思い出さずに忘れずに

文字数 2,941文字

 八月二十日 午前十一時三十二分

 部屋を出て官舎の廊下を歩いていると、飯倉和亮(いいくらかずあき)の部屋の玄関ドアが開く気配がして避けようとしたが、ドアが勢いよく開いて避けきれず、俺は腕で止めた。
 その反動でなのか、出ようとしていた飯倉はどこかぶつけたようだった。

「痛っ!!」
「ああっ! 大丈夫ですか!?」

 室内を覗き込むと、ドアの取っ手を掴んだまま頭を押さえている女がいた。

「どうしたのー? あっ、諒ちゃんだー! ヒマなの?」

 ――すみません、ね。

 飯倉の部屋には、加藤と飯倉、そして玲緒奈さんがいた。なぜ二人がここにいるのだろう。

「加藤……ごめんな、でも勢いよく開けすぎだよ」
「すみません……」
「諒ちゃーん、出かけるのー?」
「はい。出かけます」
「へえ……」

 俺の目を見て口元を緩ませる玲緒奈さんは、俺が奈緒美さんに会いに行くのだと思っているのだろう。今日は五連休の初日だが、仕事を片付けなければならず時間は無い。

「何で加藤がここにいるの?」
「少女漫画とTLコミックのレクチャーです」

 ――何の話?

「もう私の分は終わったので帰りますけど」
「……そう」

 確か今日の玲緒奈さんは非違事案の内偵のはず。なぜ飯倉の部屋にいるのだろうか。心配そうに加藤を見る飯倉と目を合わせると、俺の疑問を見透かしたのか、加藤に気取られないようにサインを送ってきた。

 ――時間が来るまで待機、と。

 内偵しているのはうちの署員ということか。だから飯倉も動くことになったのか。飯倉も連休なのに可哀想にと思っていると、玲緒奈さんは飯倉に話かけた。

「あんたさ、AVは持ってる? ポルノサイト見るだけ?」

 飯倉は泣きそうな顔をして俺を見るが、俺は何も言わず微笑んでいると、ロクでもない言葉がまた、聞こえた。

「エロ漫画は? あんたまだエロ漫画で抜けるでしょ?」

 加藤は緩む口元に力を込めながら廊下に出る。俺は飯倉に微笑んだまま玄関ドアを閉め、加藤と一緒にエレベーターに向かうが、加藤は何かを思い出して笑いを堪えていた。どうせロクでもないことだろうと考えていると、エレベーターのドアが閉じられてすぐ、ロクでもない女の舎弟はこう言った。

「ポルノサイトって年齢層別に検索ワードを公表してるんですけど、エロアニメは三十五歳以降になると激減するらしいんです。須藤さんは見ます? エロアニメ。もう卒業しました?」

 いろいろと言いたいことはあるが、何から話せばいいのか。セクハラ発言は女なら許される風潮に俺は物申したいが、何も言えないまま無言が支配するエレベーターは一階に到着しようとしていた。だが……。

「須藤さんって、レースクイーンが好きなんですよね?」

 ――なんで知ってるの?

「なら、バニーガールもお好きですか?」

 空腹を覚えて食事をするために外出したものの、家にあるものを食っときゃよかったと俺は小さく息を吐いた。


 ◇


 午前十一時五十六分

「タクシーじゃないんだからさ」
「助手席は別の方の専用席ですから」
「この会話、したよね? 前に」
「んふふ……そういえば」

 炎天下の中、額をぶつけた加藤をバスと電車で帰らせるのも可哀想だと思い、車で送って行っている。ルームミラー越しに助手席の後ろの席に座る加藤を見ると、まだ額が赤かった。

「葉梨は? 何してるの?」
「岡島と葉梨の妹と三人でマッチョしかいないジムに行ってますよ」
「ふーん」
「夕方は葉梨とうちの実家に行く予定です」

 連休中に両家で食事会をするという。簡略化した結納のようなものだと。だが加藤は親に呼ばれた理由が判然とせず、細かく視線が動いているが、何かを見つけて運転席の後ろのシートを覗き込んだ。

「ああ、それは石川さんの会社の社内報だよ。俺と本城が載ってる。見ていいよ」

 社内報には、六月末の町内会の防犯講話が載っている。加藤は社内報を手に取り、該当する記事を探して、見つけたようだ。口元を緩ませている。

「本城……元気に復帰してくれて、本当によかったですね」
「ふふっ、そうだね。防犯講話は本城じゃないとダメだからね」

 俺も本城も行けず、間宮と加藤が行くことになった昨夏の防犯講話はクレームは来なかったものの、出席者は間宮の見た目が怖かったようで、加藤は『もう二度と間宮さんを行かせちゃダメです』と言っていた。奈緒美さんも怖かったと言っていた。

「須藤さん」
「んー?」
「石川さんとは順調なんですか?」

 ルームミラーを見ると加藤と目が合う。この目は話したいことがある時の目だ。さっさと続ければいいのにしないのは、俺の反応を確認したいのだろう。

『家庭を大切にしろ、嫁を第一に考えろというの、どんな風にすればいいのか、お手本を見せてもらえませんか?』

 敬志から言われて俺は見本を見せないとならないと思ったが、俺は奈緒美さんに連絡が出来なかった。怖くて、一歩を踏み出す勇気が出なかった。
 だが、すぐに玲緒奈さんにバレた。奈緒美さんにその場で連絡をさせられて、殺傷力の増した小さいピコピコハンマーを片手に仁王立ちする玲緒奈さんの前で、俺は日付と時間を決めざるを得なくなり、七月末の奈緒美さんの誕生日前日に会った。

 自分の中では、奈緒美さんと順調だと思っている。その日以降は会っていないが、電話はするし、メッセージも返している。ただ、俺の中の漠然とした不安は残ったままだ。
 その不安を払拭したくて加藤に聞いてもらいたいが、ここで加藤に言ってどうするのかという葛藤がある。言ったところで、気を遣った女性部下に慰められるだけだ。

「順調だよ。ふふっ、おかげさまで、ね」
「そうですか……よかった」

 妙な間が気になった俺はルームミラーを見ると、加藤は窓の向こうの流れる景色に顔を向けていた。だが、俺が正面に視線を移した時、加藤の声が耳に流れ込んだ。

「須藤さんは、別れた恋人を思い出すことはありますか?」

 ――なんで、このタイミングで聞くのかな。

 ルームミラー越しの加藤の目は不安そうだ。葉梨と何かあったのだろうか。だが思いつめた様子はない。加藤は世間話をするように問いかけていた。

「どうした? 何があった? 聞くよ、聞かせて」
「いえ、そうではなくて……須藤さんのご意見を聞きたくて……」
「あのさ、加藤……違う、よね?」

 加藤は視線を落とした。やはり何かあったのだろう。結婚が決まった加藤は幸せそうにしているのに、何か迷いがあるのか。

「別れた嫁の話でいいなら、話すけど」
「えっ、はい。伺います」
「ふふっ……あのさ、『思い出す』って、普段は忘れてるってことでしょ」
「ああ、そうですね」
「俺は思い出さないよ。だって忘れてないから。ずっと想ってたから」

 ルームミラーには、肩を落とす加藤の姿が映っている。俺はその様子を見て口元を緩ませた。




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 加藤奈緒と間宮が行った町内会の防犯講話のエピソードはこちらです

 ブランカ/Blanca
 第42話 ハイブリッドと女衒と援護射撃と

 https://novel.daysneo.com/sp/works/episode/a7601c24ae2775616e4dd24d65d7b016.html

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