第6話 調子の良い時ほど自重すべきだ。

文字数 1,196文字

 「調子の良い時ほど自重すべきだ」という持論がある。人間は調子の良い時程、自信過剰になり、欲望が大きくなって実力以上の行動するケースが多い。そして、実力以上に大きな事をした場面での失敗は取返しのつかないものになりかねない。いい気になって油断していると思わぬ者に足元をすくわれる事がある。調子の良い時こそ「いい気になるな!」と自重する事が必要だ。
 例えば、戦国時代の武将の今川義元は当時、駿河の領土を抑えさらに三河を支配した。そして、さらに織田家の領地である尾張まで2万5千の兵を率いて侵攻していた。その今川義元に立ち向かったのが織田信長だった。織田信長の手勢は僅か2千人程で敵の今川軍の兵力は10倍以上もあった。10倍の戦力を持って尾張に攻め込んだ今川義元には織田との戦に負けるはずがないと自信があったはずだ。それに対して、織田信長は少ない兵力で大きな兵力を持つ今川義元に勝つ為には正攻法では厳しいと考えた。そこでまずは織田方に味方する城の勢力に今川軍を攻めさせて今川の大軍の兵力を分散させて今川本体の兵力を少なくさせた。その上で織田信長は「桶狭間」という今川の大軍が戦うには不利な場所で今川本隊を急襲した。さらに今川義元本人がいる本陣に向かって織田の戦力を集中して攻め込んだ。その結果、戦力では圧倒的に有利だった今川義元は1560年に「桶狭間の戦い」で戦力で劣る織田信長に負けて殺された。
 今川義元は「海道一の弓取り」と言われて当時、絶頂期を迎えていた。駿河の国を支配してから甲斐の武田と同盟関係を築き、その後は何度も争っていた北条とも同盟を築いて「甲相駿」の三国同盟を築いた。だが、この三国同盟を築く事が出来たのは今川義元の側近で知力に優れて交渉力のある太原雪斎の活躍があったからだ。しかし、三国同盟を築く事が出来た今川義元は自信過剰になっていた。尾張に侵攻するさい「義元の矛先には魔物だろうと鬼だろうとかなうまい」と自ら語っていたという。だが、残念な事にこの時には義元の側近として支えていた太原雪斎は亡くなっていなかった。
 うまくいっているのを自分ひとりの実力だと勘違いして慢心すると失敗すると言う例である。今川にとって松平元康(後の徳川家康)を養子ににして三河を支配していく事は意味もあったが、さらに急いで織田家が支配していた尾張まで侵攻する必要はあったのだろうか?尾張を制した後で京に上って天下統一する野心が今川義元にあったのかは不明である。そして、優れた戦略家の太原雪斎を亡くした後では少し間をおいて足元を固める事の方が重要ではなかったろか?。
 戦国時代の武将の例えだけではなく、人間は調子の良い時こそ慎重になるべきである。調子が良い時はガンガン攻めるべきだと言う考えはもちろん大切だ。だがそこに「調子に乗らないで、油断しない」という相反する考えも入れながら行動する事が必要だ。
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