第13話 人との距離感が大切だ

文字数 1,689文字

 人は何故、人を好きになったり、嫌いになったにするのだろうか?小学生の頃の私は、同級生の友達は多かった方だと思う。そして、友達のなかで本当に親しくなった相手に対しては、親友と言う言葉を使ってより親しくなって近い関係で付き合っていた。
 だが、小学校から同じ中学に進学すると小学生の友人達とは全員クラスが別々になった事もあり全く付き合いがなくなってしまった。その理由のひとつには小学生時代の友人は、クラスが一緒になったのがきっかけで仲良くなり野球のチームを一緒に作って草野球をやっていた繋がりだった事がある。だから中学生になっても野球という共通の繋がりでもあれば、まだ交際も続いていたかもしれない。だが、進学した中学には野球部もなかったし、私の趣味も野球から音楽のロックへと関心が変わってしまった。又、私の通っていた小学校は地元の子供が少なくて、大半が隣接する学区や離れた学区からも電車に乗って通学してくる越境入学者が多かった。その為、同級生が近所に住んでいる事はなく、中学校が同じでもクラスが違うと会う機会は殆どなくなってしまった。
 そのような理由で小学校の友人との付き合いは小学校を卒業すると終わってしまった。だが、同じ中学に通っていたのだから、小学校時代の友人と本当に仲が良ければ交際は続いていたのだろうが、親友と呼んでいた友人ともそれ程仲が良いと言うわけではなかったのだと思う。このように私の場合の友人との繋がりや付き合いは何か共通の趣味でもあれば続いていたかもしれないが、それがなくなるとその時点で途切れてしまうものだった。
 そして高校の友人も大学に入学すると、大学からの新しい友人とばかり親しくなって高校時代の仲の良かった友人とは全く交際はなくなってしまった。私が通っていた高校は大学の付属校であり、その高校卒業生の大半はそのまま上の大学に進学する。その為、高校の友人とも長く付き合おうとすれば出来たはずである。
 どうも私は、小学生の時と違って自我が芽生えた中学生時代から複数の友人と付き合うのは好きではなく得意ではなくなったようだ。私には特別な魅力があるわけでもなく、例えばずば抜けて勉強が出来るとか、スポーツが優れているとか性格が良くて人に好かれるタイプでもなかった。だから相手も積極的に私と友人であり続けようとは思わなかったのかもしれない。
 要は子供だった頃から成長して物心がついてくると純粋な気持ちで人と付き合う事はなくなっていったのだ。自我に目覚めると個人としての自分があり、友人とも一定の距離を置いて付き合う必要性を感じるようになったのだと思う。
 この人との距離感というのは大切で、大学を卒業して会社に入社すると利害関係で動く事が多くなる。そうすると人との距離感はさらに重要になってくる。会社では相手が上司であれ同僚であれ、年下の部下であっても純粋に性格が良いからとか気が合うからという理由だけで親しくなると言う事はない。お互いに利害関係を前提とした間柄では役に立つかどうかという基準で付き合い方を決めるようになる。だから会社の上司と部下、同僚との間柄は非常に近くて良好であっても、ある事をきっかけにして利害関係がこじれると一瞬にして付き合い方の距離感は遠いものになる。
 だが、学生時代の友人とは利害関係によって結ばれているよりも、共通の趣味とか人間本来が持っている好きとか嫌いとかいう感情に基づいて結ばれている方が大きい。だから会社員になると大学を卒業して何年過ぎても大学時代の友人とは親しくて、お互いに信頼感のある距離の近さを感じる人が多いのだ。
 人はその時々によって付き合っている人が同じ相手でも距離感が一定であることはない。そして、出来れば人は年齢と経験を重ねるごとに学習して、人との付き合いを利害関係だけで判断するのは卒業したい。又、一時の感情で付き合いをやめてしまうのでなく、スマートに相手との距離感を調整して付き合いを続けられるようになりたい。さらに、その人が持っている正義感や人としてのやさしさを大事にして付き合いを深めていきたいものである。
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