っすぐに見返し、そして言った。
優衣香や吉崎さんに説得されたからじゃない。俺が決めたことだ。そう伝えるためにも、目をそらさずにいようと思った。
「須藤さんについていきます。今後とも、ご指導の程、よろしくお願いいたします」
須藤さんの目は俺を見据えている。
俺は嘘は吐いていない。本心だ。自分がやれることを一生懸命やろうと思う。
見つめ合ったまま数秒経った頃、須藤さんは目を伏せて、溜め息を吐いた。俺は須藤さんに喜んでもらおうとかそんなことは考えていなかったが、思っていたものとは違う反応に困惑してしまった。
「あの……なにか……」
「敬志、俺はお前に幸せになってもらいたい。このまま続けて、いいのか? 本当に、いいのか?」
欄干に背を預けている俺の前に、須藤さんは立った。顔を上げて俺を見る須藤さんは、真剣な眼差しだった。
「続けます。俺にしか出来ないですから」
俺は強い意思を持って見つめ返すと、須藤さんは目を伏せて俯き、そしてまた、溜め息を吐いた。
だがその目は悲しみや呆れという表情ではないように思える。須藤さんは何かを迷っているような、そんな気がした。ただ、何を迷っているのか俺にはわからない。
須藤さんは顔を上げ、俺と目を合わせた。そして微笑み、こう言った。
「俺らや、上の世代は家庭を犠牲にした。でも偉くなって、お前らのために地ならししてレールを敷いた。ガッタガタだけどな。それに乗りながら整備、修繕するのはお前らの世代だけど、お前は次の世代が安心して乗れるようにしてやれるか?」
優衣香や吉崎さんのように、不安を取り除く言葉をかけてくれると思っていた。だが須藤さんが口にしたのは、今後の俺がどうするかという話だった。
――結果を出せと言ってるのか?
俺がやれるかどうか試しているのか――そう感じた俺は、真っすぐに須藤さんの目を見つめた。
「やります。でも、須藤さんに指導していただかないとならないと思っています」
頬を緩ませ、優しい笑顔で俺を見ている須藤さんは、何かふっきれたような、そんな表情で背後にある海側を向き、手すりに肘を置いた。
俺も同じようにして、運河に反射する朝焼けを見た。
「いつ、入籍するの?」
「八月二十五日の予定です」
「なんで二十五日?」
輝く水面を見ながら須藤さんは訊ねる。
言いたくない――言いたくない理由は恥ずかしいからだか、言ってしまおう。俺は須藤さんについていくと決めたのだから。
「優衣香にラブレターを渡した日だからです」
俺がそう答えると、須藤さんは俺を見た。そして徐々に頬を緩ませ、口元を緩ませていく。俺も頬が熱くなるのを感じたが、運河を見続けた。きっと、にやけているのだろう。
俺は横目で須藤さんを見ると、横顔は口角を上げて微笑んでいた。
「話し合って、優衣香ちゃんは何て言ってた?」
「えっ? ご存知なんじゃ……」
「……話し合う中で考えが変わることだってあり得る。どうだった?」
俺は優衣香との話し合いを思い返した。
交通事故死より殉職より多いのは入浴中の事故、食後1時間以内は風呂に入るな、疲れている時は風呂に沈むからシャワーだけにしろ、寝る前にメシを食うな、健康診断の結果が悪ければさっさと病院へ行け、砂糖の入った飲み物を飲むな、毎日全力でラジオ体操第一と第二をやれ――違う、そうじゃない。
「何かあったら養ってやると」
「んんっ!? そんなこと言われたの?」
「はい。扶養に入れてやると」
「んふふ……時代は変わったな。優衣香ちゃんの元々の性格なんだろうけど」
優衣香の元々の性格か――まあ、思いやりはあるが大雑把なところはある。それにしても優衣香のことを話題にすると、自然と微笑んでしまう自分がいる。恥ずかしい。
「なあ、敬志。お前の世代は、まだ家庭を犠牲にしないとならないよ。民間もそうだけど、俺らの世代は割を食ってる。でも、やらないとならないよな」
「はい」
「敬志、それでも家庭を大切にしろ。嫁を第一に考えろ。俺は出来なかったけど、お前には出来るから」
――その言葉は、どっちから聞いたのかな。
須藤さんは微笑み、ゆっくりと踵を返して、俺を置いて歩き始めた。俺は須藤さんの後ろ姿を追う。
――石川さんとはどうなったのかな。
優衣香に石川さんのことを訊ねても、上手くいってるようだよとしか言わなかった。須藤さんのプライベートだから優衣香は話したがらなかったが、石川さんのことを一つだけ教えてくれた。
「須藤さん」
「ん?」
「石川さんとは会いました?」
「いや」
「連絡は?」
「してない」
俺の顔を見ることなく、正面を向いたまま声音も変わらずに話す須藤さんの表情はわからないが、どこか寂しさを感じた。
――なら知らないのかな。
もちろん他人のプライベートを易々と踏み込んでいいものではないとわかっている。だが俺にとっては須藤さんは特別な人だ。俺が、言えばいい。
「須藤さん。お願いがあるんですけど」
「ん?」
歩きながら振り向いた須藤さんは俺を見上げ、目を見た。
「家庭を大切にしろ、嫁を第一に考えろというの、どんな風にすればいいのか、お手本を見せてもらえませんか?」
すぐに鋭い目線を向けた須藤さんだったが、口元は緩んでいる。
「言ったな」
「だって優衣香から聞きましたよ。石川さん、亡くなったご主人のご両親に――」
俺の言葉に目が彷徨った須藤さんは立ち止まり、俺を見上げた。だが目を合わせない。目を伏せてしまった。やっぱり何も知らないのか。
「――恋人が出来たと報告したら、『もう自由になっていい、その男性と幸せになりなさい』と言われたそうですね。再婚、すればいいんじゃないですか?」
須藤さんは何かを思い出しているようだ。
唇を軽く噛みしめて、小さく息を吐いた。
何も言わぬまま、俺を見て頬を緩ませた須藤さんはまた歩き出す。
背筋を伸ばした後ろ姿は夏の陽光に包まれ、白いポロシャツが輝いている。太陽の光がそれに反射して。
――追いかけろ、離れないように。
セミの鳴き声と照りつける太陽と身体にまとわりつく熱い空気。
後ろから須藤さんの名を呼んだ。
― ファーレンハイト・完 ―
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完結のお礼とあとがき
ファーレンハイトは第一部と第二部で完結です。
松永敬志の片思いが叶った日から結婚までの日々を最後まで見守っていただき本当にありがとうございました。
更新するといつも読みに来て下さるあなた様のおかげで完結まで書き上げることが出来ました。本当に感謝しています。
あとがきが不要の方は、私からの感謝の気持ちだけでも受け取っていただけたら嬉しいです。
またお会いしましょう。
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あとがき
タイトルの『ファーレンハイト』はディオールの男性用香水『Fahrenheit』の広告から着想を得ています。
凍てつく冷たさと沸き立つ熱さ。弱さと強さ。情熱と繊細さ。誠実さと奔放。包容力と官能。
そんな相反するものを持ち合わせる大人の男性のイメージを主人公の松永敬志に重ねた物語でした。
職業は警察官で、物語の中では『所属を明らかに出来ない警察官』であり、そして『家に帰れない仕事』としていました。
もちろん本作はフィクションですが、公安職でも家に帰れない仕事の方はいらっしゃいます。例えば海上自衛隊なら演習、海外派遣訓練、練習航海など。警察官は転勤で単身赴任を選択される方もいますし、他県に出向もあります。
もちろん民間企業でも、単身赴任や家族帯同不可の海外駐在、島嶼部勤務で簡単には帰れない方もいらっしゃいます。
恋人や家族と離れて暮らす男性が想いを募らせ、大切な人を想うがゆえに深く思い悩む姿と、会えた時の心躍る姿を『ファーレンハイト(華氏)=氷点と沸点』として、松永敬志の内面や環境が変化して葛藤しながら成長していく様子と、その他の登場人物たちのそれぞれの仕事、プライベートで『氷点と沸点』を行き来する姿を書きました。
第二部においての松永敬志の悩みの正体はマリッジブルーですが、それは『他にいい女がいるのではないか』ではなく、笹倉優衣香の人生に責任を持つ重責からによるものです。
笹倉優衣香は『養ってあげる』と言いましたが、それは松永敬志が『男らしさ』に囚われ過ぎて自分を追い詰めていると感じたからであり、その言葉は松永敬志を解放するための言葉でした。
女が求める『男らしさ』など、女が都合良く押し付けている『男らしさ』に過ぎないですからね。
本作に出てくる女性は皆、自分を持っている強い女性で、それぞれの『強さ』のベクトルは違いますが、一人で生きていけるからこそ、自分の人生に相手が必要だから一緒にいたいと考える女性たちです。
笹倉優衣香も石川奈緒美も、大きな喪失を経験したからこその答えを持っています。
『自分が幸せかどうかは自分で決める』
そんな女性たちでした。
本作は恋愛カテゴリーで書き始めましたので、松永敬志と笹倉優衣香の結婚がゴールとして完結です。
須藤諒輔の選択や、他の登場人物たちのその後など、以後は彼らの未来を書いていけたらいいなと思っています。
またあなたにお会いしたいです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
2023年12月
風森愛
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『後日譚・8/20編』を公開しました。
全12話です。
『万国橋』
神奈川県横浜市中区新港
本文 約3000文字
お礼とあとがき 約1200文字
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七月二十一日 午前六時十分
昨夜十時から五時まで、俺と中山、岡島と飯倉はベイサイドファクトリーで作業をしていた。
作業を終えて横浜の事務所に戻るはずが、帰り道にしては遠回りな、みなとみらいの端にある運河にかかる
俺を置いて白いワンボックスカーは去って行く。
同じ視界の中にコンクリート橋の欄干に手をついて朝焼けに輝く水面を眺める男がいた。須藤さんだった。
ライトブルーのデニムに白のポロシャツを着た須藤さんは、顔を上げて右方にある神奈川県警本部を見上げた。建物上部にある円弧状に張り出たガラスに朝日が反射している。
近づく俺の気配に気づいたのか、ちらりと視線を俺に向け、微笑んだ。
「お疲れ様」
振り返った須藤さんは欄干に背を預け、正面のみなとみらい側を向いた。俺は須藤さんの右側で、同じように欄干へ背を預けた。
「ランドマークタワーの横にある背の違う白い三つのビル、クイーンズタワーだっけ? ビルの真ん中に廊下があって、こっち側は海側で、廊下の向こう側は山側って言ってて、山側の賃料は安いんだって。ふふっ」
「あー、海側は眼下に遊園地ですもんね。みなとみらいって感じですもんね」
「山側は向かいのビルしか見えないから安いんだって」
――そんなこと、話すために俺を呼んだわけないよな。
ちらりと須藤さんに視線を向けると、須藤さんは俺に顔を向けた。その顔はただ穏やかな表情だった。だから俺も、肩の力を抜いて微笑んだ。
すると須藤さんも微笑みを返してくれて、口を開いた。
「結果を、教えて」
優衣香との話し合いの結果か。吉崎さんからは聞いていないのか。
「辞めません。転属も希望しません。今のままで、います」
そう答えると、須藤さんは微笑みを崩さず、俺の目をじっと見つめた。
俺はその目を真っすぐに見返し、そして言った。
優衣香や吉崎さんに説得されたからじゃない。俺が決めたことだ。そう伝えるためにも、目をそらさずにいようと思った。
「須藤さんについていきます。今後とも、ご指導の程、よろしくお願いいたします」
須藤さんの目は俺を見据えている。
俺は嘘は吐いていない。本心だ。自分がやれることを一生懸命やろうと思う。
見つめ合ったまま数秒経った頃、須藤さんは目を伏せて、溜め息を吐いた。俺は須藤さんに喜んでもらおうとかそんなことは考えていなかったが、思っていたものとは違う反応に困惑してしまった。
「あの……なにか……」
「敬志、俺はお前に幸せになってもらいたい。このまま続けて、いいのか? 本当に、いいのか?」
欄干に背を預けている俺の前に、須藤さんは立った。顔を上げて俺を見る須藤さんは、真剣な眼差しだった。
「続けます。俺にしか出来ないですから」
俺は強い意思を持って見つめ返すと、須藤さんは目を伏せて俯き、そしてまた、溜め息を吐いた。
だがその目は悲しみや呆れという表情ではないように思える。須藤さんは何かを迷っているような、そんな気がした。ただ、何を迷っているのか俺にはわからない。
須藤さんは顔を上げ、俺と目を合わせた。そして微笑み、こう言った。
「俺らや、上の世代は家庭を犠牲にした。でも偉くなって、お前らのために地ならししてレールを敷いた。ガッタガタだけどな。それに乗りながら整備、修繕するのはお前らの世代だけど、お前は次の世代が安心して乗れるようにしてやれるか?」
優衣香や吉崎さんのように、不安を取り除く言葉をかけてくれると思っていた。だが須藤さんが口にしたのは、今後の俺がどうするかという話だった。
――結果を出せと言ってるのか?
俺がやれるかどうか試しているのか――そう感じた俺は、真っすぐに須藤さんの目を見つめた。
「やります。でも、須藤さんに指導していただかないとならないと思っています」
頬を緩ませ、優しい笑顔で俺を見ている須藤さんは、何かふっきれたような、そんな表情で背後にある海側を向き、手すりに肘を置いた。
俺も同じようにして、運河に反射する朝焼けを見た。
「いつ、入籍するの?」
「八月二十五日の予定です」
「なんで二十五日?」
輝く水面を見ながら須藤さんは訊ねる。
言いたくない――言いたくない理由は恥ずかしいからだか、言ってしまおう。俺は須藤さんについていくと決めたのだから。
「優衣香にラブレターを渡した日だからです」
俺がそう答えると、須藤さんは俺を見た。そして徐々に頬を緩ませ、口元を緩ませていく。俺も頬が熱くなるのを感じたが、運河を見続けた。きっと、にやけているのだろう。
俺は横目で須藤さんを見ると、横顔は口角を上げて微笑んでいた。
「話し合って、優衣香ちゃんは何て言ってた?」
「えっ? ご存知なんじゃ……」
「……話し合う中で考えが変わることだってあり得る。どうだった?」
俺は優衣香との話し合いを思い返した。
交通事故死より殉職より多いのは入浴中の事故、食後1時間以内は風呂に入るな、疲れている時は風呂に沈むからシャワーだけにしろ、寝る前にメシを食うな、健康診断の結果が悪ければさっさと病院へ行け、砂糖の入った飲み物を飲むな、毎日全力でラジオ体操第一と第二をやれ――違う、そうじゃない。
「何かあったら養ってやると」
「んんっ!? そんなこと言われたの?」
「はい。扶養に入れてやると」
「んふふ……時代は変わったな。優衣香ちゃんの元々の性格なんだろうけど」
優衣香の元々の性格か――まあ、思いやりはあるが大雑把なところはある。それにしても優衣香のことを話題にすると、自然と微笑んでしまう自分がいる。恥ずかしい。
「なあ、敬志。お前の世代は、まだ家庭を犠牲にしないとならないよ。民間もそうだけど、俺らの世代は割を食ってる。でも、やらないとならないよな」
「はい」
「敬志、それでも家庭を大切にしろ。嫁を第一に考えろ。俺は出来なかったけど、お前には出来るから」
――その言葉は、どっちから聞いたのかな。
須藤さんは微笑み、ゆっくりと踵を返して、俺を置いて歩き始めた。俺は須藤さんの後ろ姿を追う。
――石川さんとはどうなったのかな。
優衣香に石川さんのことを訊ねても、上手くいってるようだよとしか言わなかった。須藤さんのプライベートだから優衣香は話したがらなかったが、石川さんのことを一つだけ教えてくれた。
「須藤さん」
「ん?」
「石川さんとは会いました?」
「いや」
「連絡は?」
「してない」
俺の顔を見ることなく、正面を向いたまま声音も変わらずに話す須藤さんの表情はわからないが、どこか寂しさを感じた。
――なら知らないのかな。
もちろん他人のプライベートを易々と踏み込んでいいものではないとわかっている。だが俺にとっては須藤さんは特別な人だ。俺が、言えばいい。
「須藤さん。お願いがあるんですけど」
「ん?」
歩きながら振り向いた須藤さんは俺を見上げ、目を見た。
「家庭を大切にしろ、嫁を第一に考えろというの、どんな風にすればいいのか、お手本を見せてもらえませんか?」
すぐに鋭い目線を向けた須藤さんだったが、口元は緩んでいる。
「言ったな」
「だって優衣香から聞きましたよ。石川さん、亡くなったご主人のご両親に――」
俺の言葉に目が彷徨った須藤さんは立ち止まり、俺を見上げた。だが目を合わせない。目を伏せてしまった。やっぱり何も知らないのか。
「――恋人が出来たと報告したら、『もう自由になっていい、その男性と幸せになりなさい』と言われたそうですね。再婚、すればいいんじゃないですか?」
須藤さんは何かを思い出しているようだ。
唇を軽く噛みしめて、小さく息を吐いた。
何も言わぬまま、俺を見て頬を緩ませた須藤さんはまた歩き出す。
背筋を伸ばした後ろ姿は夏の陽光に包まれ、白いポロシャツが輝いている。太陽の光がそれに反射して。
――追いかけろ、離れないように。
セミの鳴き声と照りつける太陽と身体にまとわりつく熱い空気。
後ろから須藤さんの名を呼んだ。
― ファーレンハイト・完 ―
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完結のお礼とあとがき
ファーレンハイトは第一部と第二部で完結です。
松永敬志の片思いが叶った日から結婚までの日々を最後まで見守っていただき本当にありがとうございました。
更新するといつも読みに来て下さるあなた様のおかげで完結まで書き上げることが出来ました。本当に感謝しています。
あとがきが不要の方は、私からの感謝の気持ちだけでも受け取っていただけたら嬉しいです。
またお会いしましょう。
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あとがき
タイトルの『ファーレンハイト』はディオールの男性用香水『Fahrenheit』の広告から着想を得ています。
凍てつく冷たさと沸き立つ熱さ。弱さと強さ。情熱と繊細さ。誠実さと奔放。包容力と官能。
そんな相反するものを持ち合わせる大人の男性のイメージを主人公の松永敬志に重ねた物語でした。
職業は警察官で、物語の中では『所属を明らかに出来ない警察官』であり、そして『家に帰れない仕事』としていました。
もちろん本作はフィクションですが、公安職でも家に帰れない仕事の方はいらっしゃいます。例えば海上自衛隊なら演習、海外派遣訓練、練習航海など。警察官は転勤で単身赴任を選択される方もいますし、他県に出向もあります。
もちろん民間企業でも、単身赴任や家族帯同不可の海外駐在、島嶼部勤務で簡単には帰れない方もいらっしゃいます。
恋人や家族と離れて暮らす男性が想いを募らせ、大切な人を想うがゆえに深く思い悩む姿と、会えた時の心躍る姿を『ファーレンハイト(華氏)=氷点と沸点』として、松永敬志の内面や環境が変化して葛藤しながら成長していく様子と、その他の登場人物たちのそれぞれの仕事、プライベートで『氷点と沸点』を行き来する姿を書きました。
第二部においての松永敬志の悩みの正体はマリッジブルーですが、それは『他にいい女がいるのではないか』ではなく、笹倉優衣香の人生に責任を持つ重責からによるものです。
笹倉優衣香は『養ってあげる』と言いましたが、それは松永敬志が『男らしさ』に囚われ過ぎて自分を追い詰めていると感じたからであり、その言葉は松永敬志を解放するための言葉でした。
女が求める『男らしさ』など、女が都合良く押し付けている『男らしさ』に過ぎないですからね。
本作に出てくる女性は皆、自分を持っている強い女性で、それぞれの『強さ』のベクトルは違いますが、一人で生きていけるからこそ、自分の人生に相手が必要だから一緒にいたいと考える女性たちです。
笹倉優衣香も石川奈緒美も、大きな喪失を経験したからこその答えを持っています。
『自分が幸せかどうかは自分で決める』
そんな女性たちでした。
本作は恋愛カテゴリーで書き始めましたので、松永敬志と笹倉優衣香の結婚がゴールとして完結です。
須藤諒輔の選択や、他の登場人物たちのその後など、以後は彼らの未来を書いていけたらいいなと思っています。
またあなたにお会いしたいです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
2023年12月
風森愛
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『後日譚・8/20編』を公開しました。
全12話です。