第29話 急展開

文字数 3,315文字

「へっ?」
 由香里は言われた意味を一瞬理解できなかった。
「その中にプリンは二つある。一つは交換機を壊させたお詫びだ」
 そう言われ、手に持っている白い箱に目を向ける。前期の授業開始日に、交換機のコイン投入口にガムを詰めたのは由香里だった。成瀬は自分でやると確実に疑われると考え、田村弟と神経衰弱の勝負をした後、由香里に頼んだ。
「……もう一つは?」
「オレがお前のことを好きだっていう気持ちだ」
 成瀬から視線を外す。バクバクと心臓の鼓動が早くなっていた。
「オレがお前を卒業させてやる」
「ほ、本気じゃないよね? コイン売られたくないから言ってるんだよね?」
「関係ない。大学を辞めてほしくない。お前があの講義室からいなくなるのは嫌だ」
「……いつから? いつから私のこと」
「入学式の時からだ」
「えっ、そんなになの。もうすぐ二年経つのよ」
「仕方ないだろ。一年の時はそういう空気でもなかったし」
「そうだけど、それでも長すぎ……」
「二年になって、言おうと思った。でも、お前に『あっち行って』って言われて、一度あきらめた」
「そんなこと言ってないわよ」
「言った」
「いつ? どこで? 何時何分何秒?」
「5月9日、二号館の二階の小講義室、12時34分、秒まではさすがに分からない」
「そんなこと言ったかな……」
「お前の親をバカって言って悪かった。交換機を壊させたのも悪かった。自分の好きな人にそんなことさせて後悔してる」
 由香里は下を向き、しばらく何も言わなかった。
「……ごめん。返事だけど、ちょっと考えさせて」
「分かった。待ってる」
「あとメッセージアプリ登録しとく。SNSしょっちゅう見るわけじゃないから」
 お互いスマホを取り出し、ようやく登録を済ませる。
「じゃあ、またな」
「うん、また……」
 成瀬が背を向け、歩き出す。彼の姿が見えなくなるまで、由香里はその場を動かなかった。

 下宿先のアパートに戻ってくる。もらった白い箱を使っていない電気コンロの上に置き、アザラシのぬいぐるみをのけてベッドに身を投げた。
 好きな人から告白されたという実感が湧いてこない。彼の言葉を信じられず、素直に受け入れることができなかった。峰岸の存在もあった。何事もなく深まっていく関係に心が動いている。ただ、どっちがいいかと天秤に掛けると、それは成瀬だった。
 起き上がり、キッチンに行って白い箱を開ける。言っていた通りカップ入りのプリンが二つあった。一つはお詫びで、もう一つが彼の気持ち……両方を手に取って見比べるが、どっちがどっちか分からない。交換機のお詫びの方と自分で勝手に決め、入っていたプラスチックのスプーンで食べ始める。
「うんまっ」
 思わず声が出た。手が止まらない。妹にも食べさせてやりたいと思った。街が寝静まる深夜に空腹が満たされる。考えることが大事……給与ファクタリングで騙された由香里は慎重になっていた。

『コイン買い禁止条例案(一年生)が審査を通りました。この条例案の内容は、コインを買った者を退学処分にするというものです。投票日は12月14日、一号館(旧本館)四階の投票所で行います』
 他の学生に交じって掲示板を見る。講義室に行き、席に着いた田村弟は一年生の代表のグループにメッセージを送った。
『条例案を出したの誰?』
 すぐに『俺じゃない』と君嶋から返事があり、その直後に『私じゃない』と森から来た。教官が入ってきて、二限目が始まる。消去法で真中と確定するが、しばらくして『私も違う』と送られてきた。誰もウソをついていなければ、代表者以外が提出したことになる。
『とりあえず否決で』
 既読の数字が『3』になるが、返信はなかった。講義に耳を傾け、授業に集中する。成瀬を信じることできっと全てうまく行くと、入学直後のような心持ちを取り戻していたが、丸井や芽以との良かった関係は自然消滅していた。

「……私たち、卒業できるのかな」
 スプーンを持つ森の手が止まる。オムライスはまだ一口食べただけ。前に座る君嶋が水を飲み、視線を向けた。
「何とかなるって。あと三年もあるのに今から心配してても、しんどいって。それより、この後どこ行く?」
「原宿」
 オムライスを口に運び、君嶋がうなずく。二人は付き合っていた。そのことはそれぞれのコースの一年生も知っていて、代表が一枚岩になっていると錯覚させ、漠然となんとかなるという安心感を与えていた。
 バッグの上に置いていたスマホが鳴る。森が手を伸ばすが、先に君嶋がテーブルの上にあった自分のスマホを取った。
「真中さんが『私は賛成だけど』だって」
 少し遅れて森も、一年生の代表のグループに送られてきたその内容のメッセージを確認する。二人が無言でスマホを眺めていると『理由は?』と田村弟から入ってきた。
『危ないバイトの話を聞いたから』
『プランは理解してる?』
『知らないけど犯罪が起こってからでは遅いわ』
『みんなにコインを買うなって言っとけ』
 字面から穏やかでないのが伝わってくる。君嶋は背中を伸ばし、ため息をついた。
「俺、降りるわ」
「降りるって?」
「投票には行かないってこと」
「……」
「この前の進級券の所持を禁止する投票、行ってないのたぶん田村だ。たまたま真中さんに会った時に聞いたんだけど、真中さんは『行った』って言ってたし」
「そうなんだ」
「あいつも何考えてんのか分かんねえよな。二年とグルになって、俺たちから金巻き上げようとしてんのかも」
「なんか、お兄さんがいるとか聞いたんだけど」
「いる。見たことある。似てるから分かる」
「……私たち、大丈夫なのかな」
「とにかく、もう責任は持てねえ。田村は信用できねえし、このプランも破綻してる」
「このプランって?」
「前に言っただろ。二年に単位を余分に取らせて、一年に分配するっての」
「そんなことしないよね。みんなから文句言われるわけだし。実際、徴収も失敗してるもんね」
「そうだよ。代表なんてやめて、あとは法案でレートを決めりゃいい」
「お金は必要だよね」
「……」
 とりあえず君嶋はオムライス代を払えるか気になった。

『投票率91パーセント、賛成182票、反対0票で可決。コイン買い禁止条例案(一年生)が成立しました。明日よりコインを買うと退学処分となりますので、ご注意ください』
 この条例案を提出したのは田中だった。安本が犯罪に手を染めかけたことにショックを受け、なんとかしなければと思ったのだった。
 真中は投票に行き、法曹コースの50票は賛成に入った。それ以外は代表が投票に行かないと示したので、自身で判断することになったが、賛成に入れるのが無難という意識が頭から離れなかった。

 宝生康子(やすこ)はイライラしていた。何か問題が起こったとかではなく、この大学に異動になったことが不満だった。ここに来る前は営業課で課長をしていた。出世コースも歩んでいた。それが突然である。
 人事からは優秀だから抜擢されたと説明を受けた。納得させるためのウソではなく、事実だとしても受け入れることができなかった。優秀な者ほど厄介な仕事をさせられるという、合理的な判断が成立するのが日本の正社員という雇用形態だ。アメリカの会社だから、こんなことは起こらないと思っていたが、宝生教授にとっては左遷も同様だった。
 人の気配がして、ノートパソコンから目を離し、顔を上げる。ドアが開き、学生が入ってきた。一瞬のイラ立ちがすぐに沸点に達する。
「ノックしなさい!!」
「ああ、悪い。メールで呼び出されたから」
「理由になってないわよ……って、あなたが成瀬優理?」
「そうだけど、何か?」
「こんな口の悪い学生だとは想像もしなかったわ」
「他人の勝手な想像に自分を合わせるつもりはない。オレはこの大学を卒業して、アメリカに行く。敬語なんて覚えるのは時間の無駄だ」
「まあ、そのつもりなら、いい話なんだけど」
「いい話?」
 久しぶりに宝生教授の顔から笑みがこぼれた。
「あなた、特待生に選ばれたの。詳しい話は上の人からしてもらうから」
「学長じゃなくて?」
「本社の社員よ。アメリカ人だけど日本語はペラペラなの」
「ふーん」
 こうして後日、この部屋で面談が行われることになった。
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