タイタニックとブラザー
文字数 3,240文字
八月二十日午後五時二十二分
階段を下りる中山を見送っている。
踊り場で振り向く中山は笑顔で俺を見上げるが、その姿に胸が痛む。十分過ぎるほどのレポートを上げた中山を苛立たらしげに叱責する藤川には怒りしかない。でも、仕方のないこと。
部屋に戻り、リビングのドアを開けて藤川を見るとまだあの曲を聴いていた。頬杖をついたまま、俺を見て微笑む。
「諒輔君おかえりー」
「ただいまー」
「あのねー、モラハラクソ上司みたいなの、やりたくないんだけどー」
「そうなのー? そうは見えないけどー?」
「ムカつくなー」
笑っているが、ふっと寂しげに目を伏せる藤川は、俺の手元の捜査員と距離を置くために演技で『モラハラクソ上司役』をやっている。だが、加藤だけは気づいている。加藤は藤川と文通をしていたから、偽りの藤川に気づいたのだろう。
「こんな完璧なレポート上げてんのに、文句言わなきゃならない俺の辛さは理解してくれてる?」
「もちろん」
「ならいいけど」
動画アプリで再生していた音楽を止める藤川は俺に優しく微笑む。その表情を見ながら、俺は依頼された追加調査のレポートをカバンから取り出した。
安原美波の不倫相手で、現在は運送会社で働く元警察官についての素行調査だ。
座卓に座り、正面の藤川に渡す。
レポートを手に取った藤川は興味無さげに流し読みするが、レポートに視線を向けたまま口を開いた。
「休みなのにごめんね」
「ふふっ、いいよ。早く連絡したいんだろ?」
「うん。いい人そうだし」
「不倫は、いいの?」
「慰謝料完済したんだろ? 逃げないでよくやったと思うけど。お前は?」
――人の本質なんて変わんねえよ。
「本気にはならない、な」
「そう」
会話はこれで終わり、お互い黙ったままでいたが、藤川がレポートを読み終えたところで俺は口を開いた。だが少しだけ、伝えるのをためらう。藤川を見て感じたことを伝えた方がいいと思っただけだが、自分自身に問うているようでためらっているのだろう。
「昔の男を忘れてないようだけど、いいの?」
藤川は俺をじっと見て、短い息を吐き出してから俯き加減に笑う。
「俺だって忘れられない女、いるから。お前だって、そうだろ?」
藤川の、伏せた顔の口元が歪んで見えた。
◇
安原美波は休みで在宅しているようで、藤川は電話をかけるという。俺は席を外そうかと言ったが、いたままでいいと言われ、少し緊張した表情の藤川を眺めている。
スマホを両手で持ち、何度も深呼吸しては画面をタップしようとして、指先を引っ込めている。
「何やってんだよ、面白い奴だな」
「うるさいなー! 緊張してんだよ」
藤川の意外な一面に驚くが、無理もないかなと思う。藤川は二十二の時に交番 勤務を終えて署に戻ると、用意された服に着替えさせられ、スーツケースと現金二十万円と航空チケット、そして偽造パスポートを渡され、成田空港からフィリピンに連れて行かれたという。
何があったのか、何をしていたのかはたまに話してくれるが、日本に戻ったのは約十年前、藤川は三十一歳になっていた。その間、一度も帰国していない。
帰国してから交際した女性はいないという。だから安原美波が自分に興味を持ってくれたことが嬉しいようだ。今の見た目なら女などいくらでもとは思うが、ガラの悪い見た目でいた年数が多いせいか、女から避けられていることが当たり前で、女とどう関係を構築すればいいのかわからないそうだ。
俺が藤川と再会したのは五年前だが、加藤は八年前、六年前、三年前に会っている。いずれの日も見た目が違っていて、加藤は気づかなかったという。
『最初は昭和の暴力団で、次は風俗のキャッチ。最新はロン毛のザイル系ですよ? 気づかないですよ』
そう言った加藤に、俺が再会した際の藤川の見た目を話すと笑っていた。岡島そっくりの昭和のチンピラだったよと。
「まだかけないの?」
「うるさいなー!」
「ふふふっ……」
藤川は笑っているが、その口元は緊張のせいか引きつっている。俺は藤川から目をそらし、スマートフォンを取り出す。
奈緒美さんからメッセージが届いていた。今夜は電車なのか車なのかを問うメッセージに、頭の上にクェッションマークのついたペンギンのスタンプがあった。思わず頬が緩む。
「なんだよ、スマホ見てニヤニヤしやがって」
「ふふっ、羨ましいか? なら早く電話しろよ」
「うるさいなー!」
――いいから早くかけろよ。
藤川に目を向けると、じっと俺を見てから大きく息を吐き、スマートフォンに指先を合わせ、画面をタップして耳に当てる。その横顔には緊張が見えるが、迷いはなさそうだ。俺はホッと胸を撫で下ろす。
電話はすぐに繋がったようで、緊張した藤川の顔がパッと明るくなる。安原美波の声は聞こえないが、俺は呆気にとられた。
「藤川です。ご連絡が遅くなってしまって申し訳ありませんでした。お手紙を頂き、ありがとうございます。実はまた横浜へ行くことになりまして、ぜひお会い出来ないかと。いつが、ご都合がよろし――」
――早口過ぎるだろ。聞き取れねえよ。落ち着けよ。
安原美波は何かを言っているようで、藤川は動きを止めて目を見開いている。俺は不安になるが、次に藤川が発した言葉に頬が緩む。
「はいっ、来週ですね、水曜日、はいっ!」
電話を終えた藤川はスマートフォンを耳から離し、画面をじっと見つめている。そして満面の笑みで俺を見た。
喜びを隠し切れない表情でニヤニヤと笑っている。
「どこ、行けばいいのかな」
「ふふっ……ふふふっ……」
「なんだよ」
「楽しそうだな」
「うるさいなー!」
そう言いながらも藤川は満面の笑みでスマートフォンに指先を滑らせている。横浜のデートコースならみなとみらいだろうと思うが、町沢署の裏の支社に転勤するまで、奈緒美さんはみなとみらいにある支社に勤務していて、こう言っていた。
『みなとみらいでデートって、何するんでしょうね? 会社とタワマンしかないのに。遊園地かな?』
自分の勤務時間と同じ時間帯に営業しているショッピングモールは、ただの日常の景色となっていたのだろう。
「大 さん橋に行けば?」
「ああ、水上署の先の?」
「そうそう。先っぽでタイタニックごっこでもして来いよ」
「タイタニック、か……」
「ん?」
タイタニックが上映された頃はまだ藤川は日本にいたはずだが、何かを思い出して笑いを堪えている。
「何、なんだよ、気持ち悪いな」
「えー? ふふふっ……」
テーブルに片腕を乗せ、笑いながら話す内容がロクでもなさすぎて、俺は溜め息が出た。
勤務終わりに成田空港へ連れて行かれたまま、十年近く帰れなかった官舎は、もちろん自分の荷物は無くなっていたが、三ケ所に分けて保管されていたという。そのうちの一つは松永さんの自宅だったと。
「先輩から回ってきたAVもそのまま残されててさ、俺、要らないから松永さんにあげたんだよ」
「んふふふっ……」
「……あのAV、どうなったんだろうな」
「知らねえよ。玲子さんに聞いてみろよ」
「怖くて聞けねえよ!」
歯並びの綺麗な白い歯、濃い眉毛で二重まぶたの切れ長な目。笑いジワが刻まれた目尻は下がり、はにかんだ笑顔を向ける藤川を、俺は少しだけ可愛いと思ってしまった。
「夜は? まだ仕事か?」
「いや、出かける。ロシア人美女とデート」
――何言ってんだ、コイツ。安原美波はどうした。
「敬志にさ、遊びの女紹介してって言ったら紹介してくれた」
「もしかして、エカテリーナ?」
「うん……何? 何かあるの?」
――特に問題無いけど……さっきまで安原美波に浮かれてたのに何なんだ、コイツは。
「誰かと穴兄弟になっちゃうとか?」
――そんな話、誰もしてないだろう。
「……少なくとも、俺はヤッてないから」
「なら、他の誰、かは……ってこと?」
「知らねえよ」
「なんだよ、教えろよ」
「誰と穴兄弟になっても問題ねえだろ。じゃ、俺は帰る」
「えー!」
俺はロクでもない藤川に背を向けて、リビングを出た。
階段を下りる中山を見送っている。
踊り場で振り向く中山は笑顔で俺を見上げるが、その姿に胸が痛む。十分過ぎるほどのレポートを上げた中山を苛立たらしげに叱責する藤川には怒りしかない。でも、仕方のないこと。
部屋に戻り、リビングのドアを開けて藤川を見るとまだあの曲を聴いていた。頬杖をついたまま、俺を見て微笑む。
「諒輔君おかえりー」
「ただいまー」
「あのねー、モラハラクソ上司みたいなの、やりたくないんだけどー」
「そうなのー? そうは見えないけどー?」
「ムカつくなー」
笑っているが、ふっと寂しげに目を伏せる藤川は、俺の手元の捜査員と距離を置くために演技で『モラハラクソ上司役』をやっている。だが、加藤だけは気づいている。加藤は藤川と文通をしていたから、偽りの藤川に気づいたのだろう。
「こんな完璧なレポート上げてんのに、文句言わなきゃならない俺の辛さは理解してくれてる?」
「もちろん」
「ならいいけど」
動画アプリで再生していた音楽を止める藤川は俺に優しく微笑む。その表情を見ながら、俺は依頼された追加調査のレポートをカバンから取り出した。
安原美波の不倫相手で、現在は運送会社で働く元警察官についての素行調査だ。
座卓に座り、正面の藤川に渡す。
レポートを手に取った藤川は興味無さげに流し読みするが、レポートに視線を向けたまま口を開いた。
「休みなのにごめんね」
「ふふっ、いいよ。早く連絡したいんだろ?」
「うん。いい人そうだし」
「不倫は、いいの?」
「慰謝料完済したんだろ? 逃げないでよくやったと思うけど。お前は?」
――人の本質なんて変わんねえよ。
「本気にはならない、な」
「そう」
会話はこれで終わり、お互い黙ったままでいたが、藤川がレポートを読み終えたところで俺は口を開いた。だが少しだけ、伝えるのをためらう。藤川を見て感じたことを伝えた方がいいと思っただけだが、自分自身に問うているようでためらっているのだろう。
「昔の男を忘れてないようだけど、いいの?」
藤川は俺をじっと見て、短い息を吐き出してから俯き加減に笑う。
「俺だって忘れられない女、いるから。お前だって、そうだろ?」
藤川の、伏せた顔の口元が歪んで見えた。
◇
安原美波は休みで在宅しているようで、藤川は電話をかけるという。俺は席を外そうかと言ったが、いたままでいいと言われ、少し緊張した表情の藤川を眺めている。
スマホを両手で持ち、何度も深呼吸しては画面をタップしようとして、指先を引っ込めている。
「何やってんだよ、面白い奴だな」
「うるさいなー! 緊張してんだよ」
藤川の意外な一面に驚くが、無理もないかなと思う。藤川は二十二の時に
何があったのか、何をしていたのかはたまに話してくれるが、日本に戻ったのは約十年前、藤川は三十一歳になっていた。その間、一度も帰国していない。
帰国してから交際した女性はいないという。だから安原美波が自分に興味を持ってくれたことが嬉しいようだ。今の見た目なら女などいくらでもとは思うが、ガラの悪い見た目でいた年数が多いせいか、女から避けられていることが当たり前で、女とどう関係を構築すればいいのかわからないそうだ。
俺が藤川と再会したのは五年前だが、加藤は八年前、六年前、三年前に会っている。いずれの日も見た目が違っていて、加藤は気づかなかったという。
『最初は昭和の暴力団で、次は風俗のキャッチ。最新はロン毛のザイル系ですよ? 気づかないですよ』
そう言った加藤に、俺が再会した際の藤川の見た目を話すと笑っていた。岡島そっくりの昭和のチンピラだったよと。
「まだかけないの?」
「うるさいなー!」
「ふふふっ……」
藤川は笑っているが、その口元は緊張のせいか引きつっている。俺は藤川から目をそらし、スマートフォンを取り出す。
奈緒美さんからメッセージが届いていた。今夜は電車なのか車なのかを問うメッセージに、頭の上にクェッションマークのついたペンギンのスタンプがあった。思わず頬が緩む。
「なんだよ、スマホ見てニヤニヤしやがって」
「ふふっ、羨ましいか? なら早く電話しろよ」
「うるさいなー!」
――いいから早くかけろよ。
藤川に目を向けると、じっと俺を見てから大きく息を吐き、スマートフォンに指先を合わせ、画面をタップして耳に当てる。その横顔には緊張が見えるが、迷いはなさそうだ。俺はホッと胸を撫で下ろす。
電話はすぐに繋がったようで、緊張した藤川の顔がパッと明るくなる。安原美波の声は聞こえないが、俺は呆気にとられた。
「藤川です。ご連絡が遅くなってしまって申し訳ありませんでした。お手紙を頂き、ありがとうございます。実はまた横浜へ行くことになりまして、ぜひお会い出来ないかと。いつが、ご都合がよろし――」
――早口過ぎるだろ。聞き取れねえよ。落ち着けよ。
安原美波は何かを言っているようで、藤川は動きを止めて目を見開いている。俺は不安になるが、次に藤川が発した言葉に頬が緩む。
「はいっ、来週ですね、水曜日、はいっ!」
電話を終えた藤川はスマートフォンを耳から離し、画面をじっと見つめている。そして満面の笑みで俺を見た。
喜びを隠し切れない表情でニヤニヤと笑っている。
「どこ、行けばいいのかな」
「ふふっ……ふふふっ……」
「なんだよ」
「楽しそうだな」
「うるさいなー!」
そう言いながらも藤川は満面の笑みでスマートフォンに指先を滑らせている。横浜のデートコースならみなとみらいだろうと思うが、町沢署の裏の支社に転勤するまで、奈緒美さんはみなとみらいにある支社に勤務していて、こう言っていた。
『みなとみらいでデートって、何するんでしょうね? 会社とタワマンしかないのに。遊園地かな?』
自分の勤務時間と同じ時間帯に営業しているショッピングモールは、ただの日常の景色となっていたのだろう。
「
「ああ、水上署の先の?」
「そうそう。先っぽでタイタニックごっこでもして来いよ」
「タイタニック、か……」
「ん?」
タイタニックが上映された頃はまだ藤川は日本にいたはずだが、何かを思い出して笑いを堪えている。
「何、なんだよ、気持ち悪いな」
「えー? ふふふっ……」
テーブルに片腕を乗せ、笑いながら話す内容がロクでもなさすぎて、俺は溜め息が出た。
勤務終わりに成田空港へ連れて行かれたまま、十年近く帰れなかった官舎は、もちろん自分の荷物は無くなっていたが、三ケ所に分けて保管されていたという。そのうちの一つは松永さんの自宅だったと。
「先輩から回ってきたAVもそのまま残されててさ、俺、要らないから松永さんにあげたんだよ」
「んふふふっ……」
「……あのAV、どうなったんだろうな」
「知らねえよ。玲子さんに聞いてみろよ」
「怖くて聞けねえよ!」
歯並びの綺麗な白い歯、濃い眉毛で二重まぶたの切れ長な目。笑いジワが刻まれた目尻は下がり、はにかんだ笑顔を向ける藤川を、俺は少しだけ可愛いと思ってしまった。
「夜は? まだ仕事か?」
「いや、出かける。ロシア人美女とデート」
――何言ってんだ、コイツ。安原美波はどうした。
「敬志にさ、遊びの女紹介してって言ったら紹介してくれた」
「もしかして、エカテリーナ?」
「うん……何? 何かあるの?」
――特に問題無いけど……さっきまで安原美波に浮かれてたのに何なんだ、コイツは。
「誰かと穴兄弟になっちゃうとか?」
――そんな話、誰もしてないだろう。
「……少なくとも、俺はヤッてないから」
「なら、他の誰、かは……ってこと?」
「知らねえよ」
「なんだよ、教えろよ」
「誰と穴兄弟になっても問題ねえだろ。じゃ、俺は帰る」
「えー!」
俺はロクでもない藤川に背を向けて、リビングを出た。