第3話 出現

文字数 3,160文字

 尾行されていると知り、葉梨は動揺している。
 無理もない。八時にいる男は尾行に不慣れだ。だから葉梨は気づいた。だが先導者以外のもう一人の男は、俺ですらたまに見落とす時がある。そしてもう一人は、葉梨は知りたくないだろう。時折気配が消えるその一人は俺も、嫌だ。

「うち一人は女だよ」
「えっ……」

 俺はこの女に尾行された事が数回ある。近づいたと思ったら気配が消えたり、気づかぬままジャケットの外ポケットに紙を入れられたりと、その技術には毎回驚いている。
 まだ俺たちには近づいてはいないが、そのうち近づくだろう。

 駅前の繁華街を抜ける前に、尾行に不慣れな二人は消え、たまに見落とす男が俺たちの真後ろに来て、追い越した。女も消えている。
 葉梨は気づいていない。

「今日は泊まるの?」
「はい、その予定です」

 葉梨はいつまでも俺が一緒に歩いている事に嫌な予感は確信に変わっていた。

「あのもしかして同じマンション、なんですか?」
「うん。しかも加藤の隣」
「うっ……」

 ――葉梨くん、俺だって、嫌だよ。

「しょうがない。諦めよう」
「……そうですね」

 その時だった。
 消えた女が近寄ったと気づいた時にはもう、俺たちは首根っこを掴まれていた。

「バカなの?」

 振り向くと玲緒奈さんがいた。
 そして俺たちに、玲緒奈さんは言った。

「二人でジャンケンして。勝った方に、先にお邪魔するから」

 みるみる生気が失われていく葉梨を見ながら、先と後、どちらが良いのか、俺は真剣に考えた。
 先だ。絶対に先の方が、良い。嫌な事はさっさと終わらせるに限るだ――

「葉梨、ジャケットのポケット、見てみ」
「えっ……」
「……いつ、入れたんですか?」
「んー、電車の中で」

 ――電車の中から一緒だったんだ。

「敬志、あんたも見てごらんよ」
「ええっ!?」

 ◇

 午後六時十一分

 優衣香のマンションに着き、オートロックを解除してもらって、三人で中に入った。
 玲緒奈さんは優衣香に訪問予定時刻の幅を持たせていた為、ジャンケンで勝った葉梨は玲緒奈さんを連れて加藤の部屋に先に行く事になった。葉梨は絶望顔だ。俺は先の方が良かった。

 玲緒奈さんは優衣香に年に数回は会うらしい。母と一緒に命日に訪問する時もあるし、一人で優衣香に会う時もあるという。
 俺は優衣香から玲緒奈さんの事はあまり聞いていない。だから会うのは母と一緒に来た時だけだと思っていたから、玲緒奈さん一人で会っていたとは初耳だった。
 何を話しているのだろうか。優衣香は俺の何を、聞いたのだろうか。

 俺は優衣香に半年ぶりに会えるからウッキウキのはずなのに、少しだけしょんぼりしている。

 ◇

 非常階段で三階に上がった俺たちは、それぞれの部屋のポーチの前にいた。
 加藤は玲緒奈さんの突撃訪問を知らないし、隣に引っ越して来た女性の恋人が俺だとも知らない。
 俺は二人に挨拶をしてポーチの中に入ったが、インターフォンを鳴らす前に加藤宅の様子を覗った。

 ドアが開くと加藤は葉梨を出迎えた。だがその後の声にならない声と、玲緒奈さんの笑い声を聞き、俺は唇を噛み締めながら、優衣香の部屋のインターフォンを押した。

 ◇

 チェーンロックを解除して鍵を開けた音がして、ドアが開くと優衣香がいた。俺を見上げる優衣香は変わらない茶髪パーマで笑顔だ。

「久しぶりだね」
「おかえりなさい」

 ああ、そうだった。優衣香はあの日、「いってらっしゃい」と言っていた。だから優衣香は、俺の帰る場所になったんだ。

「優衣ちゃん、ただいま」

 そう言うと、優衣香は笑った。
 濃い緑の綿の膝丈ワンピースに白いカーディガンを羽織る優衣香は、体型は変わっていない。
 俺は優衣香を抱き締めて、顔を近づけると優衣香は背伸びして唇を重ねてきた。このままベッドへ、と思うが、まず聞かなくてはならない事がある。

「優衣ちゃん、俺に隠し事あるでしょ?」
「えっ……」

 俺は目を細めて、唇を尖らせた。
 その顔を見た優衣香は吹き出したが、「玲緒奈さんの事?」と聞いてきた。

「そうだよ」
「んー、玲緒奈さんは敬ちゃんには秘密って言ってたから……」

 ――そんな秘密、バラしちゃえばいいのに!

「玲緒奈さんは七時に来るって」
「うん、分かった」
「あのさ、このままさ、車で、ホテルに行かない?」
「えっ!?」
「俺、玲緒奈さんに、会いたくない」
「何言ってるの?」
「……うん、そうだよね……」

 優衣香に呆れられたが、優衣香の『お前は何を言っているんだ』の顔が可愛いなと思った。

 ◇

 玄関の右側は天井までのシューズボックスで、正面は壁で廊下は左方向に伸びている。
 玄関の左側はトイレで、正面は六畳の部屋。トイレの隣は洗面所と風呂場、廊下の正面の扉を開けると右手がキッチンで、リビングダイニングは十畳だった。左手には和室があり、右手奥にドアがあった。

「お洒落なマンションだね」
「そうなの。内見して気に入ってね」

 ここは分譲と賃貸併用マンションだそうだ。加藤は分譲部分を購入した。
 葉梨と玲緒奈さんとは、隣人が俺の恋人だとは加藤には秘密にしておこうと決めた。優衣香にももちろん伝えない。
 突撃訪問を食らった加藤のメンタルを考えるとそれが良いのだが、バレた時にどうなるのかを考えると、また俺はしょんぼりしてしまった。

 ◇

 お仏壇に線香を上げ、隣接するリビングに戻ると優衣香はキッチンにいた。
 俺は優衣香の後ろに立って、抱き締めようとして思い出した。前回俺は米を研ごうとしている優衣香を襲ってマジギレされた事を。

「優衣ちゃん、今、ギューしていい?」
「だめ」

 優衣香は包丁を手にした。
 さすがに刺されないだろうとは思うが、念の為、後退りすると、優衣香は玲緒奈さんの来宅に備えてメロンを切ると言う。

 メロンを切る優衣香を眺めていると、メロンをガラス皿に乗せた優衣香は俺を見た。笑顔で「おいで」と言われて近づくと、メロン一切れを左手に持った優衣香は「あーん」と言う。
 その優衣香の笑顔が可愛くて、口を開けるとメロンを食べさせてくれた。

 優衣香も一切れ食べた時、果汁が指先、手のひらに滴る優衣香の左手を取って、唇を這わせた。
 手首まで滴る果汁を舌先で受け止めて、掬い上げて、手のひらも舐めて、指先は優衣香に見せるように舌で舐めると、優衣香は目を伏せた。
 そのまま左腕を優衣香の腰に回して引き寄せて、シンクに押し付けると優衣香は右手を俺の肩に乗せようとした。だが指先が濡れていて躊躇している。

 両手を使えず俺に体を押し付けられている優衣香は何も出来ない。
 指先を口内に入れて舌で包むと優衣香は唇を噛んだ。

 背中に添わせた左手をゆっくりと胸まで動かしても優衣香は何も言わない。だが胸のふくらみの先端を指先でなぞっても、思ったような反応が無かった。優衣香の反応も、指先の感触も。なぜかと思い優衣香の胸を見ると、優衣香は笑いを堪えながら顔を伏せた。肩が震えている。
 俺は優衣香の指先から口を離した。

「優衣ちゃん、これってタンクトップにパットが付いてるやつ?」
「んふっ、そうだよ」
「もう!」

 ――俺はおっぱいを全て覆うパットを許さない。絶対にだ。

 そう思っている男は多いだろう。いや、全員がそう思っているはずだ。おっぱいを全て覆うパットなど男の敵だ。この世から消えてしまえばいい。おっぱいを全て覆うパットなど滅びれ、滅びれば、んー、滅びるが、滅びるがよい、そう、滅びるがよ――

「でもこれ、すぐズレるタイプだよ?」
「えっ、本当? 本当に? 触れる? 触っていい?」

 優衣香は笑いながら頷き、俺は親指でパットをずらして胸のふくらみを手のひらで優しく包むと、優衣香は唇を求めて来た。
 唇を軽く重ねながら柔らかなふくらみの先端を指先でなぞろうとした時、新たな敵が現れた。

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