第65話 カリアッハ戦

文字数 3,116文字

 セシルの首飾りは特注品だった。その首飾りには、“最も勇敢なる者”と称されたユギナスの――その昔、幾度となく繰り返されたオークとの大戦で、心臓を貫かれてもなお戦い続けたといわれる緑獣の――霊力が込められていた。

 その霊力を借り、体長三メートルほどの巨大な熊へと姿を変えたセシルは、全身から猛々しいほどの闘気を迸らせながら、地を揺るがすほどの大声を放った。

ゴォォーール

 コールは身を翻し、ひらりとセシルの背中に飛び乗った。
 彼の小さな足が背中に触れるや否や、セシルは静かに飛んだ。重たい巨躯を空中に投げ出し、レッドキャップ達との距離を一気に詰めていく。

 弾丸のような速さで宙を飛びながら、セシルは攻撃の準備をした。左前脚を振りかざし、前方のレッドキャップへ狙いをつける。そして、その目前まで迫ると、仁王立ちとなり、疾風の如き素早さでそれを振り下ろした。

 全ては、一瞬で終わった。コールはセシルが放った一撃を目で追う事も出来なかった。
 “ビュン”という風を切り裂く音とともに鋭い閃光が走り、気がつくと、邪霊の首から上は跡形もなく吹き飛んでいた。主を失った胴体は力なく横に揺れ、どさりと地面に倒れた後、ゴボゴボという音を出しながら、下の大地へ溶けるように消えていった。そうして、鼻をツンとつくような血生臭さだけが最後に残った。

 セシルは勝利の余韻に浸ることもなく、すぐさま威嚇の咆哮を上げた。彼から背を向けて逃げ出す者がいれば、良い標的とばかりに、また仕留めてやろうと考えたのだ。
 ところが、残りの七体は怯むどころか歓喜の雄叫びを上げた。自分達の仲間が死の際に残した血の臭気に恍惚の表情を浮かべ、その興奮冷めやらぬまま、セシルに向かって一斉に飛び掛かってきた。

 コールはセシルの肩の上で器用にバランスをとりながら立つと、手提げ鞄から小瓶を取り出し、片手で栓を外して、中に入っていた聖水を右へ左へと振りまいた。

 清らかな雨が辺り一面に降り注いだ。
 暗がりの中、光の雫が舞い踊り、レッドキャップの不浄なる体を焼いていく。

 だが……。
 レッドキャップはそれを物ともしなかった。彼らは全くの恐れ知らずだった。
 自分達の体が聖水によって焼かれる音を耳にしながら、彼らはその火傷痕から出て来る自らの血の匂いに、一層酔いしれていった。聖水に体を焼かれる痛みも忘れて、彼らはどんどん凶暴になっていった。

 セシルの攻撃をかいくぐり、七体の邪霊は彼を四方から執拗に攻め立てていった。ユギナスに身を変えたセシルの皮膚は分厚く、レッドキャップ達がセシルに致命傷を負わせるようなことはなかったが、それでも彼らの爪はセシルのものと比べても遜色がなく鋭く、その切れ味は抜群で、彼らから攻撃を受けるたび、セシルの全身は血で朱く染まっていった。

 怒号。悲鳴。絶叫。そして狂熱。
 咽返るような血の匂いとセシルの体から飛び散る血飛沫に、コールは思わず鼻を覆わねばならなかった。

 ヴェロスはそれを歯痒い思いで見ていた。セシル達の援けに入れない、自分の不甲斐なさを情けなく思った。彼もただ手をこまねいて見ていた訳ではない。弓に矢をつがえ、彼らのために常に援護射撃の機会を窺ってはいた。

 だが、それを実行に移すことが出来なかった。目の前にいるカリアッハがそれを許さなかったからだ。

 ヴェロスがセシル達の方へ弓を向けるたび、カリアッハは冷気を吐いてその動きを封じた。彼が少しでも油断した様子を見せると、彼女はその瞳から凍えるような視線を送り、彼の戦意を挫こうとした。彼が何とか精神を保ち、自らを奮い立たせ矢を放とうとすると、彼女は杖を掲げ旋風を巻き起こし、それを妨害するのだった。

 加えて、ヴェロスの敵は彼女だけではなかった。ヴェロスのような機動力を得意とする者にとって、この地もまた厄介な相手だった。下が沼沢地であるが故に、ぬかるみが多く、移動もままならない。老木が立つ中央より他は、泥炭と湿地で覆われており、彼は足をつける場所にも相当気を配らねばならなかった。
 今や、ヴェロスの上半身は霜で覆われ、下半身は泥塗れになっていた。

『とにかく、カリアッハの注意だけでも自分に向けなくてはならない』

 ヴェロスは素早く状況を確認した。
 ブロンコはタウロス相手に善戦していた。彼の繰り出す拳が、タウロスの鎧を砕いているのが見える。

 トロールの武器は言うまでもなく、その類まれなる強靭な肉体と、絶大な威力を誇る拳だった。大抵の場合、彼らの攻撃速度は遅く、相手に躱されてしまう事が多い。そのため、彼らは一撃必殺を信条としていた。相手の攻撃をその大きな体で受け止めながら、生来備わっている自然治癒能力で回復を行い、隙を見て、一撃を放つ。当たりさえすれば、彼らの拳は鋼の如き強さでどんな相手をも打ち砕いた。

 その強烈な一撃をタウロスは何発も受けていた。
 マーサ達から相当こっ酷くやられたのだろう。彼の動きは明らかに鈍かった。さらに、彼にとって不幸だったのは、ヴェロスに不利に働いていたこの地形が、彼にとっても都合が悪かったという事だった。彼の愛馬ゲイルは、ブロンコから距離をとろうにも、下のぬかるみに足をとられ、立ち往生することが多々あった。そこをブロンコに狙われ、彼は余計窮地に陥っていた。
 彼らの戦いは最早、技と技というよりかは、力と力のぶつかり合いの様相を呈していた。ブロンコが拳を繰り出すなら、タウロスもまた破れかぶれに武器を振り回していた。

 ヴェロスはひとまず安心した。力だけなら、ブロンコにも勝機はある。
 問題はセシル達の方だが、ブロンコがタウロスを早々に破ってくれれば、彼がセシル達に加わってくれるに違いない。

 それまでは……。
 ヴェロスは決心した。カリアッハは自分が引き受けねばならない。

 彼の決意を鼻で笑うように、カリアッハは取り澄ました笑みを浮かべた。「甘いね。お前達」

「死を司る精霊を前に、お前ら、本当に立ち向かえるとでも思ってんのかい。お前らを見ていると虫唾が走るよ。お前らはどんどん傲慢になっていく。死は克服できるものだなんて考えているんだから」

 カリアッハはそう言いながら、右手で地面から何かを掬い上げるような仕草をした。地中の水分が吸い上げられ、彼女の五本の指の先端で、弾丸のような形をとり始めた。やがて、その五つの弾丸は見る見るうちに氷結していき、先の鋭い氷の刃へと姿を変えた。

 彼女はその一つに息を吹きかけた。すると次の瞬間、それは目にも留まらない速さで、ヴェロス目掛けて飛んできた。

 ヴェロスはすかさず横に転がった。その横すれすれを氷の刃が飛んでいく。

 カリアッハは立て続けに、次々と残りの四本を飛ばしてきた。
 ヴェロスは精神を集中し、自らの五感を最大限に研ぎ澄ませ、曲芸師のような機敏さで、その一つ一つを躱していった。決して目で追うようなことはせず、空気の流れを読み、感覚のみで動く。彼はこの時、自分が自然界と同化しているような気持ちになった。

 最後の一つがヴェロスの左頬を掠め、後方に溶けるように消えていくと、彼の緊張の糸が緩んだ。突然、自我が目を覚ました。そのせいで、彼の中に一瞬の隙が生じた。意識的なものではない。事実、それはあまりにも小さなものだったので、彼自身、気にも留めていなかった。

 気づいた時にはもう遅かった。
 彼は自分の背中を焼く灼熱の炎を感じた。
 かろうじて振り向いた闇の先、赤く妖しく光る二つの瞳があった。

『バーゲストか』

 薄れゆく意識の中で、ヴェロスはカリアッハの声を聞いた。「全ては幻。この世界に永遠なんてものはないのさ」

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