第6話 薔薇色の非常階段

文字数 3,372文字

 午後十一時五分

 会社のあるビルの付近まで来た時、玲緒奈さんは「やるわ」と言って、ビルの裏手に回った。

 俺はエントランスに入りエレベーターで二階に上がった。
 二階についてエレベーターの扉が開いた時、ちょうど中山が事務所から出て来た。トイレに行くところだった。
 俺はトイレに入る中山の気配を感じながら事務所のドアを開けると、敬志が衝立て越しに俺を見た。

「よっ、昭和のいい男」
「んふふっ……おかえりなさい」
「優衣香ちゃんから返事は来た?」
「来ましたよ。父にそっくりだって言われました」
「ああ、ふふっ……俺もそう思ったよ」

 普段の敬志ではおじさんに似ているとは思わないが、理容室で切った髪型だと敬志は父親似なのだと驚いた。目を伏せた横顔がそっくりだった。
 父親に似ていると自分でも気づいたのだろう。はにかむ敬志は、優衣香ちゃんから返事が来た事よりも自分の中に父親を見つけた事が嬉しいようだ。

 デスクに行きパソコンを立ち上げて、敬志が持ってきたカフェオレのグラスを手に取った時だった。
 事務所のドアが開き、玲緒奈さんが顔を出した。

「お疲れさまー」

 明朝に来るはずの玲緒奈さんが来た事に動揺する敬志だったが、すぐに玲緒奈さんへ小走りで近寄った。

 ――敬志は気づいたかな。

 玲緒奈さんの晴れやかな顔を見ればわかる。仕留めたのだろう。
 何を飲むか玲緒奈さんに訊ねる敬志は気づかない。「アイスティーを」と笑顔で義弟の敬志に伝える玲緒奈さんは俺の左前の席に来た。
 ハンドサインは『軽い、怪我』だった。

 ――少しは抵抗したのか。

 口元を緩めた俺は、アイスティーを玲緒奈さんの席に置きに来た敬志へ言った。

「敬志、陸を迎えに行ってやれ」

 その言葉に一瞬目が動いた。
 だが意味は分かったようだ。玲緒奈さんを見ようとしたがすぐに踵を返してドアに向かって走って行った。

 ドアを開けると中山の姿が見えたのだろう。
 敬志の腑抜けた声がした。

「ああっ! りっくん! あー! あっ……」

 おそらく、中山はトイレで襲われたのだろう。
 中山の声が聞こえないのは猿轡をかまされているからか。軽い怪我とはどれくらいなのだろうか。
 玲緒奈さんは俺を見て笑っている。

「陸は加藤を署内で襲ったんでしょ? だから仕返しだよ、ふふっ」

 可愛い舎弟の為に仕返しか。
 仕事が出来て美人で、トレーニングを重ねた体は中年太りとは無縁の見事なプロポーションだ。
 夫婦円満で子供たちは真っすぐに育っている。
 完璧なこの女性に弱点はあるのかと思っているが、弱点は敦志だ。
 敦志の為なら玲緒奈さんは何の躊躇いもなく命を差し出すだろう。

「中山の怪我ってどこに何をしたんですか?」
「グーパンして鼻血ブー」
「もー! 敦志にバラしますよ?」
「諒ちゃん、それだけはやめて」
「んふっ」
「ふふっ」

 俺は席を立ち、中山と敬志の様子を見にドアへ向かった。
 廊下に出ると、非常階段のドアに挟まれている中山の猿轡を敬志が外しているところだった。鼻血は出ていない。

 ――グーパンはしてないのか。

「陸、何された?」

 敬志は手を後ろで縛る紐を外そうと中山を跨いだが、その紐は足首も拘束していた。

 ――やり過ぎだよ、姐さん。

 そう思うが笑いがこみ上げる。中山ですらこれか、と。
 中山は苦悶の表情で俺を見上げている。

「多分、タマ蹴り上げられたんだと思いますよ」
「……だろうな」

 紐を外された中山は突っ伏して泣き始めた。
 その姿を俺も敬志も眺めているが、敬志はため息をついている。

「陸、ほら、おんぶしてあげるよ」
「ヒンッ」
「多分ね、『AVじゃねえんだからよ』が姐さんの怒りポイントだったんだと思うよ」
「ヒンッ」

 中山は泣きながら、玲緒奈さんが怖いと言い、俺の背中にしがみついた。
 俺も玲緒奈さんが怖い。怖いが、玲緒奈さんがどんな気持ちなのかわかる気がする。

 ――俺だって陸に何かあれば倍返しする。

「姐さんにちゃんとごめんなさいしろよ」
「ヒンッ」
「で、タマ以外にどこに何発やられた?」
「腹とヒンッ……顎ヒンッ」

 紐を手繰りながら、困ったような顔をした敬志と目が合って、お互いに口元を緩めた。

 ◇

 中山をおんぶして事務所に戻ると、玲緒奈さんは席から立ち上がり、ソファに向かう俺たちを横目に給湯室へ行った。
 中山をソファに降ろし、玲緒奈さんを追いかけると、玲緒奈さんは冷凍庫を覗き込んでいた。
 俺に気づいた玲緒奈さんは振り向き、そして悪戯っぽく笑った。

 ――ああ、やっぱり。

 玲緒奈さんの手には保冷剤があった。

「俺も連帯責任ですよね?」
「んふふっ……そうだね」
「今度は何でしょうか」
「うーん、じゃあ、ここで待ってて」

 そう言って玲緒奈さんは事務所に戻った。
 前回、中山が加藤に碌でもない事をしでかした時は、中山をボッコボコにした後に連帯責任で俺もやられた。

「おまたせー、んふふ……諒ちゃんおんぶしてよ」
「はあっ!?」
「おんぶして屋上まで連れて行ってよ」
「もしかして、階段で?」
「うん」

 ――マジかよ。八階建てなのに。

 ここでゴネても碌なことは起きない。
 俺は観念して非常階段へ行くと、玲緒奈さんは嬉しそうに微笑み、俺の背に身を預けた。

 背中に伝わる柔らかな感触を感じながら、俺は玲緒奈さんを背負って非常階段を登り始める。
 玲緒奈さんの体を支え、ゆっくり登っていると、玲緒奈さんが言った。

「もうちょっと早く」

 ――加藤より重いからちょっと辛いのに。

 その言葉通り、俺は玲緒奈さんを支える腕に力を入れると、玲緒奈さんは体を押し付けてきた。

「玲緒奈さん」
「なにー?」
「背中に人妻の胸が当たって、独身男には刺激が強過ぎるんですが」

 俺の言葉に玲緒奈さんは楽しげな声を出す。
 風が吹いて玲緒奈さんが纏う香水がふわりと舞った。

 ――敦志と同じ香水だ。

「ねえ、諒ちゃん」
「なんでしょうか」
「彼女ってさ、どんな人? 敦志は大人しそうな女性だったよって言ってたけど」
「ふふっ、諒輔のタイプじゃないとか、言ってました?」
「うん。ふふっ」

 俺は若い頃から派手でキツい顔の女が好きだった。
 奈緒美さんは真逆で、黒髪で目が大きくてタレ目の可愛らしい女性だ。

「彼女は大人しそうな見た目ですが、強いですよ」
「グーパンしてくるとか?」
「違います」
「んふっ」

 奈緒美さんは大学時代から付き合っていた同い年のご主人と二十七歳で結婚し、三十一歳の時にご主人が出張先で災害に巻き込まれ亡くなった。

「ご主人は一人息子で、自分が子を成さなかったからご主人が生きた証をご両親に残せなかったと悔やんでいます」
「ああ……」
「彼女は亡くなったご主人のご両親の面倒を見ると決めています」

 ご両親は若い彼女に新しい人生を歩むよう勧めたが、彼女は頑として引かなかった。
 これは私の責務です――。
 そうご両親に伝えたと俺に言った奈緒美さんの大きな瞳に宿る力強い意志に、俺は圧倒された。

「でも好意は伝えたんでしょ? 結婚は無理でも、付き合うのは良いんじゃないの?」
「……深い関係になって、また失うのが嫌だと」
「ああ……」
「でも最初のうちはご両親やご主人への思いがあるから体良く断られたのかなとは思ってたんですけど……多少は、俺に気持ちを向けてくれているようです」
「えっ、何よ、何があったの? 聞かせてよ、惚気話」
「えー」

 言ってしまっても良いか。俺だって誰かに話したい。
 そう思うと、自然と口元が緩む。
 俺はゆっくりと呼吸してから言った。

「俺の誕生日に、彼女がレース編みの小さな薔薇をくれたんです。五本でした」
「意味は?」
「オレンジの薔薇で、意味は『信頼』です」
「おおっ、いいね! 本数の意味は?」
「あなたに出会えて嬉しい、です」
「きゃー! あまーい!」
「痛っ、痛いっ、やめてっ!」

 はしゃぎながら頭突きをしてくる玲緒奈さんは、敦志が酔っぱらうと惚気話をして、俺がさんざん聞かされている事など知らないだろう。

 オレンジの薔薇は昨年の誕生日だった。
 今年の誕生日にも奈緒美さんはまた同じレース編みの薔薇をプレゼントしてくれたが、色と本数は昨年と違っていた。

 解釈は、諒輔さんにお任せします――。

 そう言って俺の目を真っ直ぐ見て微笑む奈緒美さんの記憶は、まだ心の中に秘めておきたい。


 ― 第2章・了 ―
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