第9話 狂犬加藤と二人の男
文字数 2,894文字
午前七時五十二分
飯倉と葉梨は指定された場所へ山野を運んでそのまま横浜の事務所へ戻るが、部屋に残った加藤と中山と俺はコーヒーを飲んでいる。山野の引き渡しが済み次第、俺たちも事務所へ戻る予定だ。
「たっくん、お腹すいた」
「ぼくもだよ」
「何か作りましょうか?」
「……何にも、無いと思うけど」
「ふふっ……でしょうね」
俺は立ち上がりキッチンへ行ったが、冷蔵庫には酒しか無かった。
「煎餅ならあるよ」
「もー」
不機嫌なところに空腹も感じてしまった中山は、俺から煎餅を奪うと一人で食べ始めた。
本来の仕事と別件である吉原絵里と山野花緒里の件が重なり、休みは取れずに交代で家に数時間だけ帰る日が続いている。睡眠もまちまちで、疲労が蓄積されていた。
俺は優衣香に会えたから元気だが、中山は彼女が帰国した日に休みを取ったきりだ。睡眠は俺か須藤さんと一緒だが、少し疲れが見える。
「たっくん、このお煎餅、美味しい」
「でしょー?」
「私も食べたいです」
「いいよー」
加藤は山野がいなくなったことで元の加藤に戻っている。煎餅を食べ始めた加藤はいつもの加藤だ。だが――。
「あの、奈緒ちゃんさ、人んちなんだから少しは上品に食ったら?」
「あとで掃除しますから」
煎餅をそのまま口にして、頬に煎餅のカスをくっつけて、バリバリ食ってるワイルドな姿を葉梨も見たことはあるのだろうか。
葉梨とは上手くいっていて恋する奈緒ちゃんは幸せそうだが、さっきの山野の恨み辛み妬み嫉み僻みには、『葉梨を奪った』ともあった。
葉梨が山野から連絡を受けたと玲緒奈さんは報告を受けたが、加藤には言うなと厳命が出ている。だから俺は山野の口を塞いだのだが、加藤は気づいたかも知れない。玲緒奈さんが厳命した理由だ。
葉梨は山野の依願退職後も山野と連絡を取っていたという。もちろんそれは加藤と交際を開始したあとのことだ。
山野に心が動いたわけではない。葉梨は罪悪感から山野との連絡を止めなかった。
玲緒奈さんは葉梨を叱責したようだが、葉梨は無傷だから物理攻撃無しの叱責だったのだろう。良かった。メンタルは知らないが。
だが、葉梨は吉崎さんとも面識があり、山野は保護 されていると知っていたのに、連絡を取り合っていると誰にも言わなかった。
俺は葉梨を信用していたのだが、葉梨は優しすぎる。相澤と同じだ。
須藤さんは能力を見込んで葉梨をこちらに引き込んだが、加藤とデキたことと中山からの猛反対で何もさせなかった。だが山野の一件で見切りをつけるだろう。
加藤にとってもそれが良い。加藤も逃げられないから。優しいダーリンがいれば、加藤はやっていける。
「奈緒ちゃんさ、葉梨の惚気話聞かせてよ」
「お断りします」
胡麻煎餅の胡麻が歯に挟まったのか、舌で取ろうとして眉間にシワを寄せながら加藤は答えた。
中山は海苔煎餅の海苔だけ剥がして煎餅を俺に渡して来た。
「せっかくですから松永さんの惚気話を聞かせて下さいよ」
「あ、たっくん! 俺も聞きたい!」
「うるさいよ」
加藤は隣の部屋の女性が俺の恋人だと知らないが、バレる前に話しておいた方が良いとは思う。だが優衣香にも話さなくてはならない。いつ話せば良いだろうか。
「幼なじみでしたよね?」
「うん」
「子どもの時に、『大きくなったら結婚しようね』とか、そんな約束したんですか?」
「んふっ、してないよ」
「ふーん……」
加藤は漫画好きだ。
男性向け漫画の幼なじみモノはエロ描写が多いから、「松永さんもこんなことあったんですか?」と男の妄想を具現化したエロいページを俺に見せて来るが、そんなものは皆無だった。当たり前だ。
妄想カタログの巻頭ページは優衣香の透けブラだが、その後のページはなかなか増えなかった。
優衣香のガードは固くてパンチラは一度も拝めなかったし、なによりも俺のエロ知識が無かったから仕方ない。優衣香の透けブラだけで、純情ボーイの敬ちゃんはゴーゴーヘブンだった。
「子どもの時は彼女の方が体格が良くて、ケンカしても俺が負けてた」
「へー、そうだったんですか」
「彼女がね、バット持って追いかけて来るから、俺は剣道を選んだんだよ」
「んっふ……」
加藤も中山も笑いを堪えているが、俺は本当のことを話している。加藤は海苔煎餅から海苔を剥がし、海苔を中山に手渡してから俺を見た。
「松永さん」
「ん?」
「葉梨のことを聞かせて下さいませんか?」
「葉梨の何を?」
――嫌な予感しかしないんですけど。
俺も海苔煎餅から海苔を剥がし、海苔を中山に渡して中山と見つめ合っていると、加藤が答えた。
「山野は退職後も葉梨と連絡を取っていたようですけど」
――山野がそれを話す前に口を塞いだはずだ。なぜ知っている。
俺は加藤に視線を向けた。加藤は真っ直ぐ俺を見ている。
中山は加藤にもらった海苔を食べながら加藤を見ていたが、上顎に海苔がへばりついて時が止まっていた。
「聞かせて頂けませんか?」
「そんな話、俺は知ら――」
「松永さん」
――マズい。狂犬の顔になってる。
ここで適当にあしらっても加藤は引かないし、狂犬度は増してしまう。ならば真摯に対応しなければならない。
俺は姿勢を正した。そして、言った。
「中山くんに聞いて下さい」
「カハッ!!」
中山は上顎に貼りついた海苔は取れたようだが、想定外の俺の無茶振りに喉へ海苔が入ったようだ。ごめんね、りっくん。
「りっくん、水、お水飲みなよ」
「大丈夫ですか?」
俺の飲みかけのミネラルウォーターを口にして、落ち着いた中山は俺を見た。
だから俺も、中山を見た。
――りっくん、どうにかして。お願い。
俺の気持ちが通じたのか、中山は大きく息を吸い、吐き出してから口を開いた。
中山はいつも加藤に碌でもないことをするが、狂犬加藤のことは怖がっている。だが俺と違い、狂犬加藤でもいつも通りの対応は出来る。さすがりっくんだ。
「お前さ、ダーリンが他の女と連絡取ってることが許せねえの?」
「違います」
「じゃあ何だよ?」
中山は俺のミネラルウォーターを口にし、俺もまたミネラルウォーターを口に含み、そして中山は俺が口をつけたミネラルウォーターに唇をつけ……って間接キスしてる。何してんだ俺ら。どんだけ動揺してんだ。
――いや、今はそれどころじゃない。
加藤は煎餅をバリバリ食いながら俺を見ている。無表情で何を考えているかわからないが、山野に対して憎悪があったのは間違いない。俺の言葉を待っている。
仕方ない。俺は覚悟を決めて、口を開いた。
「俺も中山も、その件については何も申し上げることは出来ません。スミマセン」
そう言って、俺も中山も加藤を見たが、想定外の答えが返って来た。
「やっぱり葉梨と山野が連絡を取り合っているのは事実なんですね」
――あっれー?
俺たちは加藤にカマをかけられていたのか。
玲緒奈さんに口止めされていたが、目の前の狂犬加藤が怖くてうっかり漏らしてしまった。
――もうっ! ぼくもりっくんもバカなんだから!
何とも言えない空気が流れる中、俺と中山は玲緒奈さんに謝罪するために心の準備を始めた。
― 第5章・了 ―
飯倉と葉梨は指定された場所へ山野を運んでそのまま横浜の事務所へ戻るが、部屋に残った加藤と中山と俺はコーヒーを飲んでいる。山野の引き渡しが済み次第、俺たちも事務所へ戻る予定だ。
「たっくん、お腹すいた」
「ぼくもだよ」
「何か作りましょうか?」
「……何にも、無いと思うけど」
「ふふっ……でしょうね」
俺は立ち上がりキッチンへ行ったが、冷蔵庫には酒しか無かった。
「煎餅ならあるよ」
「もー」
不機嫌なところに空腹も感じてしまった中山は、俺から煎餅を奪うと一人で食べ始めた。
本来の仕事と別件である吉原絵里と山野花緒里の件が重なり、休みは取れずに交代で家に数時間だけ帰る日が続いている。睡眠もまちまちで、疲労が蓄積されていた。
俺は優衣香に会えたから元気だが、中山は彼女が帰国した日に休みを取ったきりだ。睡眠は俺か須藤さんと一緒だが、少し疲れが見える。
「たっくん、このお煎餅、美味しい」
「でしょー?」
「私も食べたいです」
「いいよー」
加藤は山野がいなくなったことで元の加藤に戻っている。煎餅を食べ始めた加藤はいつもの加藤だ。だが――。
「あの、奈緒ちゃんさ、人んちなんだから少しは上品に食ったら?」
「あとで掃除しますから」
煎餅をそのまま口にして、頬に煎餅のカスをくっつけて、バリバリ食ってるワイルドな姿を葉梨も見たことはあるのだろうか。
葉梨とは上手くいっていて恋する奈緒ちゃんは幸せそうだが、さっきの山野の恨み辛み妬み嫉み僻みには、『葉梨を奪った』ともあった。
葉梨が山野から連絡を受けたと玲緒奈さんは報告を受けたが、加藤には言うなと厳命が出ている。だから俺は山野の口を塞いだのだが、加藤は気づいたかも知れない。玲緒奈さんが厳命した理由だ。
葉梨は山野の依願退職後も山野と連絡を取っていたという。もちろんそれは加藤と交際を開始したあとのことだ。
山野に心が動いたわけではない。葉梨は罪悪感から山野との連絡を止めなかった。
玲緒奈さんは葉梨を叱責したようだが、葉梨は無傷だから物理攻撃無しの叱責だったのだろう。良かった。メンタルは知らないが。
だが、葉梨は吉崎さんとも面識があり、山野は
俺は葉梨を信用していたのだが、葉梨は優しすぎる。相澤と同じだ。
須藤さんは能力を見込んで葉梨をこちらに引き込んだが、加藤とデキたことと中山からの猛反対で何もさせなかった。だが山野の一件で見切りをつけるだろう。
加藤にとってもそれが良い。加藤も逃げられないから。優しいダーリンがいれば、加藤はやっていける。
「奈緒ちゃんさ、葉梨の惚気話聞かせてよ」
「お断りします」
胡麻煎餅の胡麻が歯に挟まったのか、舌で取ろうとして眉間にシワを寄せながら加藤は答えた。
中山は海苔煎餅の海苔だけ剥がして煎餅を俺に渡して来た。
「せっかくですから松永さんの惚気話を聞かせて下さいよ」
「あ、たっくん! 俺も聞きたい!」
「うるさいよ」
加藤は隣の部屋の女性が俺の恋人だと知らないが、バレる前に話しておいた方が良いとは思う。だが優衣香にも話さなくてはならない。いつ話せば良いだろうか。
「幼なじみでしたよね?」
「うん」
「子どもの時に、『大きくなったら結婚しようね』とか、そんな約束したんですか?」
「んふっ、してないよ」
「ふーん……」
加藤は漫画好きだ。
男性向け漫画の幼なじみモノはエロ描写が多いから、「松永さんもこんなことあったんですか?」と男の妄想を具現化したエロいページを俺に見せて来るが、そんなものは皆無だった。当たり前だ。
妄想カタログの巻頭ページは優衣香の透けブラだが、その後のページはなかなか増えなかった。
優衣香のガードは固くてパンチラは一度も拝めなかったし、なによりも俺のエロ知識が無かったから仕方ない。優衣香の透けブラだけで、純情ボーイの敬ちゃんはゴーゴーヘブンだった。
「子どもの時は彼女の方が体格が良くて、ケンカしても俺が負けてた」
「へー、そうだったんですか」
「彼女がね、バット持って追いかけて来るから、俺は剣道を選んだんだよ」
「んっふ……」
加藤も中山も笑いを堪えているが、俺は本当のことを話している。加藤は海苔煎餅から海苔を剥がし、海苔を中山に手渡してから俺を見た。
「松永さん」
「ん?」
「葉梨のことを聞かせて下さいませんか?」
「葉梨の何を?」
――嫌な予感しかしないんですけど。
俺も海苔煎餅から海苔を剥がし、海苔を中山に渡して中山と見つめ合っていると、加藤が答えた。
「山野は退職後も葉梨と連絡を取っていたようですけど」
――山野がそれを話す前に口を塞いだはずだ。なぜ知っている。
俺は加藤に視線を向けた。加藤は真っ直ぐ俺を見ている。
中山は加藤にもらった海苔を食べながら加藤を見ていたが、上顎に海苔がへばりついて時が止まっていた。
「聞かせて頂けませんか?」
「そんな話、俺は知ら――」
「松永さん」
――マズい。狂犬の顔になってる。
ここで適当にあしらっても加藤は引かないし、狂犬度は増してしまう。ならば真摯に対応しなければならない。
俺は姿勢を正した。そして、言った。
「中山くんに聞いて下さい」
「カハッ!!」
中山は上顎に貼りついた海苔は取れたようだが、想定外の俺の無茶振りに喉へ海苔が入ったようだ。ごめんね、りっくん。
「りっくん、水、お水飲みなよ」
「大丈夫ですか?」
俺の飲みかけのミネラルウォーターを口にして、落ち着いた中山は俺を見た。
だから俺も、中山を見た。
――りっくん、どうにかして。お願い。
俺の気持ちが通じたのか、中山は大きく息を吸い、吐き出してから口を開いた。
中山はいつも加藤に碌でもないことをするが、狂犬加藤のことは怖がっている。だが俺と違い、狂犬加藤でもいつも通りの対応は出来る。さすがりっくんだ。
「お前さ、ダーリンが他の女と連絡取ってることが許せねえの?」
「違います」
「じゃあ何だよ?」
中山は俺のミネラルウォーターを口にし、俺もまたミネラルウォーターを口に含み、そして中山は俺が口をつけたミネラルウォーターに唇をつけ……って間接キスしてる。何してんだ俺ら。どんだけ動揺してんだ。
――いや、今はそれどころじゃない。
加藤は煎餅をバリバリ食いながら俺を見ている。無表情で何を考えているかわからないが、山野に対して憎悪があったのは間違いない。俺の言葉を待っている。
仕方ない。俺は覚悟を決めて、口を開いた。
「俺も中山も、その件については何も申し上げることは出来ません。スミマセン」
そう言って、俺も中山も加藤を見たが、想定外の答えが返って来た。
「やっぱり葉梨と山野が連絡を取り合っているのは事実なんですね」
――あっれー?
俺たちは加藤にカマをかけられていたのか。
玲緒奈さんに口止めされていたが、目の前の狂犬加藤が怖くてうっかり漏らしてしまった。
――もうっ! ぼくもりっくんもバカなんだから!
何とも言えない空気が流れる中、俺と中山は玲緒奈さんに謝罪するために心の準備を始めた。
― 第5章・了 ―