第18話 滝山教授の計画

文字数 2,868文字

 巨大なビルが建ち並ぶ街に太陽の光が注ぎ込む。天気予報は外れ、梅雨前線はさほど北上しなかった。
 待ち合わせ場所は池袋駅東口。改札を出た人が目の前を通りすぎていく。遅刻は絶対にいけないと約束の20分前に着いた。時間と共に心拍数が上がる。
 一人の女子が足を止めた。スラリと伸びる白い手足にVネックのカットソー。体の向きが変わると胸の膨らみが際立つ。そのスタイルは昨夜の妄想を超えていた。
 一瞬目が合う。ジロジロ見てはいけないと、視線をスマホに向けた。10時55分。約束の時間まで5分ある。どんな子が来るのか再び妄想を始めた時だった。近くに人の気配がして顔を上げると、さっきの女子が目の前にいた。
「鈴木さんですか?」
「……」
 声が出ず、首を縦に振った。
「田中です。今日はよろしくお願いします」
 モデルのような笑みを見せられ、鈴木はまた大きく首を縦に振るしかなかった。

 ビルを出てサンシャイン広場に進む。鈴木の思考はほとんど停止し、足は惰性で動いていた。さっき目にしたペンギンやカワウソは頭に入っていない。
「あのさ」
 田中の声に鈴木の体がビクッとなり、足が止まる。
「一言もしゃべってないんだけど」
「……」
「日本語しゃべれるわよね?」
「……も、もちろん。日本人です」
 ようやく口から言葉が出たが、鈴木は自分の声とは思えなかった。
「どこに向かってんの?」
「……」
「どこにって聞いてんだけど」
「あ、ご、ご飯食べに……」
「帰る」
「ちょ、ちょっと待って」
「何?」
「田中さんは、さ、最後のピースなんだ」
「どういうこと?」
「俺の親友に愛媛出身の佐藤がいて、この前、高知出身の高橋と出会ったんだ」
「それが、どうしたの?」
「えっと、だから、俺は徳島出身で、田中さんは香川出身ですよね?」
「そうだけど」
「つまり、この四人で四国がそろい、かつ日本で多い名字ランキング上位四つがそろうんだ」
「どうでもいいし! 引き止めるんだったら、もっとマシな話してよ」
 田中は背を向けると、早足でこの場を去った。
「……田中さーん!!」
 彼女の姿が見えなくなり、鈴木が叫ぶ。ジ・エンドが確定したところで、しっかりと声が出た。肩から力が抜け、崩れ落ちそうになる。
「終わった」
 しばらく目に見えている物は、広場のコンクリートだけだった。近くに人の気配がして顔を上げる。見知らぬ男子が顔をのぞき込んでいた。
「な、何?」
「呼びました?」
「呼んでない、呼んでない」
 返答に連動して首が横に動く。
「僕、田中っていうんですけど」
「違う、お前のことじゃない」
「あの、リンギス大学の学生ですよね?」
「知ってんのか?」
「キャンパスでお見かけしたことがありましたので、てっきり、そちらが僕のことを知ってて呼んだのかと」
「だから、違う」
 鈴木は顔を背けた。
「先輩、良かったら大学のこと、いろいろ教えてください。分からないことだらけで不安なんですよ」
「……いいけど」
 世間は狭かった。先輩面をした鈴木は、田中をランチに連れていくことにした。 

 滝山教授は大型バイクに乗って、青山にある会社に向かっていた。その会社とは彼を雇用しているリンギスジャパン本社だ。キャンパスでは教授という立派な肩書が付いていたが、ふたを開ければ大学事業部の一社員に過ぎない。
 滝山俊貴は高校卒業と同時に上京し、シンガー・ソング・ライターとして活動を始めた。ライブを行えばチケットは完売し、動画配信でも再生回数が億に達する曲もあり、順風満帆だった。しかし、三十歳を過ぎて、自分の人生がこのままでいいのか考えるようになった。単純に別のことがしたくなった。
 後悔していることが一つだけあった。それは大学に行かなかったことだ。高校時代は音楽に夢中で、勉強など眼中になく、進学は選択肢にさえ上がらなかった。帰省して同級生からキャンパスライフの話を聞くと、隣の芝は青いと片付けられるものではなくなった。
 音楽関係者との飲み会で、その後悔を漏らしたことがあった。音楽で失敗や挫折の経験はなく、若くして何もかも手に入れた苦労知らずのレッテルを貼られそうだったので、反論するようにしゃべってしまった。それが数年経ってから、こういう形で話を持ちかけられるとは思いもしなかった。
 ただ、世間一般の教授とは違った。専門家として学生に教えるわけではないので、立場としては副学長の方が当てはまった。違和感はあったが、音楽一筋の彼にとっては全てが新鮮だった。単位がコインになっていることも、面白そうくらいにしか感じていなかった。想像力が欠如していた。
 大学がスタートすると学生の間でギャンブルが始まり、時間と共にコインを騙し取られたという相談が増えていった。解決を本社に仰いだが、そのために学内法があるとして対応しなかった。その学内法も学長と教授がサインして承認すれば審査を通るというのは建前で、法案は本社に送られて上司が判断していた。結局、滝山教授は中間管理職の客寄せパンダに過ぎなかった。

 エレベーターに乗って13階に行く。ドアを開けると、デスクでパソコンを操作していた社員のうち数人が顔を向けた。その様子に気づき、カジュアルなスーツに身を包んだ青い目の男性が近寄ってくる。グリーンヒル本部長だ。手には書類と鍵がある。
「おはようございます」
「おはよう。では、行こうか」
 廊下に戻り、歩き出す。足を止め、鍵を差し込んで回し、ノブを掴んでドアを開けた。壁のスイッチを押し、電気が点く。50人入ることのできる小講義室と同じくらいの広さの部屋に、横長の机とキャスター付きの椅子が整然と並んでいた。
「ここしか空いてなくて。広くて落ち着かないかもしれないが」
「大丈夫です」
「その辺に座ってくれ」
 滝山教授が椅子を引いて座る。向かい合うように、グリーンヒルも腰を下ろした。
「まず、アメリカの大学に一名、編入させたいと考えている。最も優秀な学生を選びたいのだが、君の意見を聞きたい」
「成瀬優理です」
「理由は?」
「試験の点数もですが、人並み外れた行動力があります。リーダーシップは評価に値するかと」
 グリーンヒルの表情に驚きはなく、うなずいた。
「一年次のデータでも突出していたから、彼に決まるだろう。あとは本人の意思次第だな」
「その説明は私の方からするのでしょうか?」
「その前に次の話に移らせてもらう。二年次の単位のシステムについて、交換レートの数式の分母は100だったはずだが、これは誰かが変えたのか?」
「……私が変えました」
「理由は?」
 滝山教授は視線を落とした。
「……これ以上、問題が起きてほしくなかったからです」
「これは日本で言う忖度というものか?」
「いえ、忖度とは違うかと思います」
「リチャードはこういう勝手なマネを嫌う。いずれにせよ、理解は難しいだろう。君は非常に高い確率で異動になる。正式には10月からだが、今後は主にマーケティングに当たってもらうことになるだろう。そのつもりでいてくれ」
「……分かりました」
 キャンパスに居場所がなくなることを、滝山教授は悟った。
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