人物評価の基準
文字数 3,516文字
八月二十日 午後四時十二分
元町・中華街駅から捜査員用のマンションまで歩いている。首都高の下の川沿いに行き、信号を渡り朱雀門から中華街へ入り、一つ目の角を左に入った。マンションへはここを真っすぐ行くだけだ。
暑さで汗をかきながら歩く道のりは辛いが、仕方がない。
水色の長袖の麻のシャツの袖を捲っていると、俺の前方十メートル先、一時方向に見覚えのある男がいた。
藤川 充 さんだった。ネイビーのデニムに白いTシャツ、ショルダーバッグを襷 掛けした姿で、髪はさらに短くなっていた。俺をちらりと見てから道の反対側へ移動する。それから俺の方に鋭い視線を向けると、その先にある角を曲がって行った。
そのまま歩き続けると、やがて前方に捜査員用のマンションが見えてきた。
エントランスの前で立ち止まると、すぐ後ろまで近づいていた藤川さんを見た。藤川さんは足を止めて、何も言わずに俺の顔を見ている。気配は感じていたが、ここまで近づいているとは思わなかった。俺を消す のは、この人なんだろうなといつも思う。
強い日差しを受けて汗を流す俺を、藤川さんは眩しいのか目を細めて、何も言わぬまま俺を見ていたが、口元を緩めてから口を開いた。
「中山。仕事、遅くないか?」
進捗は三日おきに上げていたが、藤川さんの表情を見ると充分ではなかったようだった。少し苛立たらしげな声音に、俺の背筋はぞわりとした。
◇
午後四時四十三分
マンションのリビングで藤川さんがレポートを読んでいる。
俺は加藤が入院していた病棟看護師の素行調査を任されていた。身元調査は二週間ほどで終わっていて、その報告を受けて俺が素行調査をすることになったが、藤川さんと俺が想定していた結果は上がらなかった。
遮光カーテンを締め切ったままのリビングは電気を点けていないが、カーテンの上部から漏れる陽光で手元の書類は視認可能だ。
エアコンは入れたが、部屋が冷えるまで時間はかかりそうだ。冷蔵庫から出したペットボトルの緑茶の水滴をタオルで拭いながら、俺は無言のまま藤川さんを見ていた。
対象者の名前は安原 美波 。三十四歳の看護師。独身で婚姻歴は無し。群馬県太田市出身で神奈川県横浜市在住。神奈川県へは四年前に転居している。
彼女は仕事帰りにどこにも寄らず、真っすぐ家に帰っている。家に誰か来ることもなく、日勤と夜勤のシフトを繰り返し、休みの日は自転車でドラッグストアやスーパーをはしごして帰宅、野菜や肉を小分け保存して、常備菜を作り続けていた。
家でやることは勉強と自重筋トレ、テレビはドラマ二本を録画していて、それ以外はテレビをつけることはなく、基本的にラジオを聴いている。
身元調査では、不倫の慰謝料を払っていた事実がわかった。相手は警察官で、すでに離婚もして警察も辞めている。今も関係があるかと思ったが、それは無かった。その不倫相手以降の五年間、交際している男もいない。
ただ、横浜駅のデパートまで出向き、チョコレートケーキとモンブラン、スパークリングワインを買った日があった。帰宅した夜は部屋の明かりをつけず、動画アプリで同じ音楽をリピート再生して、ケーキを食べ、一時間もかからずにボトルを開けていた。静かに涙を零しながら。その日は、不倫相手の誕生日だった。
藤川さんと素行調査の打ち合わせをした際、藤川さんはこう言っていた。
『どうせ水商売、風俗、最悪売春。何かしらやってるだろ』
俺もそう思っていたが、安原美波はしていなかった。手取り二十四万から慰謝料を五万、遅滞なく毎月返済していた。
レポート、写真、室内の動画キャプチャを一通り目を通した藤川さんは、顔を上げて俺を見た。
「お前ならどうする?」
安原美波と付き合うか聞いているのか。
彼女の素行を見るだけなら問題ないと思う。でも俺は不倫する女は嫌だ。倫理観の欠如した女は嫌だから。
俺は大きく息を吐いてから藤川さんを見たが、切れ長の目に射抜かれた気がして、俺の背中が一瞬ビクッとなる。俺の答えを見透かしたのか、藤川さんは唇の端を少し上げた。そしてゆっくりと口を開いた。
「お前は何度も浮気されてんだろ。なら変わんねえだろ、不倫女と」
藤川さんは笑みを浮かべてから俺から目を離した。レポートをテーブルの上に置き、スマートフォンをいじり始める。俺はそれを見ながら生唾を飲み込んだが、背筋がゾクッとした。
なぜ、知っているのか。
碧衣 が浮気したのはもう何年も前の話なのに。
俺が黙っていると藤川さんは右手で頬杖をついて俺を見つめてくるが、何も答えない俺に苛立つのか一度目を閉じた後、強い目で俺を再び見た。
「手っ取り早くカネ稼げる水商売も風俗もせず、切り詰めた生活して、三百万を五年かけて完済。偉いと思わねえか? 俺は、気に入ったよ」
そして藤川さんは再び俺を見て、笑った。
深く刻まれた目尻の笑いじわ。口角を上げた笑顔は綺麗な白い歯が第二小臼歯まで見えている。だが、笑ってはいない。
俺は背筋を駆け上がる悪寒を振り払うように大きく息を吐くと、ペットボトルの緑茶を手に取った。水滴がベージュのカーゴパンツにポトリと落ちる。太腿の冷たい感触。ペットボトルのキャップを捻る手はほんの少し震えていた。
◇
午後五時七分
「今日から五連休だったよな」
「はい、そうです」
「悪いな、時間もらって」
「いえ、いいんです。遅くなってすみませんでした」
藤川さんはレポートを読み返して三回目だ。視線が止まるたびに、何を問われるのか身構えていたが、何も問わずに読み進めていた。だが――。
「酒飲みながら聴いてた曲、何だったの?」
それは動画を確認すればわかることだが、そんなことは言えない。俺はその曲のタイトルと歌手名を伝えるが、藤川さんは知らなかったようで、少し首を傾げながら、『イタリア語か?』と言いながらスマートフォンで動画アプリをタップして、曲名を入力した。
音量を上げて、エアコンの動作音しか聞こえないリビングにその曲が流れ出した。
男性グループが歌う女視点の不倫の曲だ。ヒット曲だが、リリースされた頃は藤川さんは日本にいなかったはずだから、知らないのも無理もない。
イントロが流れ、冒頭のフレーズを聴いた藤川さんの口元は緩む。曲に聴き入り、時折画面に視線を落としていた。
「五年経っても忘れてな――」
藤川さんは言いかけて、背後を振り向いた。
須藤さんがいて、冷めた目で藤川さんを見下ろし、首に腕をかけようとしていた。だが、藤川さんは気づき、須藤さんの腕を掴んだ。
「諒輔 君、久しぶり」
「そうだね、充 君」
優しい声音で言葉を交わしているが、ぶつかり合う視線は双方とも殺気立っている。
俺は須藤さんに気づいていたが、藤川さんは気づかなかったのか。そんなはずは無いが、須藤さんの腕に触れているのは、藤川さんが気づかなかった証拠だ。
藤川さんは須藤さんの腕を外し、口を開いた。
だが、それよりも先に声を発したのは、須藤さんだった。低く深い声だった。
「うちの陸をイジメんの、やめてくれない?」
「イジメ? 期日までに仕事上げないバカを叱責して何が悪いの?」
「お前のプライベートだろ? 手元の駒、使えよ」
「このバカ使うの許可したのお前だろ?」
やり取りの間、俺は固まっていた。
こんな須藤さんは初めてだ。
いつもの須藤さんから想像も出来ない様な刺々しい物言い。何の遠慮もなく口に出している。
二人はしばらく対峙して黙っていたが、藤川さんは小さく息を吐くと顔を俺に向けた。そしてすぐに視線を須藤さんに戻すと、眉根を寄せ、口角を上げ、口を開いた。
「もういいよ、帰らせろよ。用は済んだ」
須藤さんは俺に帰り支度を促す。だが俺は藤川さんに謝罪しないとならないと思い、藤川さんに顔を向けたが、須藤さんは俺の腕を掴んだ。立たされ、そのまま廊下へと引っ張っていく。
振り向くことも出来ず、靴を履き、須藤さんに振り向くと、外に出ろと目配せしてきた。
須藤さんも靴を履き、玄関を出てから須藤さんと向き合うと、いつもの須藤さんがいた。
「陸はよくやってる。大丈夫だよ、俺はいつでも陸の味方だから。夏休み、ゆっくり休めよ」
いつもの優しい須藤さんだった。
俺は須藤さんに頭を下げてからマンションを出た。そしてエントランスを出て、道路を渡り、歩道を歩き始めたところで立ち止まり、大きく息を吐いた。
俺にはもう一つ仕事がある。須藤さんが把握していないのも無理もない。
俺はスマートフォンを取り出し、玲緒奈さんからのメッセージを読み解いた。
――上野 にいる、か。
マンションを出た旨を返し、俺は石川町駅に向かった。
元町・中華街駅から捜査員用のマンションまで歩いている。首都高の下の川沿いに行き、信号を渡り朱雀門から中華街へ入り、一つ目の角を左に入った。マンションへはここを真っすぐ行くだけだ。
暑さで汗をかきながら歩く道のりは辛いが、仕方がない。
水色の長袖の麻のシャツの袖を捲っていると、俺の前方十メートル先、一時方向に見覚えのある男がいた。
そのまま歩き続けると、やがて前方に捜査員用のマンションが見えてきた。
エントランスの前で立ち止まると、すぐ後ろまで近づいていた藤川さんを見た。藤川さんは足を止めて、何も言わずに俺の顔を見ている。気配は感じていたが、ここまで近づいているとは思わなかった。俺を
強い日差しを受けて汗を流す俺を、藤川さんは眩しいのか目を細めて、何も言わぬまま俺を見ていたが、口元を緩めてから口を開いた。
「中山。仕事、遅くないか?」
進捗は三日おきに上げていたが、藤川さんの表情を見ると充分ではなかったようだった。少し苛立たらしげな声音に、俺の背筋はぞわりとした。
◇
午後四時四十三分
マンションのリビングで藤川さんがレポートを読んでいる。
俺は加藤が入院していた病棟看護師の素行調査を任されていた。身元調査は二週間ほどで終わっていて、その報告を受けて俺が素行調査をすることになったが、藤川さんと俺が想定していた結果は上がらなかった。
遮光カーテンを締め切ったままのリビングは電気を点けていないが、カーテンの上部から漏れる陽光で手元の書類は視認可能だ。
エアコンは入れたが、部屋が冷えるまで時間はかかりそうだ。冷蔵庫から出したペットボトルの緑茶の水滴をタオルで拭いながら、俺は無言のまま藤川さんを見ていた。
対象者の名前は
彼女は仕事帰りにどこにも寄らず、真っすぐ家に帰っている。家に誰か来ることもなく、日勤と夜勤のシフトを繰り返し、休みの日は自転車でドラッグストアやスーパーをはしごして帰宅、野菜や肉を小分け保存して、常備菜を作り続けていた。
家でやることは勉強と自重筋トレ、テレビはドラマ二本を録画していて、それ以外はテレビをつけることはなく、基本的にラジオを聴いている。
身元調査では、不倫の慰謝料を払っていた事実がわかった。相手は警察官で、すでに離婚もして警察も辞めている。今も関係があるかと思ったが、それは無かった。その不倫相手以降の五年間、交際している男もいない。
ただ、横浜駅のデパートまで出向き、チョコレートケーキとモンブラン、スパークリングワインを買った日があった。帰宅した夜は部屋の明かりをつけず、動画アプリで同じ音楽をリピート再生して、ケーキを食べ、一時間もかからずにボトルを開けていた。静かに涙を零しながら。その日は、不倫相手の誕生日だった。
藤川さんと素行調査の打ち合わせをした際、藤川さんはこう言っていた。
『どうせ水商売、風俗、最悪売春。何かしらやってるだろ』
俺もそう思っていたが、安原美波はしていなかった。手取り二十四万から慰謝料を五万、遅滞なく毎月返済していた。
レポート、写真、室内の動画キャプチャを一通り目を通した藤川さんは、顔を上げて俺を見た。
「お前ならどうする?」
安原美波と付き合うか聞いているのか。
彼女の素行を見るだけなら問題ないと思う。でも俺は不倫する女は嫌だ。倫理観の欠如した女は嫌だから。
俺は大きく息を吐いてから藤川さんを見たが、切れ長の目に射抜かれた気がして、俺の背中が一瞬ビクッとなる。俺の答えを見透かしたのか、藤川さんは唇の端を少し上げた。そしてゆっくりと口を開いた。
「お前は何度も浮気されてんだろ。なら変わんねえだろ、不倫女と」
藤川さんは笑みを浮かべてから俺から目を離した。レポートをテーブルの上に置き、スマートフォンをいじり始める。俺はそれを見ながら生唾を飲み込んだが、背筋がゾクッとした。
なぜ、知っているのか。
俺が黙っていると藤川さんは右手で頬杖をついて俺を見つめてくるが、何も答えない俺に苛立つのか一度目を閉じた後、強い目で俺を再び見た。
「手っ取り早くカネ稼げる水商売も風俗もせず、切り詰めた生活して、三百万を五年かけて完済。偉いと思わねえか? 俺は、気に入ったよ」
そして藤川さんは再び俺を見て、笑った。
深く刻まれた目尻の笑いじわ。口角を上げた笑顔は綺麗な白い歯が第二小臼歯まで見えている。だが、笑ってはいない。
俺は背筋を駆け上がる悪寒を振り払うように大きく息を吐くと、ペットボトルの緑茶を手に取った。水滴がベージュのカーゴパンツにポトリと落ちる。太腿の冷たい感触。ペットボトルのキャップを捻る手はほんの少し震えていた。
◇
午後五時七分
「今日から五連休だったよな」
「はい、そうです」
「悪いな、時間もらって」
「いえ、いいんです。遅くなってすみませんでした」
藤川さんはレポートを読み返して三回目だ。視線が止まるたびに、何を問われるのか身構えていたが、何も問わずに読み進めていた。だが――。
「酒飲みながら聴いてた曲、何だったの?」
それは動画を確認すればわかることだが、そんなことは言えない。俺はその曲のタイトルと歌手名を伝えるが、藤川さんは知らなかったようで、少し首を傾げながら、『イタリア語か?』と言いながらスマートフォンで動画アプリをタップして、曲名を入力した。
音量を上げて、エアコンの動作音しか聞こえないリビングにその曲が流れ出した。
男性グループが歌う女視点の不倫の曲だ。ヒット曲だが、リリースされた頃は藤川さんは日本にいなかったはずだから、知らないのも無理もない。
イントロが流れ、冒頭のフレーズを聴いた藤川さんの口元は緩む。曲に聴き入り、時折画面に視線を落としていた。
「五年経っても忘れてな――」
藤川さんは言いかけて、背後を振り向いた。
須藤さんがいて、冷めた目で藤川さんを見下ろし、首に腕をかけようとしていた。だが、藤川さんは気づき、須藤さんの腕を掴んだ。
「
「そうだね、
優しい声音で言葉を交わしているが、ぶつかり合う視線は双方とも殺気立っている。
俺は須藤さんに気づいていたが、藤川さんは気づかなかったのか。そんなはずは無いが、須藤さんの腕に触れているのは、藤川さんが気づかなかった証拠だ。
藤川さんは須藤さんの腕を外し、口を開いた。
だが、それよりも先に声を発したのは、須藤さんだった。低く深い声だった。
「うちの陸をイジメんの、やめてくれない?」
「イジメ? 期日までに仕事上げないバカを叱責して何が悪いの?」
「お前のプライベートだろ? 手元の駒、使えよ」
「このバカ使うの許可したのお前だろ?」
やり取りの間、俺は固まっていた。
こんな須藤さんは初めてだ。
いつもの須藤さんから想像も出来ない様な刺々しい物言い。何の遠慮もなく口に出している。
二人はしばらく対峙して黙っていたが、藤川さんは小さく息を吐くと顔を俺に向けた。そしてすぐに視線を須藤さんに戻すと、眉根を寄せ、口角を上げ、口を開いた。
「もういいよ、帰らせろよ。用は済んだ」
須藤さんは俺に帰り支度を促す。だが俺は藤川さんに謝罪しないとならないと思い、藤川さんに顔を向けたが、須藤さんは俺の腕を掴んだ。立たされ、そのまま廊下へと引っ張っていく。
振り向くことも出来ず、靴を履き、須藤さんに振り向くと、外に出ろと目配せしてきた。
須藤さんも靴を履き、玄関を出てから須藤さんと向き合うと、いつもの須藤さんがいた。
「陸はよくやってる。大丈夫だよ、俺はいつでも陸の味方だから。夏休み、ゆっくり休めよ」
いつもの優しい須藤さんだった。
俺は須藤さんに頭を下げてからマンションを出た。そしてエントランスを出て、道路を渡り、歩道を歩き始めたところで立ち止まり、大きく息を吐いた。
俺にはもう一つ仕事がある。須藤さんが把握していないのも無理もない。
俺はスマートフォンを取り出し、玲緒奈さんからのメッセージを読み解いた。
――
マンションを出た旨を返し、俺は石川町駅に向かった。