地獄の門をくぐる者

文字数 4,160文字

 八月二十日 午後十時十七分

 この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ――。

 国立西洋美術館にあった地獄の門はくぐることは出来なかったが、くぐることの出来るこの門は地獄に繋がっているだろう。間違いなく。

 俺は今、麻衣子さんと鶯谷(うぐいすだに)のラブホ街にいるが、目的のラブホまであと少しのところで奴らを見つけてしまった。ラブホの向かいにある公園の木に隠れ、おそらく対象者を待っていると思料されるフル装備の忍者とそのお供、中山さん。そして、二十メートル先にいるカップル――彼らを前にして、俺はいろんな感情が渦巻いている。

 ――藤川さんがどうしてエカテリーナと一緒にいるの?

 ラブホ街に二人がいるということは、藤川さんはエカテリーナを口説き落としたのか。藤川さん凄い。どんな手を使ったのだろう。木に隠れている忍者二人も藤川さんとエカテリーナを見つけたようだ。思い思いのサインをまた俺に寄越している。

『エカテリーナ』
『お腹すいた』
『藤川 凄い』
『食物 持ってない?』

 ――コンビニは寄れなかったの?

 エカテリーナは六年前、麻布十番(あざぶじゅうばん)のダーツバーで松永さんに声をかけたロシア人だ。長身でスレンダーな化粧の濃い巨乳美人のエカテリーナを松永さんがスルーするわけがなかったが、立地と状況からして絶対にウラがあるだろうし無い方がおかしかったから、エカテリーナの身元や素行調査をした。でも何も出て来なかった。

 調査結果がシロだったことから満を持して松永さんはエカテリーナを口説き始めたが、惨敗につぐ惨敗だった。声をかけたのはエカテリーナなのに。
 松永さんはエカテリーナを口説き落とそうとプランAからプランEまでやったがダメで、ムカついた松永さんは薬物を使おうとして須藤さんにバレ、右フックとアッパーを食らっていた。当たり前だ。
 諦めたように思えた松永さんだったが、エカテリーナに『私が納得する男を連れて来たら一晩一緒に過ごしてあげるわ』と言われ、松永さんはこの六年間、エカテリーナに男を斡旋し続けている。何かが間違ってるが、俺は何も言えない。

 藤川さんはエカテリーナの髪に触れ、何かを囁くと、エカテリーナは藤川さんの頬にキスをした。藤川さんは凄い。でも俺に気づいた藤川さんは鋭い目線を寄越し、ハンドサインを送って来た。

『なぜここにいる』

 ――それはこっちのセリフです。

 おそらく藤川さんからは電柱に隠れている麻衣子さんが見えなかったのだろう。繋いだ手を俺に引き寄せて、麻衣子さんの存在を見せようとすると、藤川さんの体が強張ったように思えた。どうしたのかと思っていると、藤川さんはゆっくりと振り向いた。
 藤川さんの肩越しには、俺が藤川さんよりも会いたくない二人がいた。葉梨と奈緒ちゃんだ。

 ――なんで鶯谷にいるんだよ。家でヤッてろよ。

 木の上の忍者ももちろん気づいて、また思い思いのサインを送って来ている。

『バーカバーカ』
『何 やってんの?』
『お腹すいた』
『私 仕事 ムカつく』

 葉梨は俺に気づいたが、奈緒ちゃんは藤川さんを見ている。二人の間には過去に何かあったようだが、奈緒ちゃんは藤川さんと会って話はつけたと言っていた。でも奈緒ちゃんは藤川さんを睨んでいる。なんでそこまで。
 その時、エカテリーナが振り向いた。奈緒ちゃんはエカテリーナに驚き、膝から崩れ落ちそうになって葉梨に支えられている。無理もない。エカテリーナと奈緒ちゃんは知り合いだから。

 ――あっ、エカテリーナが奈緒ちゃんに話しかけちゃった!

 藤川さんと葉梨は天を仰ぎ、木の上の忍者は笑いを堪えている。だってエカテリーナが奈緒ちゃんにハグをしているから。でも長身美女二人のハグは外国映画みたいでカッコいい。残された日本人男二人は何とも言えない顔して見つめ合っているけど。可哀想に。

 その時、公園の脇にある小道から出て来ようとしているカップルがいた。視界に入った男を見て、今度は俺が膝から崩れ落ちそうになった。木の上の忍者も口を開けたままそのカップルを見ている。

 ――松永さんまで鶯谷に……笹倉さんの家でヤッてろよ。

 俺は松永さんに視線を送ると、すぐに松永さんは俺に気づいた。被害者をこれ以上増やしてはならない。俺は松永さんへサインを送った。

『忍者 いる』

 ――あ、いけねっ! 間違えちゃった!

 松永さんはその場で立ち止まり、笹倉さんの肩を抱きながら俺を見た。そしてサインを出した。忍者って何、と。本当にすみません。

 俺は慌てて松永さんにサインを返す。二十メートル先にエカテリーナと藤川さん、そして奈緒ちゃんと葉梨がいることを。
 松永さんは目を見開き、どうするが考えているようだが、笹倉さんは公園の向かいにあるラブホを指差していて、さっさと入ろうと小道から出ようとしていた。

 ――ダメ! ゼッタイ! 横切ったらバレちゃう!

 松永さんは慌てて笹倉さんを抱きしめて身動きさせないようにしたが、笹倉さんは自分の背中に腕を回して松永さんの手を掴んだようだ。
 松永さんは顔を顰めている。おそらく痛いのだろう。泣きそうな顔をしている。

 ――小指、曲げられたのかな?

 可哀想にな。そう思っていると、背後に気配を感じた。この足の運びはアイツだ。その男が俺に近づくと同時に俺にしか聞こえない声が耳に流れ込む。

『岡島さん、いいですね幸せそうで。俺なんて旅行が無くなったからソープ行こうとしてたのに玲緒奈さんに駆り出されてツラいんですけど。昼はウチで玲緒奈さんと女向けのエロ漫画読んでバニーガールのAVも見て夜は鶯谷ですよ。俺が何したって言うんですかって、葉梨さんと藤川さんがいますよね? え、あれ? 加藤さん……もしかして加藤さんと抱き合ってる金髪ってエカテリーナですか? 藤川さん、やりますねーって、松永さんもいる。何なんですか、みんなで何してるんですか』

 ――飯倉、それは俺も思ってるよ。

 飯倉は俺の横を通り過ぎ、公園へと入って行った。木の上の忍者はすでに地上にいて飯倉のサインを見ている。

 ――対象者、来たのか。

 飯倉の姿を現認した松永さんは気づいた。忍者――義理の姉、モンスター玲緒奈とそのお供、中山さんがいることを。小指をさすりながら三人の仕事を邪魔しないようにしているが、笹倉さんが小道から出ようとしているから引き止めている。頑張って、松永さん。

「あの……直矢さん……」

 ――あっ、いけねっ!

 俺の耳に流れ込んだ愛らしい声に俺は驚いた。存在を忘れてたから。誤魔化さなきゃ。
 隣の麻衣子さんは不安そうに俺を見上げている。この場から少しでも動けば、麻衣子さんは兄の葉梨を見つけてしまう。気まずいだろう。葉梨も奈緒ちゃんもだけど。
 俺は麻衣子さんの頬に手を添えて、唇を重ねた。驚いた表情をした後、恥ずかしそうに俯く麻衣子さんが可愛い。でも、ほんの三秒とかそれくらいなのに、視線を元に戻すと状況が一変していた。

 ――奈緒ちゃんの後ろにチンパンジーがいるんですけど。

 なんで鶯谷に全員集合してんだよ。集合する場所間違ってる。
 本当だったら今頃は箱根でグデングデンに酔っ払ってるはずだったのに。須藤さんが慰安旅行は無しだと決めた時は俺ら全員反対したのに。笹倉さんに会いに行きたいはずの松永さんですら箱根に行きたがったのに。どうしてこうなった。

 だいたい須藤さんだってわかってるはずだ。俺らの一番の幸せは寝てる時に電話で叩き起こされないことだと。慰安旅行くらいしか幸せな夜を過ごせないと。温泉入って酒飲んで寝て起きて温泉入って酒飲んで寝る。その間、仕事の電話がかかってこないことは全国三十万人の警察官共通の幸せなのに、須藤さんはこう言っていた。

『お前ら結婚するんだから家庭を大切にしろ。配偶者を第一に考えろ。休みの日まで後輩同僚先輩上司と顔を突き合わせる必要は無い』

 言ってることはごもっともだが、慰安旅行の代わりに鶯谷のラブホ街で後輩同僚先輩上司全員集合ってどういうことだ。最悪だ。

 エカテリーナは須藤さんに気づいた。二人はレース編み仲間だから。
 奈緒ちゃんはエカテリーナから背後にいる須藤さんの存在を耳打ちされたようで、奈緒ちゃんは振り向くことなく藤川さんの腕を掴んで走り始めた。どうして。
 すぐにエカテリーナも同じように葉梨の腕を掴んで加藤と藤川さんを追って走り始めた。どうして。二人とも相手が違うよ。

 何も気づいていない石川さんは街灯に左手を翳して笑っている。須藤さんは優しく微笑んでいるが、唇を噛みしめていた。可哀想だけど須藤さんのせいだよ。もう。

 走り来る奈緒ちゃんは公園の向かいのラブホまで来て門をくぐろうとしたが、俺に気づいて目を見開いた。同時に藤川さんの声も聞こえる。

「おい! 俺じゃねえだろ!」
「ええっ!?」

 ――奈緒ちゃん焦りすぎ。

 追いかけっこをしているポンコツ警察官三人とロシア人を視界に入れながら、俺は隣の麻衣子さんを見た。目が合うと麻衣子さんは恥ずかしそうに微笑む。よかった、気づかれていないようだ。だが――。

「殴るよ?」

 ――ウチのラスボス登場だ。

 さっきまでスナイパーみたいなフル装備の忍者だったのに、いつの間にかライトグレーのワンピースを着たお上品な人妻になっている玲緒奈さんが奈緒ちゃんと藤川さんを睨んでいる。

 笹倉さんは飯倉を伴いラブホの入口にいる玲緒奈さんを見つけてしまった。そして奈緒ちゃんにも気づいたのだろう。驚いた表情で松永さんを見上げたが、すぐに背を向けた。松永さんも背を向けて笹倉さんに何かを話しているが、後ろの様子を伺っている。

 ――全部、チンパンジーのせいだよ。もう。

 鶯谷のラブホをネットで調べた時、SNSで話題になっていた新装オープンのこのラブホがいいと思って来てみたが、どう考えても地獄だ。

 俺は麻衣子さんの肩に腕を回して、後輩同僚先輩上司に背を向けて歩き出した。

 この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ――。

 俺は、くぐらない。だって地獄は嫌だから――。




 ― 後日譚 8/20編・了 ―




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 Nos vemos!
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