第62話 常緑の貴婦人と枯れ野の老婦人

文字数 3,317文字

 マーサはブリーイッドのような綺麗な女性を今までに見たことがなかった。彼女の美はシルヴィアのそれとは違った。シルヴィアの美は、好奇心旺盛な少女が、周囲の環境との関わり合いの中で獲得したような、実に素朴的なものだった。彼女の魅力は、エルフ生来の美ももちろんあるだろうが、その主な要因は、彼女の純粋さと天真爛漫さにあった。

 これに対し、ブリーイッドの美は現実離れしていた。しすぎていた、といってもいい。彼女は完璧に均整の取れた身体を持っていた。華奢には見えるものの、肉付きはよく、形の良い胸とハリのある臀部を持っていた。森の暗がりの中にあっても、その黒曜石のような黒髪はきらきらと風に靡き、そのエメラルドのような瞳は緑色に輝いていた。さらに周囲を飛び交う色とりどりのウイルオウウイスプが、彼女を幻想的に照らしていた。彼女の顔に浮かぶ淑やかな微笑には、どこか暗い影があったが、それによって彼女の美が損なわれるようなことはなかった。それどころか、むしろより一層際立っていた。彼女はまるで炎が尽きる前に熾烈に燃えようとする一本の蝋燭のようだった。

 そんな彼女の美しさを前にして、マーサは急に泥にまみれた自分の姿が恥ずかしくなってしまった。ふと隣に目をやると、滅多に人前では自分の顔を晒したがらないヤマトが、マントのフードを下げ、緊張した面持ちで立っていた。心なしか頬を赤く染め、しきりに前髪を手で撫でつけている。あのロッコでさえ、自分の見栄えが気になるのか、無残にもちりちりになった髭を、丁寧に何度も何度も整えていた。(無論、それは何の意味も為さなかったが)

 マーサは慌てて彼らに見習った。急いで乱れた髪を直し、顔の汚れを擦り落とす。ギルドの仕事をしていると、自分が女性だという事をつい忘れてしまう。思い当たる限りの汚れを落とした後で、彼女はようやく幾分かマシになったような気がして、ほっと一息ついた。

 急に身繕いをしだした彼らを見て、シルヴィアが不愉快そうに口を尖らせた。「あなた達、魅惑の魔法にでもやられちゃったんじゃないの?」

 咎めるような彼女の口調に、ヤマトはバツが悪そうに下を向いた。「彼女達精霊は、より神々に近い存在。俺達の前には滅多に姿を現さないから」

 ブリーイッドはそんな彼女達のやり取りを楽しそうに眺めていた。“旧知の友が久しぶりに訪ねて来た”とでもいった穏やかな表情で。

 その優しい笑顔を見ているだけで、マーサは自分の気持ちが落ち着いていくのが分かった。体の中が不思議な暖かさで満たされていく。マーサはタウロス戦で疲弊した自分の心身が、元の健やかな状態に戻っていくのを感じた。心が安らぎ、体の痛みが引いていく。世界は怒りや悲しみだけではない、それ以上のものが存在するんだ。そう思わせてくれるような力が、彼女の笑みにはあった。

 ホワイトフクロウがレーシーの肩から彼女の膝の上に飛び移り、翼を畳んで、ゆくっりと目を閉じた。彼女はそのホワイトフクロウを愛おしそうに撫でながら、レーシーが傍へ来るのを待ってから、マーサ達に話しかけた。

「こんな形でお呼びだてしてしまって申し訳ありません。ですが、どうしても貴方方にご助力をお願いしたいのです」

「俺達と仲間を分断したのは、君か?」ヤマトが彼女に尋ねた。
「いいえ、それは私の姉、カリアッハの仕業です。あなた達の数が多すぎたため、一網打尽を狙うより各個撃破する方が得策だと考えたのでしょう。ですが彼女にとって唯一の誤算はあなた達が強すぎたこと。フフッ。彼女、今頃歯噛みしているでしょうね」ブリーイッドは笑みをこぼした。

 この穏やかな場所には全く似つかわしくない強風が、突然マーサ達の横を吹き抜けていった。ブリーイッドがその冷たさに当てられたかのように小さな咳を一つした。彼女の顔が苦しそうに歪む。しばらく経って落ち着いてから、彼女は話を続けた。「ですがこの森に巣食う闇の正体は彼女ではありません。彼女はそのうわべでしかない。本当の闇はこの森の奥深くに根づいているのです」

「一体この森で何が起きているの?」

 マーサがブリーイッドに尋ねると、彼女は言葉を選ぶようにして言った。

「それを把握するには、ある男女の悲しい物語を知る必要があります」

◇◇◇◇◇

 セシル達はやっとトリスティアが指示した老木の前へとやって来た。彼らのここまでの道のりは、相当な苦労を伴うものだった。小川の浅瀬を慎重に渡り、飛び散る水の冷たさに悲鳴を上げ、泥にまみれながらぬかるんだ道を這い進み、彼らの行く手を阻むかのように生えていた枯茨に足を取られながら、何とかやって来たのだ。セシルは最早、自分達が森のどこら辺にいるのかとんと見当がつかなかった。

 彼らは今、四方を枯れ木に囲まれた広大な沼沢地の上に立っていた。足元には薄い靄が絶えず流れており、空気もじめじめとして、不快極まりない。さらに彼らの一挙手一投足を見張っているかのような不気味な静けさが、彼らを脅すように取り囲んでいた。

 その異様な雰囲気の中で特に異彩を放っているものが、沼沢地の中央に聳え立つこの巨大な老木だった。その高さは周囲の木々の何倍もあり、他を圧倒するような力強さを見せながら、その太さは大人のトロールが二人並んでも余りある程であり、今にも四人を押し潰そうかという圧迫感を放っていた。テラノギア創世から生き続けているのではないかと思われるような、この老木の壮大な佇まいに、ドルイド僧であるセシルは感嘆の念を抱かずにはいられなかった。

 しかし、だからこそ彼はある種の空恐ろしさも感じた。生命の営みが全く感じられないこの森の中で、唯一息づいているものがこの老木であり、これこそがこの森の主なのだという絶対的な確信が、畏れのようなものと一緒に、足元からじわじわと這い上ってきた。

 “敬意を払え、さもなくば命の保証はない”
 天を覆う、枝の一本一本から、そのような警告が感じとれる。

 セシルは他の三人と顔を合わせると、意を決したように声を張り上げた。「枯れ野の老婦人、カリアッハ殿! 御姿を現せませ‼」

 彼のその言上に応えるかのように、老木の枝が風もないのにざわざわと揺れ始めた。そして漆黒が染み出してくるかのように、深く濃い闇が根元の樹洞からゆっくりと広がってきた。

 ヴェロスが不測の事態に備え、矢をつがえた。彼の顔に緊張の色が見てとれる。ブロンコが威嚇するような低い唸り声を発し、コールがすかさず彼の右手に怯えたようにしがみついた。

 やがて枝の騒めきが止まり、森に静けさが戻った頃、一人の老婆がそのうろから“ぬらり”と出て来た。よれよれの薄汚れた灰色のローブを羽織り、左手に持った杖にもたれるようにして歩いて来る。体は驚くほど細く、ローブの裾から覗く腕は、干乾びた流木のように節くれだっていた。腰の辺りまで真っ直ぐ垂れた毛先の細い真っ白な髪が、一歩踏み出すたび、生き物のように動いている。

 コールは背筋が寒くなるのを感じた。カリアッハは、見た目はどこの街中にもいる年老いた浮浪者と同じだった。若い時分に大失敗を起こし、その結果、住む場所を追われることになった者、またはその日一日を無気力に過ごし、うつろな目で他人から金をせびる者。それらとちっとも変わらない姿を彼女の中にも見てとることができた。

 にもかかわらず、コールは凍り付いたように動けなくなってしまった。彼の全神経が“逃げろ”と告げているが、彼女の氷のような視線がそれを阻んでいた。落ち窪んだ目からは異常なまでの狂気が感じられる。その目に射すくめられれば、大抵の者なら卒倒してしまうに違いない。コールはその目を見ているだけで、自分の首にナイフが当てられたかのような気分になってしまった。それと彼女のあの独特の歩き方。音もなく忍び寄るその姿は、正に獲物を狙う蛇のようだった。背後を見せた瞬間、彼女は迷いもなく彼らに飛びついてくるだろう。

 カリアッハは四人の数歩手前まで来て立ち止まると、忌々しげに四人の顔を見回した。そしてぞっとするほど薄気味悪いしわがれ声で呟いた。

「よく、ここまで来たね。大したもんだ」

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