第6話 既読

文字数 3,277文字

 おしぼりで口を拭いながら優衣香ちゃんを見ると、俺の目を見て口元を緩ませている。

 ――奈緒美さんだと思っているんだろうな。

「俺は両親の写真を入れてるよ」
「そうなんですか……」

 声は明るいが、ほんの少し、落胆の表情をしている。俺はそんな姿を見て笑ってしまう。
 優衣香ちゃんは、奈緒美さんのことを教えてくれるだろうか。聞いてみたいが、聞けない。

 ――怖い。真実を知ることが、ただただ、怖い。

 もう奈緒美さんから連絡は無いだろう。あの日、明け方に電話した時は絵里のことを何も言えず終わった。もう連絡が来ることは無いと思う。俺からも連絡は出来ない。

 優衣香ちゃんは俺の目を真っすぐ見ている。
 何を、奈緒美さんは優衣香ちゃんに言ったのだろう。聞きたいが、もうこれ以上は傷つけてはならない。

「奈緒美ちゃんは、旦那さんを思い出すことが少なくなったと言ってました」

 ――いきなり何?

 優衣香ちゃんはそう言うと、チェイサーとして注文していた烏龍茶を飲んだ。濃い琥珀色の中で氷がカランと鳴る。
 それを見ていた優衣香ちゃんは、俺を見て微笑んだ。

「大切な人を亡くすと、何年経っても傷は癒えないです。私も父を亡くして二十年経ちますけど、たまに思い出して涙が出ます。でも、思い出して涙が出るのは、大切な人が会いに来てくれたよ、という合図なんですって」

 笑顔の優衣香ちゃんは何を言いたいのだろうか。奈緒美さんと関連しているのだろうが、意図がわからない。

「いい言葉だね」
「でしょう? 事件の時、相澤さんがそうおっしゃってくれたんです。『だから今はずっと泣いていていいんですよ。お母様がそばにいます』って」
「へえ……相澤が?」
「んふふ……相澤さんって体格が良くて見た目が怖いですけど、すごく優しい方ですよね」

 優衣香ちゃんは何を言いたいのか。
 他意は無いのか、それとも泣いていた奈緒美さんについてなのだろうか。

「それをね、奈緒美ちゃんに言ったら泣いちゃって。ふふっ」
「えっ……」
「旦那さんのご両親から何か言われたようで、奈緒美ちゃん自身も旦那さんを思い出すことが少なくなってたから、悩んでました。そこに私がそんなことを言っちゃったから、奈緒美ちゃんが泣いたんです」
「それって、いつのこと?」
「えっと……十二日ですね」

 絵里が会社に電話したのはその日の日中、俺が電話したのは翌日の明け方だ。泣いた理由は絵里の件じゃなかったのか。

「そうなんだ」
「須藤さん」
「ん?」

 優衣香ちゃんは膝に手を置いて俺を見ている。
 口元は笑顔だが、目は笑っていない。真剣な眼差しで俺を見ている。

「奈緒美ちゃんが泣いていた理由を知りたいから、私に連絡したんですよね?」

 ――なんでバレてんだよ。

「え、なに? なんでそうなるの?」

 誤魔化す俺を優衣香ちゃんは真っすぐ見たまま、笑顔で答えた。だがその言葉に、俺は目眩がした。

「マッチョしかいないジムで私に話しかけて来た背の高いイケメンが見てましたよ。須藤さんは報告を受けたから、私に……なのかなって」

 ――飯倉のヤツ……何やってんだよ。

「……見ちゃったかー」
「んふふ……奈緒美ちゃんからは見えないように隠れてましたけど、私からは見えてました。ドラレコにもバッチリ映ってます。送りましょうか?」
「そうだね、ふふっ、送ってよ、お手数おかけして申し訳ありませんが」
「ふふふっ」

 飯倉のポンコツっぷりには腹が立つが、奈緒美さんが泣いていた理由が絵里の件じゃないとわかったからいいか。だが、無関係だとも言い切れない。

「須藤さん、奈緒美ちゃんから連絡が頻繁に来るのは迷惑ですか?」
「えっ?」
「メッセージとかスタンプです。返信を要しないメッセージ」
「ああ……いや、迷惑じゃないよ」
「なら、奈緒美ちゃんにそう言ってあげて下さいねー。ふふっ」

 優衣香ちゃんは奈緒美さんから何か言われたのか。聞いた方が良いのかも知れないが、どうしよう。

「奈緒美ちゃんは、須藤さんのことを考える時間が増えたんですよ。だから……」
「ん? なに?」
「既読です。既読がつくと、生きてるってわかりますから」

 ――あー、そういうことか。

 思わず笑ってしまった。
 ちょうど一年前だ。久しぶりに届いたメッセージが嬉しくて、電話したら泣かれたんだった。『生きているならいいんです』と奈緒美さんは言っていた。

「私も奈緒美ちゃんも、恋人が生きているとわかれば、それだけでいいんです」

 優衣香ちゃんは敬志が生きているだけで良いのか。他に何も要らないのか。

 敬志は警察官のままなら優衣香ちゃんがまた家族を失くしてしまうと泣いていた。
 敬志が辞めたいと相談して来たら、その時はその時だ。俺は敬志のためにどんなことでもやってやる。

 俺はそう覚悟を決めて、幸せそうな優衣香ちゃんに微笑んだ。


 ◇


 午後九時十八分

 スペインバルを出て電車に乗り、優衣香ちゃんのマンション最寄り駅で俺も降りて、改札まで一緒に行った。
 改札で見送り、敬志の駒が優衣香ちゃんの後を追う姿を見ている。

 帰宅すれば敬志に連絡が行くのだろうが、優衣香ちゃんが俺と会っていたことも改札まで一緒だったことも、敬志には報告は上がらない。誰かが誰かの駒と繋がっているから。
 今日の俺にも、誰かの駒がずっとついている。

 ――メンドクセーな。

 溜め息が出そうになるのを抑えながら、優衣香ちゃんを見た。優衣香ちゃんは階段の手前で振り返り、手を振った。俺も手を上げたが、視界の端に葉梨がいることに気づいた。
 葉梨も俺に気づき、笑顔で手を上げている。

 ――お前じゃねえよ。

 笑ってしまった。
 黒のストレートパンツに白い半袖Tシャツを着て、リュックを背負う葉梨が屈託のない笑顔で俺の元へ走って来る。
 嫌な顔をされなかっただけまだマシだな。そう思いながら改札を抜けた葉梨を笑顔で待った。

「お疲れ。加藤のマンション? 実家?」
「加藤さんのマンションです!」
「ふふっ、もう合鍵もらったんだ」
「ええ、もらいました」

 今日の加藤は終日、岡島と外出している。
 葉梨は午後三時から午前一時まで休みだ。加藤のマンションに荷物でも運んでいたのかな。

「この後は? 横浜に戻るの?」
「はい! 戻ります!」
「なら、悪いんだけど――」

 続く言葉を待つ葉梨は笑顔のままだ。面倒なことを指示されても、いつも葉梨は顔色ひとつ変えずに応える。
 だが、今は九時二十分だ。横浜のマンションでも事務所でも十時過ぎには着く。なら残り三時間は葉梨の自由時間だ。俺と一緒にいるのは嫌だろう。

「――いや、なんでもない。俺は官舎に帰るから。また明日な」

 そう言って葉梨と離れようとしたが、葉梨に止められた。
 真剣な眼差しで葉梨は言う。「言って下さい」と。

 こんなこと、俺が言ってはならない。
 言ったら命令と同じだ。従うしかない。
 だから、俺は言ってはならない。

「……なんでもないよ。仕事のことじゃないから。行け」
「言って下さい」
「メンドクセー奴だな」
「……とりあえず、言ってみて下さい」
「お前さあ……」

 思わず笑ってしまった。
 葉梨は、他の捜査員より自分が優遇されていること、俺の対応が違うことの意味を理解している。
 だが、葉梨にとってはそれが不満なのだ。

「なら須藤さん。三回言っても言ってくれなかったと、ハラスメントがあったと、上に相談します」

 ――コイツ……。

 葉梨は目張り気配りを欠かさない。人のことを良く見ている。当然、今の管理職が置かれている立場の弱さも理解している。

「四回目、言います! 言って下さい!」
「もー! 俺と官舎に行って、俺の車で横浜のマンションに行って欲しいと、お願いしようとしてたんだよ」
「はい。構いません。行きましょう」
「ダメ」
「須藤さん!」

 こうやって、若手は自分の時間を犠牲にしている。
 それで得るものは確かにある。あるが、失うものの方が多い。
 同じ思いを若手にさせてはならない。

「いい。早く行けよ」
「官舎について行きます」
「もー!」
「行きます!」

 葉梨は俺の腕を掴み、ホームへと続く階段へ引っ張って行った。




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