圧力に屈する純情ボーイ

文字数 2,498文字

 八月二十日 午後一時五十分

 俺は今、プンスコしている。

 目の前には頬を膨らませている優衣香がいる。頬袋に木の実を詰め込んだリスみたいで可愛いが、同じ顔をしてプンスコしている俺は可愛くないだろう。

「捨てる?」
「捨てないっ!」

 俺は高二の時に優衣香からもらったデオドラントウォーターの空き容器を片手にムキになっている。
 優衣香と揉めているが、優衣香が悪いのかと問われると、絶対に優衣香は悪くない。だが俺の二十一年間……いや、正味十八年間の俺の気持ちはどうなるのかと、何とも言えない気持ちになっている。辛く苦しい時の心の拠り所だったのに。

 事の発端は、優衣香のマンションに届いた俺の荷物の開封の儀を二人でしていた時から始まる。
 俺がそのデオドラントウォーターの空き容器をルンルン気分で優衣香に見せると、記憶が蘇ったのか優衣香は笑顔になった。そこまでは、いい。そこまでは良かった。

 だが、成長痛が痛くて眠れない時に膝に塗っていたとか、警察学校にも持ち込んで辛かった時に香りを嗅いでいたとか、優衣香に会いたくなった時は肌に塗っていたとか、中身が無くなっても空き容器は傍らに置いて寝ていたとかの事実を話していると、だんだんと優衣香の挙動がおかしくなっていった。
 俺は何かを隠していると思い、訊ねると優衣香はしぶしぶ話し出したものの、それは俺にとって知りたくない事実だったのだ。

『高校の時に付き合ってた彼氏とキャップを交換したやつなのに……』

 二十一年の時を経て明るみに出た真実――それは俺の心の拠り所の半分は優衣香の元カレで出来ていたのだ。

 なぜキャップと本体の色が違うのかとは思っていたが、優衣香は間違えたんだろうな、うっかり優衣ちゃんめと、俺はただそう思っていた。
 聞けば、俺らが高校生の頃は恋人同士でデオドラントウォーターのキャップ部分を交換するのが流行っていたという。そんなこと、俺が知るわけがない。

「大切にしてくれてたのは嬉しいけど、もう捨てたら?」
「いいのっ! 取っとくのっ!」
「でも……」
「捨てないもんっ!」

 優衣香は俺とこんなくだらないことで揉めていて、内心は『あたし悪くないもん』と思っているだろう。確かに優衣香は悪くない。不貞腐れている俺が悪いだけだ。
 せっかく優衣香と一緒にいるのに、ケンカはしたくない。自分の機嫌をどう取るかと俺は考えているが、どうすればいいのだろうか。

 しばらく双方が無言だったが、優衣香が口を開いた。

「敬ちゃんだって彼女と交換したでしょ? それを私が持ってたらどう思う?」

 ――ああん? 純情ボーイの敬ちゃんをナメんなよ。

 言いたい。
 言いたいが、妙なプライドが邪魔して何も言えない。そうだ。俺は高校時代に彼女などいなかったのだから。

 勉強と剣道に明け暮れた高校時代の俺に彼女を作る暇などあるわけがないだろう。そう言うとなんかカッコよく聞こえるが、要はモテなかっただけだ。
 夏、部活終わりに汗だくのまま校舎の階段を上っていると、上からスクールカースト上位の女子が下りてきて、すれ違いざまに『(きたな)っ』と言われた記憶は今でもある。思い出し怒りも出来る。

 優衣香は今の見た目のせいで記憶補正しているようだが、俺は自慢じゃないがダサかった。
 服は子供の頃から兄のお下がりを着ていて、たまに母は服を買ってくれたが、それは『ジャスコの二階で売ってるお母さんがカッコいいと思う服』だ。今思えば超絶ダサい。だが俺は新しい服が嬉しくて着ていたし、おまけの革紐のネックレスもつけてお洒落だと思っていた。
 その姿を見た優衣香は微妙な顔をしていたのに、記憶補正って怖いなとを考えていると、優衣香が会心の一撃をぶっ放してきた。

「あれ? 敬ちゃんって彼女いたっけ?」

 ――いませんっ!

「そういえば敬ちゃんが彼女と撮ったプリクラはもらった記憶ないな……」

 ――この世に存在しないものは渡せないよっ!

「えー、でもデートっていつしてたの?」

 ――相手がいないんだから出来ないよっ!

「帰りが遅かったのは部活だし、デートする時間、無いよね? 週末は私かお父さんが勉強見てたし」

 ――もうやめて! 敬ちゃんのライフはゼロよっ!

 高校時代は数学だけじゃなく、他の教科も優衣香に教えてもらっていた。
 俺は家から一番近い公立高校に優衣香のおかげでなんとか滑り込んだが、当然、勉強は出来なかった。担任からは『兄貴は頭良かったのに』と言われ、さらには『警察か。本気で勉強しないと、このままだとマズいぞ? 兄貴は楽勝だったけど』とも言われ、俺は優衣香に頼み込んで勉強を教えてもらっていた。

 休みの日、優衣香はうちに来て理志の勉強を見るついでに俺の勉強も見てくれていた。そう、俺はついでだった。優衣香の不在時は優衣香の家に行き、おじさんが俺の勉強を見てくれた。俺が警察官になれたのは笹倉家のおかげだ。本当に、感謝している。

 俺が俯き黙っていると、違和感を覚えたのか優衣香は神妙な顔つきになってしまった。

 優衣香は高校時代、俺がどんな気持ちでいたか知らない。どれだけ優衣香を想っていたかなんてわからないだろう。優衣香にとって俺はただの幼馴染。可愛い理志の兄だ。
 俺としては好きの気持ちを抑えていただけだが、優衣香から単なる家が隣同士の幼馴染としてしか見られていない現実にいつもうちのめされていた。
 だから、優衣香からもらったこのデオドラントウォーターは、俺の宝物だ。たとえその半分が元カレのものだったとしてもだ。

「ねえ、敬ちゃん」
「……なに?」

 もう、いいか。正直に彼女がいなかったと話せばいいか。純情ボーイはリア充じゃなかったのだから。事実を言えばいい、そう考えていると、優衣香は俺の手を取った。
 察した優衣香は俺を慰めようとしているのか、指先が優しく手の甲をなぞる。だが優衣香が続けた言葉は――。

「おっぱい揉む?」
「うんっ!!」

 条件反射でうっかり元気よく答えてしまったが、優衣香は何を言っているのだろうか。プンスコしていたはずの俺が明るく笑顔で答える様を、優衣香は笑って見ていた。

 ――もうっ! 敬ちゃんのバカ!




 
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