第3話 土曜日は別の顔
文字数 2,755文字
マンションを出ると、もう雨は止んでいた。
通り雨で気温が下がったのか少し肌寒さを感じる。
見上げる空は薄墨を刷いたような色と青空が隣り合っていた。
ポケットからスマートフォンを取り出して玲緒奈さんに電話をかけると、応答した玲緒奈さんの声はいつもと変わらなかった。
俺は手紙の内容と笹倉さんとの話を簡単に説明して玲緒奈さんの指示を仰いだ。
「石川さんはどんな様子だと言ってた?」
「須藤さんを信じていると、嘘だ、と言っていたようです」
笹倉さんの言葉を伝えると、玲緒奈さんは黙り込んでしまった。
俺が石川さんに会いに行くのは得策ではない。石川さんを刺激しかねないから。だからといって、笹倉さん一人に石川さんの対応をさせて大丈夫だろうか。
もし何かあれば、笹倉さんが責任を感じてしまう。
だからやっぱり石川さんに会う時に俺もついて行くしかないのか。ただ、問題は敬志だ。
「私、須藤に言うわ」
「えっ、でも……」
「陸、あのね。石川さんが手紙にキレてたなら、須藤を最低な男だと言ってたなら、まだ良かったんだよ」
電話越しに聞こえてくる声は落ち着いているが、僅かに震えていた。
俺は言葉が出なかった。
二人は出会って二年経ったくらいか。石川さんは須藤さんを信頼している。それだけ二人の間には積み重ねて来たものがある。それがこんな形で壊れてしまうなんて……。
「私ね、敦志から石川さんの見た目しか聞いてなかったんだけど、昨日の夜に初めて須藤が石川さんの人となりを教えてくれたんだよ」
「……そうなんですか」
「須藤がさ……惚気けたんだよね」
「えっ……」
玲緒奈さんは、二人の関係がただの友人なら、ただの趣味仲間なら、過去の女関係の暴露はどうでもいいが、石川さんが須藤さんを信じているとなると、石川さんの心は完全に須藤さんに向いている事になるという。
石川さんが須藤さんの過去を知って、最低な男だと蔑むのなら須藤さんは嫌われるだけで済む。でも石川さんの気持ちを知ってしまったら、須藤さんが負うダメージは大きい。
「……わかりました」
「仕方ないよ。辛いけどね」
電話の向こうで玲緒奈さんが小さく息を吐いたのがわかった。俺も胸の奥に痛みを感じる。
それから玲緒奈さんと少し話して電話を切ると、飯倉からメッセージが届いている事に気づいた。
――近くにいる、と。
駅に向かって歩いていると飯倉が後ろから声をかけてきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ。メシは食った?」
「まだでーす」
「食おうぜ」
俺が歩き出すと、横に並んで飯倉も歩く。ブルーのデニムに白いシャツを着た飯倉は笑っている。
初回の会議で加藤に引っ叩かれていたが、そのおかげで自分が警察官だったと思い出せましたと言い、皆から呆れられていた。
「石川さんの件?」
「そうです」
俺が問うと飯倉は当然のように答えた。
石川さんも笹倉さんと同じように身辺調査をして、素行は先月から飯倉が調査をしている。
飯倉は昨夜、俺と敬志が事務所を出た後に素行調査の結果を須藤さんに上げた。その内容を俺に伝達しろと須藤さんから指示され、俺は飯倉とここで落ち合う約束をしていた。
「石川さんは毎週土曜の夜にプールバーに行きます」
「プールバーに? へー、意外だな」
「でも、よくお似合いでしたよ」
飯倉がそう報告を上げると、須藤さんは驚いていたそうだ。
石川さんは表情も服装も普段と全く違う雰囲気で、ウィッグを被り化粧も派手で、その石川さんの写真を見た須藤さんは笑いながら頭を抱えていたという。
「女が化粧で変わるのは見慣れましたけど、石川さんの変わりっぷりは見事でしたよ」
「へえ、そうなんだ」
「写真ありますから見て下さい」
飯倉はショルダーバッグからファイルケースを取り出して、写真を見せてくれた。
そこに写るのは、ウェーブのロングウィッグを被り、化粧の濃い石川さんがいた。服はワンピースにカーディガン姿で肌の露出があるわけではないが、普段の石川さんと同一人物だとは思えないほど、自信に満ち溢れた表情をしていた。
「加藤に雰囲気が似てね?」
「あ、やっぱりそう思いますよね?」
須藤さんは石川さんの見た目はタイプではないと言っていた。一年ほど前に俺は石川さんの顔を確認した事はあったが、その時は確かに須藤さんのタイプじゃないなと思った。でも須藤さんは彼女の生き様と性格に惚れたと言っていた。
――須藤さん好みの派手な女でもあったんだ。
笹倉さんの言葉をふと思い出した。
『書かれている内容は嘘だと、須藤さんはこんな人じゃないと、言っていました』
須藤さんも石川さんも、お互いが知らない別の顔があるんじゃないか。そう思うと口元が緩む。それに笹倉さんだって……。
「なんすか?」
「ふふっ、なんでもない。メシ食おうぜ」
「そうっすね」
笹倉さんの素行調査中、いつもと雰囲気が違う姿で出かけた先がこのプールバーだった。
石川さんと雰囲気を合わせていたのか。
敬志はきっと嫌がるだろうなとその時は思ったが、笹倉さんもどこか自信ありげな姿は楽しそうだった。
◇
俺たちは駅前の牛丼屋に入り、俺は大盛り、飯倉は並盛の食券を買い、カウンターに座って出来上がるのを待っていた。昼時だが客がいない。ここは商店街で他にも飲食店はあるからだろう。
飯倉は隣の俺にしか聞こえない発声法で話しかけてきた。
「プールバーは吉崎さんを介して情報をもらいました」
石川さんは亡くなったご主人と大学時代から付き合っていたが、そのプールバーは大学時代のデートでいつも行っていて、社会人になっても結婚してからもご主人とそのプールバーへ行っていたという。
「普段仲良くしてる常連は五人います。男三人、女二人です」
それぞれ三十代後半から四十代前半の常連仲間は石川さんのご主人ももちろん知っていて、ご主人の命日前の土曜日は他の常連を含めて必ず全員が集まるという。
――夫婦の思い出の場所だから須藤さんは知らなかったのか。
「男関係は問題無いです。まあ、笹倉さんよりは隙はありそうですけど……」
「ふふっ」
笹倉さんは身持ちが固く、つけ入る隙が全く無い。飯倉はホストクラブで学んだ技術を生かして笹倉さんを落とそうとしたが、飯倉は初回の接触で『無理です』と音を上げていた。だが、石川さんはどこか少し抜けている印象を受ける。
飯倉の報告を聞いているうちに牛丼が出来上がり、俺達は食べ始めた。
俺が半分くらい食べた頃だろうか。飯倉が横目で俺を見た。
俺が首を傾げると、飯倉はハンドサインを寄越した。手のひらを下に向けた状態から指を一本だけ立てている。それから手を握って親指を離した。
これは捜査員共通のサインで意味は――。
――来た。敬志が来た、と。
飯倉は俺の返事を待たずに席を立ち、店を出た。
通り雨で気温が下がったのか少し肌寒さを感じる。
見上げる空は薄墨を刷いたような色と青空が隣り合っていた。
ポケットからスマートフォンを取り出して玲緒奈さんに電話をかけると、応答した玲緒奈さんの声はいつもと変わらなかった。
俺は手紙の内容と笹倉さんとの話を簡単に説明して玲緒奈さんの指示を仰いだ。
「石川さんはどんな様子だと言ってた?」
「須藤さんを信じていると、嘘だ、と言っていたようです」
笹倉さんの言葉を伝えると、玲緒奈さんは黙り込んでしまった。
俺が石川さんに会いに行くのは得策ではない。石川さんを刺激しかねないから。だからといって、笹倉さん一人に石川さんの対応をさせて大丈夫だろうか。
もし何かあれば、笹倉さんが責任を感じてしまう。
だからやっぱり石川さんに会う時に俺もついて行くしかないのか。ただ、問題は敬志だ。
「私、須藤に言うわ」
「えっ、でも……」
「陸、あのね。石川さんが手紙にキレてたなら、須藤を最低な男だと言ってたなら、まだ良かったんだよ」
電話越しに聞こえてくる声は落ち着いているが、僅かに震えていた。
俺は言葉が出なかった。
二人は出会って二年経ったくらいか。石川さんは須藤さんを信頼している。それだけ二人の間には積み重ねて来たものがある。それがこんな形で壊れてしまうなんて……。
「私ね、敦志から石川さんの見た目しか聞いてなかったんだけど、昨日の夜に初めて須藤が石川さんの人となりを教えてくれたんだよ」
「……そうなんですか」
「須藤がさ……惚気けたんだよね」
「えっ……」
玲緒奈さんは、二人の関係がただの友人なら、ただの趣味仲間なら、過去の女関係の暴露はどうでもいいが、石川さんが須藤さんを信じているとなると、石川さんの心は完全に須藤さんに向いている事になるという。
石川さんが須藤さんの過去を知って、最低な男だと蔑むのなら須藤さんは嫌われるだけで済む。でも石川さんの気持ちを知ってしまったら、須藤さんが負うダメージは大きい。
「……わかりました」
「仕方ないよ。辛いけどね」
電話の向こうで玲緒奈さんが小さく息を吐いたのがわかった。俺も胸の奥に痛みを感じる。
それから玲緒奈さんと少し話して電話を切ると、飯倉からメッセージが届いている事に気づいた。
――近くにいる、と。
駅に向かって歩いていると飯倉が後ろから声をかけてきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ。メシは食った?」
「まだでーす」
「食おうぜ」
俺が歩き出すと、横に並んで飯倉も歩く。ブルーのデニムに白いシャツを着た飯倉は笑っている。
初回の会議で加藤に引っ叩かれていたが、そのおかげで自分が警察官だったと思い出せましたと言い、皆から呆れられていた。
「石川さんの件?」
「そうです」
俺が問うと飯倉は当然のように答えた。
石川さんも笹倉さんと同じように身辺調査をして、素行は先月から飯倉が調査をしている。
飯倉は昨夜、俺と敬志が事務所を出た後に素行調査の結果を須藤さんに上げた。その内容を俺に伝達しろと須藤さんから指示され、俺は飯倉とここで落ち合う約束をしていた。
「石川さんは毎週土曜の夜にプールバーに行きます」
「プールバーに? へー、意外だな」
「でも、よくお似合いでしたよ」
飯倉がそう報告を上げると、須藤さんは驚いていたそうだ。
石川さんは表情も服装も普段と全く違う雰囲気で、ウィッグを被り化粧も派手で、その石川さんの写真を見た須藤さんは笑いながら頭を抱えていたという。
「女が化粧で変わるのは見慣れましたけど、石川さんの変わりっぷりは見事でしたよ」
「へえ、そうなんだ」
「写真ありますから見て下さい」
飯倉はショルダーバッグからファイルケースを取り出して、写真を見せてくれた。
そこに写るのは、ウェーブのロングウィッグを被り、化粧の濃い石川さんがいた。服はワンピースにカーディガン姿で肌の露出があるわけではないが、普段の石川さんと同一人物だとは思えないほど、自信に満ち溢れた表情をしていた。
「加藤に雰囲気が似てね?」
「あ、やっぱりそう思いますよね?」
須藤さんは石川さんの見た目はタイプではないと言っていた。一年ほど前に俺は石川さんの顔を確認した事はあったが、その時は確かに須藤さんのタイプじゃないなと思った。でも須藤さんは彼女の生き様と性格に惚れたと言っていた。
――須藤さん好みの派手な女でもあったんだ。
笹倉さんの言葉をふと思い出した。
『書かれている内容は嘘だと、須藤さんはこんな人じゃないと、言っていました』
須藤さんも石川さんも、お互いが知らない別の顔があるんじゃないか。そう思うと口元が緩む。それに笹倉さんだって……。
「なんすか?」
「ふふっ、なんでもない。メシ食おうぜ」
「そうっすね」
笹倉さんの素行調査中、いつもと雰囲気が違う姿で出かけた先がこのプールバーだった。
石川さんと雰囲気を合わせていたのか。
敬志はきっと嫌がるだろうなとその時は思ったが、笹倉さんもどこか自信ありげな姿は楽しそうだった。
◇
俺たちは駅前の牛丼屋に入り、俺は大盛り、飯倉は並盛の食券を買い、カウンターに座って出来上がるのを待っていた。昼時だが客がいない。ここは商店街で他にも飲食店はあるからだろう。
飯倉は隣の俺にしか聞こえない発声法で話しかけてきた。
「プールバーは吉崎さんを介して情報をもらいました」
石川さんは亡くなったご主人と大学時代から付き合っていたが、そのプールバーは大学時代のデートでいつも行っていて、社会人になっても結婚してからもご主人とそのプールバーへ行っていたという。
「普段仲良くしてる常連は五人います。男三人、女二人です」
それぞれ三十代後半から四十代前半の常連仲間は石川さんのご主人ももちろん知っていて、ご主人の命日前の土曜日は他の常連を含めて必ず全員が集まるという。
――夫婦の思い出の場所だから須藤さんは知らなかったのか。
「男関係は問題無いです。まあ、笹倉さんよりは隙はありそうですけど……」
「ふふっ」
笹倉さんは身持ちが固く、つけ入る隙が全く無い。飯倉はホストクラブで学んだ技術を生かして笹倉さんを落とそうとしたが、飯倉は初回の接触で『無理です』と音を上げていた。だが、石川さんはどこか少し抜けている印象を受ける。
飯倉の報告を聞いているうちに牛丼が出来上がり、俺達は食べ始めた。
俺が半分くらい食べた頃だろうか。飯倉が横目で俺を見た。
俺が首を傾げると、飯倉はハンドサインを寄越した。手のひらを下に向けた状態から指を一本だけ立てている。それから手を握って親指を離した。
これは捜査員共通のサインで意味は――。
――来た。敬志が来た、と。
飯倉は俺の返事を待たずに席を立ち、店を出た。