第8話 隠し事

文字数 4,483文字

 六月二十二日 午前七時三分

 捜査員用のマンションに戻った俺と中山、敬志、加藤の四人はリビングにある座卓に座った。

 リビングには既に起きていた葉梨がいて、俺たちにコーヒーを淹れてくれている。

 玄関で出迎えた葉梨に、加藤は目も合わせずに挨拶を返し、葉梨は動揺していた。それを見ていた中山は嘲笑含みの声音で葉梨に挨拶を返していた。無理もないだろう。加藤の護衛として藤川充と会う加藤を見守り、帰宅まで付き添った中山は山野を見つけてしまったのだから。

 山野は仕事だとウラが取れたからまだ良かったが、そうでない場合だってあり得た。中山の緊張感は察するに余りある。
 原因は何か。それは葉梨だ。中途半端な優しさで加藤を傷つけた。中山は葉梨を許さないだろう。

 敬志は買って来たハンバーガー屋の朝メニューのセットを葉梨に渡している。二つあるが、岡島はまだ寝ているのだろうか。
 飯倉は昨夜から玲緒奈さんと外出している。

「葉梨、岡島はまだ寝てるの?」
「起きてます。けど……」
「ん? なによ?」
「筋肉痛で動けないようです」
「んっふ……」

 それを聞いた敬志と中山は笑いながら立ち上がり、リビングを出た。しばらくすると情けない声が聞こえて来た。
 筋トレは加藤が指示したのだという。ブルガリアンスクワットが一番効率良いから八回を三セットさせた、と。
 確かにそうだが、筋トレ初心者にはまだ無理だろうと思う。まずはランジからだろうとは思うが加藤は容赦しないから仕方ない。

 敬志と中山に連行されて来たボサボサ頭の岡島は辛そうにしている。

「岡島、どこが痛い?」
「太ももの前です」
「ケツは? 太ももの裏は?」
「あんまり……」
「じゃあ効いてねえってことだな」

 座卓にやって来た岡島は俺の隣に座る加藤の横に座ったが、苦痛に顔を歪めている。

「とりあえず食えよ。で、鎮痛剤飲め」
「はい……いただきます」

 葉梨はコーヒーをトレーに乗せて座卓に来て、各人好みのミルクと砂糖を置いた。普段の俺は砂糖無しだが、今日は砂糖も入れようと思う。

「葉梨、悪いんだけど砂糖を持って来て。ごめんね」

 俺が砂糖を追加することに葉梨も岡島も俺をちらりと見た。敬志はどうかと見ると、小さく頷いた。

 加藤の隣室へ山野花緒里が訪れたことは既に報告を受け、追加の手配も済んだのだろう。

 俺は正面に座る敬志に微笑んだ。


 ◇


 奈緒美さんのマンションの上階の部屋に吉原絵里の男が賃貸契約したが、既に藤川充はマンション周辺と室内は調査済みでカメラも盗聴器も仕掛けてあるという。
 藤川は、奈緒美さんの部屋のベランダだけは注意しろと言っていた。
 奈緒美さんは乾燥機を使っていて外干しすることは稀で基本的にバルコニーには出ないと言っていたし、自宅の防犯に抜かりはない。だが、避難はしごだけは塞ぐことが出来ない。

 万が一を想定して動かないとならないが、俺は先輩が言っていた言葉が、深く胸に刻まれた言葉が、心臓の鼓動を早めている。

 覚えとけよ。自分の罪の報いは自分が受けるとは限らないからな――。

 敬志はどうするだろうか。もし山野の目的が優衣香ちゃんだったら。そうならないように二重三重の包囲網を敷いているが、いつだって事件はほんの僅かな隙をつく。二軒隣に、加藤の隣の一人暮らしの女性の部屋にデリヘル嬢が訪れたのだから。

 山野はパスポートを所持しておらず、準備と申請、パスポート発行までは最短で二週間だ。
 山野が消えてしまえば敬志はひと安心だろう。

 敬志は仕事でもプライベートでも、女とは後腐れのないように細心の注意を払っていた。時折、想定外のことが起きて大惨事になっていたが、概ね問題はない。だが俺はそうではない。恨みを買っている。買っていないわけがない。自覚はある。

 仕事だから。仕事だから仕方なかった。やりたくないこともしなくてはならなかった。

 同じ時間(とき)を過ごし、言葉を交わし、心を通わせて、ついに奈緒美さんは俺に身を任せてくれた。心と体を俺に重ねてくれることを、俺はずっと願っていた。
 でも奈緒美さんは深い関係になって失くすのが怖いと言って、一定の距離を保ったままだったのに。
 俺だってこういうこと(・・・・・・)が起きるとわかっていたから、距離を縮めないままで別れたかったのに。
 俺が願っていた未来にはなった。なったが、俺が望んだ結末ではなかった。

 今、奈緒美さんの身に何かあったとしたら、俺はどう動くか。そもそも俺は奈緒美さんの為なら命を投げ出すのか。

 ――いや。俺は、命の選択をする立場だ。

 ここにいる部下の命を預かり、その命の選別もする今の俺には奈緒美さんを選べない。

 奈緒美さんが別れを受け入れてくれてたら、俺はこんなに悩まなくて済んだのに。

 ――失敗したな。上手く行くと思ってたのに。
 ――手紙なんて出さなきゃ良かった。

 俺は折に触れて絵里が言っていた言葉を思い出す。

 後悔は後でするものよ――。

 その通りだ。
 俺が欲を出さなければ、こんなことにはならなかったから。
 でも、いいか。
 敬志は自分のことだと仮定して優衣香ちゃんと話し合いをしたそうだ。敬志も別れを覚悟して切り出したが、優衣香ちゃんも受け止めると言ってくれたという。なら、俺は間違ってなかったということだ。結果論だが、これで良かったんだ。後悔はしなくて、いい。


 ◇


 ハンバーガー屋の朝メニューを食べる岡島の隙をついて、加藤は岡島のハッシュドポテトを少しずつちぎって盗み食いをしている。
 ハンバーガー屋で加藤は敬志のハッシュドポテトも食べていたのに。

「あっ、奈緒ちゃん! 食べないでよ!」
「いいでしょ、少しくらい」
「あの、加藤さん、良ければ俺のを――」
「いらない」
「奈緒ちゃーん、葉梨からもらってよー」
「うるさいな。殴るよ?」
「えー」

 加藤と葉梨の不仲はしばらく続くのか。
 まさか加藤が藤川充に連絡するとは思わなかった。加藤は疲れているはずなのに、きっと一人になるのは嫌だったのだろう。

「あのさ、プライベートの問題を仕事に持ち込むのはよろしくないよ。それだけは言っておくからね」

 右にいる加藤は不服そうだ。岡島のハッシュドポテトを大きくちぎって口に運んだ。
 葉梨はどうかと左に視線を動かすと下を向いていた。

「加藤、俺は言ったよな。葉梨を気が済むまでボッコボコにしろって。初回は見なかったことにするって」
「はい」
「葉梨、お前は加藤の気が済むまで殴られておけ」
「えっ……」
「加藤」
「はい」
「この件は期限を切る。今日中だ。わかったか? 命令だ」
「はい」
「それで手打ちにしろ」

 やっぱり葉梨は外しておいた方が良かったのかも知れない。そうすれば喧嘩などせず、ウッキウキな恋する奈緒ちゃんでいられただろう。

「あの、須藤さん」
「ん? なに?」
「ヒットマッスルを鍛えてからにしたいんですが」

 ――何言ってんだ、この女。

「ふふっ、背中、鍛えるの?」
「ええ、隣に住んでいる女性にですね……」

 加藤の言葉に、機嫌の悪い加藤の標的にならないように気配を断っていた敬志が反応した。俺の左隣にいる中山をじっと見ているが、目が動いている。

「キックボクシングや空手などの格闘技系のスタジオプログラムがあって、一緒に行きませんかって誘われたんですよ」
「えっと、それって対象(・・)じゃない方の隣の人?」
「そうですよ」

 ――優衣香ちゃん、だ……。

「仲良いの?」
「ええ。四月に越して来られた方なんですけど、マッチョしかいないジムで一緒になることも多くて。なかなか気合の入った女性ですよ」
「気合」
「気合」

 正面にいる敬志は、腕を後ろについて天井を眺めているが、焦点が定まっていない。
 敬志は優衣香ちゃんが格闘技をやることを猛反対している。だが優衣香ちゃんはやりたいのだろう。そうでなければあんなことは言わないし。

「昨日の昼にお会いしたら、マッチョしかいないジムにブーティービルダーが設置されたと教えてくれました」
「へえ、珍しいマシンだね。いいね、俺もやりたいな」

 敬志は目を閉じた。女性が体を鍛えるのは良いことだと思うが、強い優衣香ちゃんは嫌なのだろう。

「バトルロープやタイヤフリップマシンもやってて、気合入ってるなと……ふふっ」

 中山も葉梨も、加藤の隣人が敬志の恋人だと知っているから、思い思いの反応をしながら黙って加藤の話を聞いている。だが、いつまでも加藤に黙っておくことは出来ない。
 山野が加藤と優衣香ちゃんのマンションに訪れたのだ。加藤に秘密にしておくことは出来ない。

「敬志」
「……はい」
「言うしかないから、お前から言え」
「はい……」

 加藤は何の話なのかと、俺と敬志を交互に見ている。俺は加藤に顔を向けた。
 敬志は加藤の名を呼び、姿勢を正してから言った。

「えっと、あのね。その笹倉さんって、俺の彼女なんだよ」
「はあっ!?」
「ごめんね、黙ってて」

 バーガーとハッシュドポテトを食べ終わった岡島は紙を小さく折りながら全員の顔を見ているが、気づいたようだ。加藤も気づいて、口を開いた。

「もしかして、岡島以外、知ってたんですか?」
「はい。そうです」

 加藤は怒るだろう。また自分だけ知らなかったのだ。加藤の怒りはごもっともだから俺が代表して謝るかと加藤に体を向けたが、加藤は笑い始めた。

「もしかして玲緒奈さんと笹倉さんはお知り合いですか?」
「ああ、うん、そうだよ。二人は友達」
「んっふ……そうですか」

 敬志は玲緒奈さんの名が上がったことで動揺が隠しきれない。俺だって何となく嫌な予感がする。

「笹倉さん、いつかリンゴを握り潰したいって言いましてね……」
「リンゴ」
「私がびっくりしてたら、『ちゃんとお皿の上でやって食べますから!』って言ったんですけど……ふふっ、私、問題はそこじゃないって……ふふっ」

 敬志は唇を噛んでいる。
 リンゴと言えば、玲緒奈さんだ。

「笹倉さんは知り合いの女性にリンゴの握り潰し方のコツを習ったそうなんですけど、まだ出来ないと言ってまして」
「あー……」
「私、この世にリンゴを握り潰す女は玲緒奈さん以外にいないだろうって思っていたから……んっふ……ふふっ」

 敬志は座卓に肘をついて手のひらに顔を埋めた。
 可哀想な恋する敬ちゃんだが、この際だからバラしてしまおうか。嫌なことは同時に起きた方が良いだろうから。

「敬志、俺からも言うことがある」

 手のひらから顔を上げた敬志は目を見開いて俺を見た。不安そうな目に吹き出しそうになるが、言うしかない。

「優衣香ちゃんにお願いされてね、俺と敦志は逮捕術を教えたよ」

 みるみる生気が失われて行く敬志の姿に、俺は笑いを堪えるしかなかった。



 ― 第6章・了 ―



 ※ヒットマッスル……打撃に必要な筋肉(広背筋)
 ※ブーティービルダー……仰向けになり重りのついたベルトを腰の力だけで浮かせるマシン。大臀筋にピンポイントで効く
 ※バトルロープ……綱引き縄くらいの重いロープを両手に持ち、上下に動かして波打たせるトレーニング
 ※タイヤフリップマシン……幅50cm直径1.5mくらいの重いタイヤを起こすトレーニング

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