第10話 信頼
文字数 3,654文字
七月十八日 午後十一時三十三分
玲緒奈さんとラブホを出たのは午後六時過ぎだった。
二人で署に戻り、俺は刑事課で事務処理をしているが、玲緒奈さんは四階の会議室にいる。
――終わらない。全然、終わらない。
刑事ドラマでは、この事務処理は無いこと になっている。役所仕事に事務処理が無いわけが無いのに。
捜査して容疑者逮捕して取調べで落として、エンディングテーマが流れる。絶対に終わりじゃないのに。そこから先の積み重なる紙の束など、地味すぎて放送する必要も無いのだろう。
――ツラい。帰りたい。
署の上階が官舎なのはありがたい。通勤時間ゼロですぐに部屋だ。だが、何も音がしない真っ暗な部屋へは帰りたくない。
溜め息が出る。
刑事課は誰もいない。
山積する仕事と部下の問題、絵里と奈緒美さん。
俺は一人で悩むしかなかった。
◇
七月十九日 午前零時十二分
誰もいないはずの刑事課に人の気配がする。
俺は立ち上がり、入口の脇にある応接室に向かった。
応接室のドアノブを静かに回して気配を覗うと、天井に僅かな隙間を見つけた。だが……。
「んなーー!!」
「お疲れ」
「あ、バレてました?」
「当たり前だ」
天井の隙間から敬志が落ちて来て、ソファの背もたれに腹ばいになっている。落下地点の目測を見誤ったようだった。
「ソファに靴、ついてる。ちゃんと拭けよ」
「はい! 今すぐやりまーす!」
元気良く面倒くさそうな表情で答える敬志は、カーゴパンツの裾を靴下に入れ、黒い長袖Tシャツ、リュックとスニーカー姿で、どこからか忍び込んで刑事課の応接室に落ちて来た。
「なんで普通に入って来ないんだよ?」
「たまにはやらなきゃと思って」
「でも落ちて来たらダメだろ?」
「ねー、ホントにねー」
刑事課に入り込むまで誰の目にもカメラにも映らない敬志の能力は認めるが、それで良いのかと思う。ここは警察署なのに。
敬志と飯倉は午前一時に署に来る予定だったが、敬志だけがいる。飯倉はどうしたのか、ソファに座る敬志に視線を合わせると答えが返って来た。
「そうだ。聞いて下さいよ。飯倉が浮気したんです。横浜の、駅の向こうに風俗街があるじゃないですか。ヘルスの方ですけど、アイツ、行っちゃったんですよ」
「なんでよ? いつもの嬢が辞めちゃったとか?」
「いえ、藤川さんの巧みなセールストークに乗せられて」
――なにやってんだ。藤川も。
藤川からは聞いている。
神奈川県東部を拠点にして半年が経った頃、お仲間 六人でヘルス街の全店制覇を計画して実行したが、各人が早々にお気に入りの嬢を見つけたから達成出来ず、一人で頑張っていると言っていた。
お前は行かなかったの――。
そう続けようと思ったが、答えを聞くまでもない。敬志には風俗を禁止しているから。
飯倉はボーナスが入ると必ず吉原の高級店に行くが、その嬢の調査は敬志にやらせた。だが帰って来た敬志は語彙力を消失させていて、『須藤さん、俺に風俗に行っちゃダメって命令して下さい。俺、絶対に借金作る自信あります。あの嬢はマジで凄いんですよ。俺ヤバかったですもん』と言っていた。
何が凄いのか聞いても『ヤバい、凄い』としか言わず、俺は報告がそれかよと思ったが、後日きちんと報告を上げたから良しとした。
その後、飯倉の調査結果を敬志に見せて意見を聞くと、『飯倉があの嬢相手に半年も我慢出来るというだけで、俺は評価します。さすが明治時代から続く警察一族の子息ですね。飯倉家の家訓は克己復礼 とかなんですかね? 飯倉は本当に、素晴らしい警察官です』と力説し、教育係は敬志と決めて、俺は飯倉をこちらに引き込んだ。
飯倉に敬志が大絶賛していたと伝えると嬉しそうな顔をしていたが、俺はいまだに理由は言えていない。あれから三年。飯倉はよくやっている。だが――。
「飯倉にさ、石川さんの素行調査させてるけど、優衣香ちゃんに見られたよ」
「えっ、優衣香に?」
応接室のドアを左足で止めながら立つ俺を見る敬志の目は動いている。
俺と優衣香ちゃんが会ったことは優衣香ちゃんに口止めしているし、敬志に報告も上がっていない。
「石川さんと優衣香ちゃんが会ったのは聞いてる?」
「ええ、食事に行ったようですね」
「その時、石川さんのマンションに送った優衣香ちゃんに、飯倉を目撃されちゃったよ」
「何やってんだよ……」
「優衣香ちゃんからドラレコのデータはもらったから見せてやる」
ソファから立ち上がった敬志にドアを任せて応接室を出たが、敬志はそのまま俺の後をついて来る。俺はソファの掃除を促し、席に戻った。
◇
午前零時二十四分
胸ポケットに入れたスマートフォンを取り出し、飯倉に数字と漢字が羅列されたメッセージを送った。解読すれば『午前零時五十五分まで入室不可』となる。
敬志はいつもと変わらずに元気に見えるが、無理をしている。今日は優衣香ちゃんの元へと行けたはずなのに、敬志は岡島と飯倉に時間を与えていた。
――どうして会いに行かないんだよ。
溜め息が出る。敬志は俺に何も言ってくれなかった。会いに行けと言ったのに行かなかった。これ以上のことはプライベートだから踏み込んではならないのかも知れないが、俺は敬志に幸せになってもらいたい。
敬志はソファの掃除に使った雑巾とバケツを戻しに行き、また刑事課へ戻って来た。
「お疲れ。ほら、見せてやる」
そう言いながら俺の左側に来た敬志に仕事用のスマートフォンを渡す。
優衣香ちゃんから送られたドラレコの動画だ。
電柱の陰に隠れているつもりがバッチリ見えている飯倉の姿に、敬志は目を細めている。
「お前が責任持って指導しとけよ」
「了解でーす!」
敬志は唇を尖らせ不満そうに俺を見ているが、俺は目を合わせず書類を手にした。
◇
午前零時三十七分
――残り十八分、か。
神奈川県での活動 は今月いっぱいで終わる。マンションは借りたままだが、事務所は引き払う。
八月は急ぎ の仕事は無い。だが九月に入るとまた忙しくなる。
それまでには敬志がどうするのか、どうしたいのか決めてもらいたいが、肝心の敬志が俺に何も言ってくれない。
敬志は俺の左前の間宮の席で俺の決済印を押印している。俺はひたすら書類に目を通しているが、疲れた。頼りにされない自分が情けない。
◇
ボールペンを胸ポケットにしまいながら立ち上がり、窓際にある冷蔵庫の前に立つと中を探った。取り出したのは紙パックのオレンジジュース二本だ。手にして振り返ると、敬志がオレンジジュースを見ている。
紙パックにストローを差して中身を吸い上げながら再び席に座り、敬志に手渡した。
「ほら、やるよ」
「ありがとうございます」
敬志は嬉しそうにオレンジジュースを飲み、俺は書類仕事を続けるが、中山の言葉が脳裏をよぎる。
敬志をどうにかしてあげてください――。
上司 として見守るだけで良いのか。
俺だって敬志をどうにかしてやりたい。だが、どうすれば良いのかわからない。
俺はただ、オレンジジュースを飲む敬志の横顔を見ていた。
◇
午前零時四十八分
俺は手元の書類から目を離し、腕時計を見た。
残り七分だ。もう時間が無い。
俺が敬志に声をかけようと顔を上げると、敬志も俺の顔を見ていた。
「敬志」
「須藤さん」
意図せず同時に声を掛け合ってしまった。俺は敬志に続きを促したが、俺が先に言えば良かったと後悔した。
「兄ちゃんから連絡があったんですけど、玲緒奈さんに何されたんですか?」
――もう敦志に見せたのかよ。
「……敦志は何て言ってた?」
「近年稀に見る最高の出来って」
「ボジョレー・ヌーボーみたいだな」
「んふふ……」
ラブホに行く際は双方がボディカメラを装着し、室内にも死角が出来ないように録画をするが、敦志が確認した上で録画データを会社 に保管している。
「ベッドで後ろ手拘束されて仰向けになって、玲緒奈さんが馬乗り」
「……で、グーパン?」
「玲緒奈さんがグーパンすると敦志はキレるよ?」
「ですよね」
「ふふっ、敦志から見せてもらえ。俺、すっげー辛かったよ」
オレンジジュースを飲みながら笑う敬志は、俺に話を促す。だが、あと残り六分だ。話が中途半端になりかねない。だとしても話さないとならない。
「優衣香ちゃんといつ入籍するの?」
「えっ……」
「十一月のいい夫婦の日?」
「あー、まだそこまで考えてないです」
敬志はオレンジジュースの紙パックを持ち上げるが、もう残りは少ない。ストローを指先で動かしている。
「なんで考えてないの?」
「……うーん」
「優衣香ちゃんと何かあったのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「敬志、俺じゃ頼りにならないか?」
「えっ?」
俺の目を探る敬志に、愛しさと同時に不甲斐なさも感じる。敬志が俺を頼ってくれないなら、俺はその程度なんだと打ちのめされる。
「敬志。会社 を辞めたいならそう言え。俺がどうにかするから」
俺から目をそらし、オレンジジュースの紙パックを見ているようで見ていない敬志は、唇を噛んでいた。
玲緒奈さんとラブホを出たのは午後六時過ぎだった。
二人で署に戻り、俺は刑事課で事務処理をしているが、玲緒奈さんは四階の会議室にいる。
――終わらない。全然、終わらない。
刑事ドラマでは、この事務処理は
捜査して容疑者逮捕して取調べで落として、エンディングテーマが流れる。絶対に終わりじゃないのに。そこから先の積み重なる紙の束など、地味すぎて放送する必要も無いのだろう。
――ツラい。帰りたい。
署の上階が官舎なのはありがたい。通勤時間ゼロですぐに部屋だ。だが、何も音がしない真っ暗な部屋へは帰りたくない。
溜め息が出る。
刑事課は誰もいない。
山積する仕事と部下の問題、絵里と奈緒美さん。
俺は一人で悩むしかなかった。
◇
七月十九日 午前零時十二分
誰もいないはずの刑事課に人の気配がする。
俺は立ち上がり、入口の脇にある応接室に向かった。
応接室のドアノブを静かに回して気配を覗うと、天井に僅かな隙間を見つけた。だが……。
「んなーー!!」
「お疲れ」
「あ、バレてました?」
「当たり前だ」
天井の隙間から敬志が落ちて来て、ソファの背もたれに腹ばいになっている。落下地点の目測を見誤ったようだった。
「ソファに靴、ついてる。ちゃんと拭けよ」
「はい! 今すぐやりまーす!」
元気良く面倒くさそうな表情で答える敬志は、カーゴパンツの裾を靴下に入れ、黒い長袖Tシャツ、リュックとスニーカー姿で、どこからか忍び込んで刑事課の応接室に落ちて来た。
「なんで普通に入って来ないんだよ?」
「たまにはやらなきゃと思って」
「でも落ちて来たらダメだろ?」
「ねー、ホントにねー」
刑事課に入り込むまで誰の目にもカメラにも映らない敬志の能力は認めるが、それで良いのかと思う。ここは警察署なのに。
敬志と飯倉は午前一時に署に来る予定だったが、敬志だけがいる。飯倉はどうしたのか、ソファに座る敬志に視線を合わせると答えが返って来た。
「そうだ。聞いて下さいよ。飯倉が浮気したんです。横浜の、駅の向こうに風俗街があるじゃないですか。ヘルスの方ですけど、アイツ、行っちゃったんですよ」
「なんでよ? いつもの嬢が辞めちゃったとか?」
「いえ、藤川さんの巧みなセールストークに乗せられて」
――なにやってんだ。藤川も。
藤川からは聞いている。
神奈川県東部を拠点にして半年が経った頃、
お前は行かなかったの――。
そう続けようと思ったが、答えを聞くまでもない。敬志には風俗を禁止しているから。
飯倉はボーナスが入ると必ず吉原の高級店に行くが、その嬢の調査は敬志にやらせた。だが帰って来た敬志は語彙力を消失させていて、『須藤さん、俺に風俗に行っちゃダメって命令して下さい。俺、絶対に借金作る自信あります。あの嬢はマジで凄いんですよ。俺ヤバかったですもん』と言っていた。
何が凄いのか聞いても『ヤバい、凄い』としか言わず、俺は報告がそれかよと思ったが、後日きちんと報告を上げたから良しとした。
その後、飯倉の調査結果を敬志に見せて意見を聞くと、『飯倉があの嬢相手に半年も我慢出来るというだけで、俺は評価します。さすが明治時代から続く警察一族の子息ですね。飯倉家の家訓は
飯倉に敬志が大絶賛していたと伝えると嬉しそうな顔をしていたが、俺はいまだに理由は言えていない。あれから三年。飯倉はよくやっている。だが――。
「飯倉にさ、石川さんの素行調査させてるけど、優衣香ちゃんに見られたよ」
「えっ、優衣香に?」
応接室のドアを左足で止めながら立つ俺を見る敬志の目は動いている。
俺と優衣香ちゃんが会ったことは優衣香ちゃんに口止めしているし、敬志に報告も上がっていない。
「石川さんと優衣香ちゃんが会ったのは聞いてる?」
「ええ、食事に行ったようですね」
「その時、石川さんのマンションに送った優衣香ちゃんに、飯倉を目撃されちゃったよ」
「何やってんだよ……」
「優衣香ちゃんからドラレコのデータはもらったから見せてやる」
ソファから立ち上がった敬志にドアを任せて応接室を出たが、敬志はそのまま俺の後をついて来る。俺はソファの掃除を促し、席に戻った。
◇
午前零時二十四分
胸ポケットに入れたスマートフォンを取り出し、飯倉に数字と漢字が羅列されたメッセージを送った。解読すれば『午前零時五十五分まで入室不可』となる。
敬志はいつもと変わらずに元気に見えるが、無理をしている。今日は優衣香ちゃんの元へと行けたはずなのに、敬志は岡島と飯倉に時間を与えていた。
――どうして会いに行かないんだよ。
溜め息が出る。敬志は俺に何も言ってくれなかった。会いに行けと言ったのに行かなかった。これ以上のことはプライベートだから踏み込んではならないのかも知れないが、俺は敬志に幸せになってもらいたい。
敬志はソファの掃除に使った雑巾とバケツを戻しに行き、また刑事課へ戻って来た。
「お疲れ。ほら、見せてやる」
そう言いながら俺の左側に来た敬志に仕事用のスマートフォンを渡す。
優衣香ちゃんから送られたドラレコの動画だ。
電柱の陰に隠れているつもりがバッチリ見えている飯倉の姿に、敬志は目を細めている。
「お前が責任持って指導しとけよ」
「了解でーす!」
敬志は唇を尖らせ不満そうに俺を見ているが、俺は目を合わせず書類を手にした。
◇
午前零時三十七分
――残り十八分、か。
神奈川県での
八月は
それまでには敬志がどうするのか、どうしたいのか決めてもらいたいが、肝心の敬志が俺に何も言ってくれない。
敬志は俺の左前の間宮の席で俺の決済印を押印している。俺はひたすら書類に目を通しているが、疲れた。頼りにされない自分が情けない。
◇
ボールペンを胸ポケットにしまいながら立ち上がり、窓際にある冷蔵庫の前に立つと中を探った。取り出したのは紙パックのオレンジジュース二本だ。手にして振り返ると、敬志がオレンジジュースを見ている。
紙パックにストローを差して中身を吸い上げながら再び席に座り、敬志に手渡した。
「ほら、やるよ」
「ありがとうございます」
敬志は嬉しそうにオレンジジュースを飲み、俺は書類仕事を続けるが、中山の言葉が脳裏をよぎる。
敬志をどうにかしてあげてください――。
俺だって敬志をどうにかしてやりたい。だが、どうすれば良いのかわからない。
俺はただ、オレンジジュースを飲む敬志の横顔を見ていた。
◇
午前零時四十八分
俺は手元の書類から目を離し、腕時計を見た。
残り七分だ。もう時間が無い。
俺が敬志に声をかけようと顔を上げると、敬志も俺の顔を見ていた。
「敬志」
「須藤さん」
意図せず同時に声を掛け合ってしまった。俺は敬志に続きを促したが、俺が先に言えば良かったと後悔した。
「兄ちゃんから連絡があったんですけど、玲緒奈さんに何されたんですか?」
――もう敦志に見せたのかよ。
「……敦志は何て言ってた?」
「近年稀に見る最高の出来って」
「ボジョレー・ヌーボーみたいだな」
「んふふ……」
ラブホに行く際は双方がボディカメラを装着し、室内にも死角が出来ないように録画をするが、敦志が確認した上で録画データを
「ベッドで後ろ手拘束されて仰向けになって、玲緒奈さんが馬乗り」
「……で、グーパン?」
「玲緒奈さんがグーパンすると敦志はキレるよ?」
「ですよね」
「ふふっ、敦志から見せてもらえ。俺、すっげー辛かったよ」
オレンジジュースを飲みながら笑う敬志は、俺に話を促す。だが、あと残り六分だ。話が中途半端になりかねない。だとしても話さないとならない。
「優衣香ちゃんといつ入籍するの?」
「えっ……」
「十一月のいい夫婦の日?」
「あー、まだそこまで考えてないです」
敬志はオレンジジュースの紙パックを持ち上げるが、もう残りは少ない。ストローを指先で動かしている。
「なんで考えてないの?」
「……うーん」
「優衣香ちゃんと何かあったのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「敬志、俺じゃ頼りにならないか?」
「えっ?」
俺の目を探る敬志に、愛しさと同時に不甲斐なさも感じる。敬志が俺を頼ってくれないなら、俺はその程度なんだと打ちのめされる。
「敬志。
俺から目をそらし、オレンジジュースの紙パックを見ているようで見ていない敬志は、唇を噛んでいた。