第7話 最初は失敗しても、結果は良くなる事もある。

文字数 2,937文字

 中学受験に失敗した私だったが高校受験では6校受験して3校に合格した。何故6校も受験したのかはっきりした理由は覚えていない。ただ中学3年の時の担任に滑り止めの学校を含めて多くの高校を受験するように勧められたのを覚えている。高校受験は中学受験で失敗した時のような悔しい思いはしたくなかったので、今度は自ら意志で行きたい高校を選んで、自分の学力に合った学校を受験した。
 結果は第一志望の高校には落ちたが第二志望の高校には合格した。第一志望の学校には落ちたがそれ程、悔しいと言う気はしなかった。何故なら私の高校を選んだ基準は自由な校風で大学の付属校と言う事だった。第一志望も第二志望の高校も2つの希望には沿う高校だった。そして、合格の基準となる偏差値もほぼ同じだった。その為合格、不合格は時の運と割り切る事ができた。唯一、違ったのが第一志望が男女共学で第二志望校が男子校という事だった。そして私は小学校、中学校も共学校だったので、男子校よりも共学の方がいいと思ったのが第一志望校を選んだ理由だ。とにかく、自由な校風で大学の付属校という希望する二つの条件をかなえた第二志望の高校に合格出来てうれしかった。合格した高校は誰もが第一志望にするような一流の高校という訳ではなかったが、私は自分の意志で望んだ高校に受かる事が出来て、中学受験で失敗した悔しさを晴らす事はできた。
 高校では思っていたように自由な校風の学校でのびのびと過ごす事が出来た。そして先生も公立の小学校と中学校の先生に比べて個性が強くてユニークな先生が多かった。例えば、ラグビー部の顧問をしてどっから見ても体育の先生にしか見えない外見の英語の先生がいた。その先生は大学を卒業してから有名企業に就職したが上司と合わなくて退社、それから教師になったという強者だつた。又、時折授業中にその学校の卒業生で有名人の話しをしてくれる先生もいて愛校心も高くなった。
 そして高校を卒業してからは大学も推薦で同じ学院の大学の経済学部へ進んだ。経済学部を選んだ大きな理由は特になかった。文学部でも法学部でも社会学部でもないだろうという消去法で経済学部が残っただけだった。私は特に優秀な生徒という訳ではなかったが学部を選べる成績だったので、学部を選べる成績の生徒のほとんどが経済学部を選ぶと言う理由で経済学部に進んだ。そして進学した大学の経済学部では当時はマルクス経済学が主流だった。その影響を受けたせいか友人と一緒に「資本論」のゼミを受けて合格した。「資本論」のゼミに所属したが思想的に「資本論」に共鳴している訳ではなくひとつの物の見方と割り切っていた。その為、4年になりゼミの最上級生になると教授に「資本論」だけでなく「日経新聞の経済記事の味方」も教材として採用して教えてもらった。ただマルクス経済学が中心の経済学部で学ぶのに「資本論」が「経済原論」や「景気論」の授業でも基礎になっており「資本論」を学んでおけば他の科目の授業も理解しやすいと思っていたのは事実である。
 そして4年生になってからは夏休み期間中から志望する会社のOBを訪問する就職活動を始めた。当時の大学生は就職活動の解禁日が10月1日と決められており、本格的な就職活動は解禁日以降であった。私が就職を希望したのは銀行だった。銀行を志望した理由は私の大学時代は1979年に第2次オイルショックがあった時に重なり不景気で安定志向が強かった。経済学部で経済を学んで大学の成績も学生から人気が高かった銀行も受かると言う成績を上げていたと思う。又、生まれ育った東京を離れて生活したくなかったので関東を拠点とする銀行を中心に就職活動をした。同じ銀行でも信託銀行まで選択を広げていればより合格する可能性は高まったかもしれないがそうはしなかった。しかし、冷静に論理的に考えれば実際に経済学部で学んだのはマルクス経済学部が中心なので銀行での仕事には繋がらないというのは直ぐにわかる事だった。全く論理的に考えてなかった結果は全ての銀行に落ちるという屈辱的な結果に終わった。落ちた理由のひとつに「資本論」という反資本主義を標榜する書物を研究するゼミに属していたからかもしれない。又、私が面接試験でうまく大学生時代に何をして何を学んだか、そして自分の誇れる長所は何かを説明するのが苦手だったのから落ちたのかもしれない。但しそれは面接で自分の長所を面接官に対して説明するのは抵抗があったからだ。そもそも自分で自分の長所を要領よく話せるほど自分は図々しい人間ではないと心の底で思っていたのは覚えている。
 高校は自分の意志で選んだが、その後の大学の学部、そしてゼミ、さらに就職で銀行を希望したのは、明確な理由があったわけではない。本当に自分がやりたい事は何なのか真剣には考えていなかった。ただ世間での風潮というか、まわりの流れに合わせて行動していただけだった。
 結局、就職活動は銀行を志望していたのに失敗して、1社も内定が出ないまま終盤になってしまった。その為、遅くまで就職試験をやっていた新聞社の専属広告代理店の入社試験を受けて合格して就職した。しかし、その会社には入社したものの毎年、退職する人も多くて将来に不安を感じて2年あまりで退職した。そして次に入社したのが現在の会社で毎日新聞を発行しているのだが親会社の関係で新聞社ではなくて出版社になっている会社に就職した。その結果は自分に合っている会社にめぐり合う事が出来て、定年延長が終了する65歳まで務める事が出来た。これが銀行に入行していたら定年迄、勤め上げる事が出来ただろうか?多分、途中で銀行の仕事についていけず途中で退職していたかもしれない。今になって思うに具体的に何をしたいかではなく、安定しているからという面接官には言えないような理由で銀行の就職試験、面談に挑んだが落ちたのは結果的には自分にとっては良かった事だったと思う。人を見るプロである銀行側の面接官は私を見て話しを聞いて銀行員には向いていないと判断したのかもしれない。
 実は大学生の時からも本当に自分が働きかったのは新聞社やマスコミ関係だった。ただ新聞社やマスコミは入社試験も遅く、なおかつ志望者が多いのに採用する人数は極端に少なくて非常に入社するのは難しいと最初からあきらめていた処があった。そして新聞社を希望していたが記者になりたいと言う訳ではなかった。ただ、自分のした仕事が多くの人に見られるという事には魅力を感じていた。だから最初に入社した新聞社の専属広告代理店で自分が苦労して営業して取ってきた広告が新聞に掲載されるというのはうれしい事だった。。
 とにかく、下手すると就職浪人をする可能性もあり、安全策として最初は銀行を希望していたのだが結果は逆になった。もちろん今まで40年間勤めた出版社も大新聞社と言うわけではない。そして、一流大学を卒業した学生が最初から志望するような会社でもない。だが、好きなマスコミである事には変わりがない。少し回り道をしたが本当は希望していたマスコミで編集者でもなく広告ビジネスの仕事だったが自分に合う仕事を出来たのは良かったのだと思う。
 
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