第10話 裏切り

文字数 2,532文字

 6月6日、月曜日。掲示板の前に学生たちが集まっている。一年生も二年生も浮かない表情で、明らかに不穏な空気が漂っていた。そこへATMで手続きを終えた成瀬がやって来る。その姿に気づいた二年生は、横によけて道を作った。
『進級券所持法案が審査を通りました。この法案の内容は6月16日に、進級券を所持していない者を退学処分にするというものです。投票日は6月13日、一号館(旧本館)四階の投票所で行います』
「成瀬」
 法案の内容に目を通していると、後ろから名前を呼ばれた。市川だった。
「妙な法案が出てるな」
「ああ」
 軽くうなずく。市川はズレていたメガネを直した。
「誰が出したんだろな」
「一年に違いないと思うが……ただ、これは法案だ。オレたち三人が賛成しなければ成立することはない」
「三人って、あとは狩野か?」
「もちろんだ。倉田はやる気が感じられな……ちょっと待て、倉田の経営コースって何人だ?」
「分からないが、俺の法曹コースは42人だ。投票の時に数えたからな」
「国際コースは39人」
 言いながらスマホを手に取り、狩野に『企業コースは何人?』とメッセージを送る。すぐに受信した音が聞こえ、市川が「何人?」と尋ねた。
「41人……てことは経営は44人だから、一年の200人と足したら、ちょうど3分の2になりやがる!」
 二号館に向かって成瀬が駆け出し、市川も後を追った。二階に上がり、経営コースの授業が行われている小講義室のドアを開ける。教壇で配布するプリントを用意していた教官も顔を上げ、突然入ってきた成瀬に視線が集まった。すぐに坊主頭を見つけ、詰め寄る。
「倉田、話がある」
「今?」
「今だ」
 成瀬の剣幕に押され、渋々倉田は立ち上がった。

 円い池を囲むブロックに成瀬が腰を下ろす。市川と倉田は立ったまま、成瀬を見下ろす形になった。
「一年の代表に何か言われなかったか?」
 睨むように倉田を見て、成瀬が切り出す。
「……言われた」
「何て?」
「賛成に入れるよう言われた」
「条件は?」
「条件って?」
「何もなしに入れろって言うなら、それは命令だ。さすがにそんなことはない。何か見返りがあるはずだ」
「……」
「進級券か?」
「……」
「当然だが、賛成に入れるなよ。大混乱になるからな」
「……謝って」
「何?」
「俺に謝って」
「はあ? なんで謝らないといけないんだ」
「謝る気がないんだったら、俺は戻るから」
「だから謝る理由を言えって」
 倉田が大きく息を吐く。
「うんざりなんだよ。無理やり代表にさせられて、遅れてきたら怖い顔で怒られるし。さっきも授業始まってんのに堂々と入ってきて、ちょっとは配慮ってものがあってもいいだろ」
「……オレは間違ったことはしてない。誰かが代表をやらないといけない。もし、お前と違う奴が代表になってたら、オレを止めたか? いいや、止めることはできない」
「何様のつもりなんだよ!」
 倉田は背を向け、二号館へ姿を消した。
「成瀬、経営コースの代表はどうやって決めた?」
「手を上げるゲームだ。あいつが負けた。それだけのことだ」
「先に決めてから、代表制にする条例を作るべきだったんじゃないか」
「今さらだ。あいつは進級券をもらう約束をしている。オレの質問に肯定しなかったが、否定もしなかった。それにオレたちを裏切る口実のために、オレを悪者にしようとしてる。オレが謝らないことも、ちゃんと分かってやがる」
「……どうするんだ?」
「キャンパスを支配しているのはオレだ」
「……」
 市川の口から言葉が出なくなる。成瀬は腰を上げ、一号館へ姿を消した。

「教授」
 甘えた声で呼びかけ、椅子に座る滝山教授に顔を近づける。
「近くで見ると素敵ですね」
「……それは、どうも」
 女子は滝山教授の首に両腕を回し、体を密着させた。
「キスしませんか?」
「ダメです」
 滝山教授は体を傾けて距離を取ろうとするが、彼女は手を離さない。突然、ドアが開く。同時に二人が振り向くと、ゆっくり彼女の手が離れた。
「なんで、あんな法案を通した?」
「……通せない理由がありませんでしたので」
「所持してるかどうかなんて、どうやってチェックする気だ?」
「……それは言えませんが、代表者による投票も同じですよ」
 あるかないか分からない防犯カメラのように、チェックしていないと言わなければ、学内法と条例も機能するということだった。
「なるほど……で、法案が成立したら『進級券所持禁止条例(二年生)』の方は削除されるんだよな?」
「はい、削除されます」
「今年度、大学辞めた奴っている?」
「今のところ、いないです」
「分かった。サンキュ」
 成瀬が背を向け、部屋を出ていく。ドアが閉まり、滝山教授の視線を感じた女子は、返事をするように笑みを見せた。
「教授、鍵掛けて続きをしましょうか」
「……もう無理でしょう」
 滝山教授は彼女に部屋を出るよう促した。

「来週の講義の前日までにレポートを私のメールアドレスまで送ってください」
 教官が話している間にも、経営コースの二年生たちは、筆記用具とノートを片付け、次々に立ち上がって部屋を出ていく。食堂は早い者勝ちだ。前の方に座ってしまった倉田は食堂をあきらめ、売店か外に出るか悩んでいた。
「倉田くん」
 女子の声がした。振り返ると、コース内で一番カワイイと思っていた子だった。雷が落ちたように体に緊張が走り、心拍数が上がる。
「は、はい、何でしょう」
「今度の投票って、反対よね?」
「……」
「その場合は投票に行かないのよね? ちょっと用事があって大学に来ないかもしれないから」
「……賛成」
「えっ?」
「賛成に入れるかもしれない……」
 倉田の言葉に彼女の表情が怖くなる。
「なんで、賛成に入れるの? もし法案が成立したら、また早い者勝ちになって、あの機械の前に並ぶことになるのよ。ていうか、代表者の会議ってどうなったの? あそこでうまくまとめてるんじゃなかったの?」
「……いろいろあって。成瀬に確認してみる」
「……」
 何も言わずに彼女が離れていく。田村弟からの進級券は代表者になった見返り、そんな風に倉田は捉えていた。だが、現実問題として賛成に入れるなら、経営コースの自分以外43人を納得させなければならない。ここでの人間関係はしばらく続くのだ。
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