第19話 揺れる想い

文字数 2,882文字

 目を覚ます。置き時計を見ると8時半を回っていた。慌ててベッドから下りて、顔を洗う。10月3日、月曜日。二ヶ月に及ぶ長かった夏休みも終わり、いよいよ後期の授業が始まる。
 部屋を出て、鍵を掛ける。カツカツと階段を下りて道に出ると、アスファルトにへばりついたガムを、大家がへらのような物で取っていた。今月分の家賃は……まだ払っていない。軽く頭を下げ、気づかれる前にキャンパスへ急いだ。

 正門の前には一年生と二年生が入り乱れた長い行列ができていた。授業開始直後はいつもこうなるので、どうせ最初の週だけと思いながら最後尾に行く。
 由香里の番になり、ATMの挿入口に学生証を入れた。単位の数が『142』と表示される。前期で単位を取得できた授業は14コマ。すでに大学のウェブサイトにログインして確認していたので、間違っていなかったことにとりあえずホッとする。10単位コイン14枚と1単位コイン2枚を巾着袋に入れ、銀色のバーを回しながら正門を抜けた。
 久しぶりのキャンパスだったが、新鮮さはなかった。他の学生に交じって掲示板の前に立つと、貼られたままの投票結果が目に入り、前期に何があったのか思い出す。
『代表者条例案(二年生)』
『代表者法案』
『進級券所持禁止条例案(二年生)』
『進級券所持法案』
 投票を行ったのは四つだった。そのうち『代表者条例案(二年生)』は削除され、『進級券所持法案』は否決されたので、現在も有効なのは『代表者法案』と『進級券所持禁止条例案(二年生)』の二つだった。
 視線が『代表者氏名記入欄』に書かれた『成瀬優理』に行く。キャンパスを支配する同じ国際コースの男子。掲示板を離れ、二号館の二階の小講義室に入った由香里は彼の姿を探した。すぐに見つけるが、声をかけて挨拶するわけでもなく、遠目で見ながら空いている席に腰を下ろす。いつも通りという妙な安心感を得るだけで、進展はなかった。

 二限目が終わり、大移動が始まる。出遅れた者は、食堂で食べ終わりそうな者の近くに立って待つか、正門のATMでコインを預けて外でランチをするか、一号館の売店に行くか選択しなければならなかった。
 由香里の選択は最初から決まっていた。一号館の売店に行って、甘い菓子パンを買って、講義室に戻って食べた。入学してから一度も食堂で食べたことはない。全てが見飽きた光景だったが、あと半年で終わると思うと寂しさも感じた。
「このままでいいの?」
 自問自答して急に不安になる。結局、二年生の夏休みも海や花火などの予定が入ることはなく、居酒屋でのアルバイトに明け暮れてしまった。にもかかわらず、お金がない。小遣い帳を付けるなどして、きっちり計算していないので、原因が分からなかった。
 進級できる保証もない。必要な単位は195と聞いていたが、53も足りていない。来年はどこへ行くのかも分からない。部屋の中を見回すが、成瀬の姿はない。最近しゃべった記憶を辿ると、前期の始め頃まで巻き戻る。由香里はストローから口を離し、ため息をついた。一寸先は闇だった。

 五限目が終わり、すぐにアルバイト先に行った由香里は、久しぶりの講義でクタクタだったので、早めに上がらせてほしいと店長に頼んだ。月曜日は客入りが悪く、最近は社員並みに働いているので、すんなり認めてもらえた。四時間だけ働き、店を出て駅に足を向けると、目の前に男子が現れた。
「ゆーちゃん、お疲れ」
「あっ、お疲れ様です」
 アルバイト先の先輩、峰岸優星(みねぎしゆうせい)だった。
「良かったら何か食べに行かない?」
「行きたいんですけど、お金が……」
「いいよ、俺がおごるから」
「すみません」
 頭を下げ、峰岸についていく。二人は近くのスペインバルに入った。
「今日って入ってました?」
「いや、元々は入ってなかったんだけど、座敷に宴会の予約が入ったから、その時間だけキッチンで入ることになったんだ」
「そうなんですね」
「ゆーちゃんは最近けっこう入ってるよね」
「……お金がないんです」
「本当にないんだ」
「おごってもらうためにウソついたと思ったんですか?」
「いや、そうじゃないけど、とにかく別のウソじゃなくて良かった」
「?」
 店員が来て、二人はメニューに目を向けた。注文を済ませ、話を再開する。
「夏休みもバイトばっかだった? どっか遊びに行った?」
「遊びには行ってないです。実家に帰ったくらいで……」
「彼氏いないの?」
「いないです。ていうか、大学に友達がいないんです」
「大学って、単位がコインになってるっていう、あの変な……」
「そうです。リンギス大学ってとこなんですけど」
「友達できないの?」
「一年生の時は他の誰かからコインを手に入れないといけなくて、それで人間関係がギスギスしたっていうか……」
 店員が生ビール、サングリア、イワシのオリーブ漬けを持ってくる。由香里はすぐさまイワシをフォークで刺して口に運んだ。
「峰岸さんって、どこの学部でした?」
「医学部だけど、それがどうかした?」
「なんか、すごいっていう噂があって……」
「そうなんだ」
 峰岸は都内にある有名私立大学の医学部に通っていた。
「お医者さんですか?」
「両親が医者で、父が外科医で母が看護師で、職場で出会ったってやつ」
「一人暮らしですか? 実家はどこですか?」
「実家は東京なんだけど、一人暮らししてる」
「仕送りもらってるんですか?」
「もらってる。だから、バイトしなくてもいけるんだけど、社会経験っていうか、いろんな人とも会えるし……ていうか、急にいろいろ聞いてくるね」
「すみません、つい……失礼なこと、聞いちゃったかも」
「大丈夫。興味持ってくれたんだね」
 由香里はサングリアを勢いよく飲んだ。
「なんか、うらやましくて。ワタシ、お金に恵まれないんです。親はシングルマザーで仕送りなんてないし、給料も前借りしちゃって……」
「あの店、給料の前借りってできないはずだけど」
「すみません、直接じゃなくて、ファクト何とかってのを使ったんです」
「給料ファクタリングってやつ?」
「そう、それです」
 峰岸の表情が曇る。
「あれって、利子の上限を超えると違法なんだけど、大丈夫?」
「上限ってどれくらいですか?」
「確か10万円未満だと20パーセントで、100万円未満だと18パーセントだったかな」
「……犯罪ってことですか?」
「そうだよ」
 手数料を取られた覚えはあったが、利子を取られた覚えはなく計算できなかった。
「失礼だけど、大学の学費って奨学金とか?」
「そうです。親が払えないんで」
「奨学金は借金っていう自覚ある? 卒業して就職したら、ちゃんと返せる?」
 リンギス大学の学費は入学金が100万円、授業料が年150万円、設備費が年50万円で、さらに奨学金の利子が10パーセントなので、二年分で由香里の借金はすでに550万円になっていた。
「卒業したら就職できるはずなんですけど、ただ……進級できないかも」
「辞めた方がいいんじゃない?」
「……」
「普通の大学に行った方が楽しく過ごせて、就職もそれなりにあると思うよ」
 由香里は苦笑いをして、サングリアを飲み干した。
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