第11話 先輩

文字数 3,370文字

 午前零時五十分

 ――あと残り五分。

 下を向いたままの敬志と無言の空間にいる。
 廊下には人の気配がしていたが、消えた。
 敬志も気づいたようだが刑事課から離れる気配を感じる。

 藤川充は年内で群馬県警(・・・・)から離れるという。その後は警視庁(ウチ)に戻るそうだ。だが藤川が俺ら(・・)の元に来るわけではない。だから敬志が辞めるとなると問題も起きる。それでも俺は、敬志が望むのなら送り出してやりたい。

「須藤さん……陸から聞いたんですか?」
「そうだよ」
「陸は何て言ってましたか?」

 敬志は体を俺に向け、真っすぐ見ている。不安そうな表情だ。中山がバラしたことは問題ではないのか。

「辞めたいと。中山は『敬志をどうにかしてあげてください』って言ってた」
「そうですか」
「中山と加藤に話した時点で、心は決まってるんだろ? 背中を押してもらいたかったんだろ?」
「……いえ、違います」

 膝の上で指先を組む敬志は親指を撫ぜている。時間が無い。飯倉が来てしまう。

 優衣香ちゃんは敬志が安心して仕事が出来るように支えてあげたいと言っていた。優衣香ちゃんは敬志の命を愛している。敬志が生きていれば良いと。
 敬志は守るべきものが出来たから辛いのだろう。

「転属願いを、出したいです」
「どこに?」
「家に、帰れる部署ならどこでも」
「優衣香ちゃんが望んだのか?」
「違います」

 敬志は所属を“音楽隊で楽器を拭く係”だと言っている。優衣香ちゃんはもちろん信じていないが、正しい所属を知ろうとはしない。
 俺たちの仕事は警察がやることではない。誰にも言えない任務だ。この仕事について知っている者もいない。

「お前がこの仕事から離れたいんだろ?」
「……そういうわけではないです」
「なら、優衣香ちゃんが今のままで良いと言うなら、お前はどうする?」

 目を伏せていた敬志は顔を上げ、俺に鋭い目線を寄越した。

 敬志は立ち上がり、俺の前に来た。
 デスクに手を付き、俺を見る。
 だが敬志の言葉に、俺は哀しくなった。

「優衣香を説得するとか、そういうのはやめてください」

 ――俺は、やっぱり頼りにされてない。

 突きつけられた現実に打ちのめされる。
 敬志と初めて会ったのは高校一年の夏休みだった。中学一年生の敬志は家を訪問した俺に挨拶をしてくれたが、当時五歳だった弟の理志(さとし)君と一緒に玄関で正座して俺に頭を下げていた。
 敬志に続いて口上を述べる弟がきちんと言えた時、敬志は理志君の頭を撫でた。二人を見る敦志は微笑んでいた。
 俺には年の離れた兄と姉がいる。
 敦志には自分を慕う可愛い弟が二人もいて、ただ、羨ましかった。

 敬志が警察官となってからは所属が同じになることはなく疎遠にはなっていたが、今の仕事(・・)で俺の下に来た後は、俺は敬志に目を掛けたつもりだった。もう十年は経つが、良い関係だと思っていた。
 そう思っていたのは俺だけ――情けない。自分がただ、情けない。

「お願いします」

 敬志は深く頭を下げている。
 俺を見る敬志は初めて見る顔をしている。
 すがりつくような顔だったが、俺はそれを哀しい気持ちで見つめていた。

 敬志は俺を頼ってくれなかった。なら、上司(・・)として言わなくてはならない。

「吉崎さんには相談した?」
「いえ、してません」
「そっか……お前は吉崎さんが会社(・・)を辞めた理由は知ってるよな?」
「はい」
「吉崎さんは俺に『家族のためなら泥水でもすする』って言ったけどさ……」

 敬志は驚き、目が動く。敬志は知らなかったのか。敬志が知る吉崎さんは仕事一筋だったから、家庭を犠牲にしている吉崎さんしか知らなかったのだろう。
 トカゲの尻尾切り――元々荒っぽくて評判の良くなかった吉崎さんの退職理由はそう思われている。

 誰かがやらなきゃならないからやってるだけ――。
 捨てろ、全部捨てなきゃ出世は出来ねえよ――。

 俺にそう言い続けた吉崎さんは家族を失いかけた。だから、仕事を捨てた。吉崎さんが正しいと思い込んでいた俺には、何も残っていなかった。

「奥さんが五人目を妊娠中、自殺未遂しただろ?」
「えっ……」

 ――何も知らなかったのか。

「吉崎さんが中絶の同意書を破り捨てた日、だった」

 元々体が丈夫でない奥さんは一人目の時点で限界だった。|悪阻も《おそ(つわり)》酷く、奥さんが妊娠を望まなかった。だが吉崎さんは避妊もせず、二人目も三人目も四人目も吉崎さんは産むことを望み、その都度中絶には同意しなかった。

「夜中目覚めた吉崎さんが奥さんがいないことに気づいてな、探したら、ベランダから飛び降りる寸前だったんだよ」
「そうだったんですか……」
「それでも吉崎さんは目を覚まさなかったよ。官舎で飛び降り自殺なんてされたら自分の立場が無くなるって言ってた」
「……でも、吉崎さんは、辞めましたよね?」
「ああ、そうだな」

 敦志が何かを言ったから吉崎さんは会社(・・)を辞めることを決めたという。
 何を言われたのかは吉崎さんは教えてくれず、敦志も教えてくれなかった。ただ、吉崎さんは『玲緒奈は幸せだろうな。俺は嫁のために先輩と刺し違える覚悟はねえよ』と言っていた。

 敬志は戸惑ったような表情で俺を見ている。そんな顔をさせるつもりはなかったのに。

「吉崎さんがあの時、会社(・・)を辞めずに家庭を守るとしたら、転属するしかなかったよな」
「そうですね」
「敬志。今の時代、家庭と仕事の両立を考えるのは、女性だけじゃない。男だって同じだよ」

 俺が言いたいことは理解してもらえるだろうか。少し首を傾げる敬志はわかっていないようだ。

「家庭の事情で転属を希望されたら、会社は配慮をしないとならない。子育て、介護、自分や家族の健康問題。全員、皆それぞれ事情を抱えてる」
「はい」
「お前が転属願いを出す理由は何だ? 優衣香ちゃんと話し合え。それでもお前がどうしても続けられないなら、そう言え。最後ぐらい、俺にお前を守らせてよ」

 ――タイムアップだ。足音がする。

 敬志も気づいたようだ。
 振り返り入口を見た。

 ドアをノックする音がしたが、足の運びが飯倉ではなかった。なら誰だ。入室を告げる声は――玲緒奈さんだった。

 ドアが開き、玲緒奈さんは敬志と俺を見た。
 殺傷力を増した小さいピコピコハンマーとコンビニのレジ袋を持った玲緒奈さんは、敬志に微笑んだ。そして――。

「廊下。敬志、可愛い後輩が待ってるよー」

 そう言って玲緒奈さんは俺の元へと歩み寄る。
 敬志はすぐに廊下へ出たが、情けない声がした。

「ああっ! 二人やられてます!」

 ――二人? 飯倉と誰?

「……誰、なんですか?」
「ん? 本城と岡島だよ」

 玲緒奈さんはレジ袋からサンドウィッチを取り出した。コンビニに寄って戻って来た本城を襲ったのか。岡島はついでにやられたのか。ここは警察署なのに。二人とも警察官なのに。

「諒ちゃん、お腹空いてる? サンドウィッチ半分こしようよ」
「それ、本城のサンドウィッチですよね?」
「いいのいいの。カネで解決するから」

 ――どこからツッコめばいいんだよ。飯倉はどこ行った。

「須藤さーん!! ハサミ持って来てくださーい!」

 敬志の声がする。
 玲緒奈さんは口元を緩め、「新技だよ」と言う。

「研鑽を重ねる先輩に、ただただ敬服します」
「後輩が育ってないと、辞められないからね」

 ――やっぱり聞いてたのか。

 俺を真っすぐ見ていた玲緒奈さんは目を伏せた。
 玲緒奈さんは気配を断って、廊下で聞いていたのだろう。おそらく全て聞いていたと思う。どんな気持ちで聞いていたのだろうか。
 吉崎さんの奥さんに起きたことを、玲緒奈さんは全て知っている。同じ女性として母として、哀しい記憶が蘇っただろう。

「ハサミー! 須藤さーん! 首締まっちゃう!」

 義弟の焦る声に玲緒奈さんは噴き出した。

「諒ちゃん、可愛い後輩にハサミ持っていってあげてよ」
「了解です、けど……飯倉は見ませんでした?」
「飯倉は四階の会議室で伸びてる」
「はあっ!?」
「早く。敬志が諒ちゃんを頼ってるんだよ。ハサミ持って、早く」

 ――そのために襲ったのか。手段を間違えてる気がする、けど……。

 本城から強奪したサンドウィッチを食べながら優しく微笑む玲緒奈さんに、俺は一生敵わないと思った。

「須藤さーん!!」

 敬志の俺を呼ぶ声。
 ハサミのある引き出しに手を伸ばすと、頬が緩んだ気がした。




 ― 第9章・了 ―

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