第23話 田村弟の葛藤①

文字数 2,884文字

 用を済ませた俺は、洗面台の鏡で髪や服が乱れていないかチェックして、男子トイレを出た。隣の女子トイレに目をやるが、人の気配はない。通路に戻るとそれなりに人通りがあるので、ここで待つことにした。
「お待たせ」
 女子トイレから芽以が出てきて横に来ると、俺は腰に手を回してキスをした。里見芽以とは夏から付き合っている。誘ったのは俺で、野球が好きと言ったので、初デートは東京ドームだった。
 唇を離す。目が合うと、彼女が微笑んだ。無垢に膨らむ白いほおが俺の本能を刺激する。
「……ホテル行く?」
「えー、今から?」
 人が来て、俺たちはトイレを離れた。夜までまだ時間がある。四限目の後に大学を出たので、今16時半くらいだろか。ポケットからスマホを取り出す。
『一号館の裏に進級券を隠してたか?』
 メッセージが来ていて、俺は思わず足を止めた。
「どうしたの?」
「いや……」
「誰から?」
「成瀬さん」
 進級券は前期試験が始まる前に、また丸井に手伝ってもらってキャンパスの中に戻していた。倉田さんに渡した8枚も約束を守らなかったということで律儀に返してくれた。ただ、外に持ち出したことを知られた以上、今度は自分の家にあることが不安になってしまった。
 手順は外に出した時と同じように壁の隙間を使い、一号館の裏から俺が中にいる丸井に送った。用意していたビニールバッグに入れ、その場で土に埋めた。外から中に戻ってくる時に、たまたま拾った白いプラスチックの花を、念のため目印として置いたのが裏目に出たのか。
 鎌を掛けられている可能性も否定できない。素直に答えて、掘り返されたらたまらない。俺は『何かあったのですか?』と質問で返した。
「……大丈夫?」
「大丈夫」
 芽以に声をかけられ、平静を装う。スマホを手に歩き出すと、しばらくしてメッセージが返ってきた。
『見つかった』
 俺はまた足を止めた。そのまま歩いていた芽以が振り返る。
「大学に戻ろう」
「えー、今から?」
「今から」
 方向転換した俺は早足で大学に向かった。

 ATMで手続きをする。学生証だけ返ってきて、ロックが外れた。いつものように銀色のバーを回せず、お腹に当たる。落ち着かないまま一号館の裏に向かった。建物と壁の間を進む。すぐに掘り返された跡があるのが分かった。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 振り返ると、息を切らした芽以がいる。俺の頭の中はしばらく真っ白になっていた。
「ここに何があるの?」
「……進級券」
「こんなとこに隠してたんだ」
 そうか、芽以には言ってなかったか。知っていたのは俺と丸井だけ。俺はもう一度、地面に目を向けた。国際コースの一年生50人の進級券がなくなった。その事実はあまりに重すぎる。
「どういうメッセージが来たの?」
 成瀬さんとやり取りしていたことを思い出す。俺はスマホを出して『どこに行ったのですか?』と送ってみた。
「聞いてる? 何があったのか説明してよ」
「ちょっと黙ってて!」
 自分がイラ立っているのが分かった。何があったのかなんて俺も知らない。誰が進級券を見つけた? どうやって成瀬さんが知った? 進級券を見つけた人と成瀬さんの関係は……頭の中がパニックだ。
 息を吐いて、芽以の方を見る。顔を背けていた。怒ってるんだろか。さっきは口調がキツくなってしまった。ここで芽以に見離されたら、俺は孤立する。マズい。とりあえず謝ろうとした時、成瀬さんから『図書室の六法全書』と返事が来た。
「……図書室?」
「新館の四階になかった?」
 俺のつぶやきに芽以が答えてくれた。機嫌が悪くなったとは考えすぎだったようだ。確かに大学内の地図で二号館の上にあった気がする。俺は芽以に「行こう」と声をかけ、薄暗い場所から出た。
 二号館に入ると、人が少なかったので階段を駆け上がった。二階より上に行くのは初めてだ。四階に着き、ドアを開ける。壁一面に並ぶ本が目に飛び込んだ。部屋の中を見回す。裁判に関する本を見つけ、その棚に近づいた。
「何の本?」
「六法全書」
「これ?」
 芽以が指す先にあった分厚い本を棚から引き出す。不自然に膨らんでいるのが分かった。両手で本を開くと、進級券が何ヶ所かに分けて挟まっている。これだ。俺は回収していった。
「どうするの?」
 その質問で頭が回り出す。ここからなくなっているのを知ったら、また探し始めるに違いない。絶対に安全なのは、やっぱりキャンパスの外か。俺は芽以に「手伝って」と声をかけ、また薄暗い一号館の裏に向かった。

 マンションの駐輪場を離れる。住人に見つからずホッとしていると、こっちに向かってくる芽以の姿が見え、俺は足を止めた。
「これでいいの?」
「頼みがある」
「何?」
 俺は手にしていた進級券を見せた。
「預かっててくれないか?」
「えー、私が?」
「俺が持ってるの、二年生にバレてんだ」
「……分かった」
 238枚の束を芽以に渡し、俺たちは歩き出した。辺りも暗くなってきて、晩飯の時間が近づいていたが、食欲がない。会話はなく、どこへ向かうともなく、ただ人通りの少ない道を進んでいた。
「……これ、私たちの物にしない?」
「えっ、どういうこと?」
 芽以が足を止め、俺も立ち止まる。芽以の言う「これ」は直観的に進級券だと思ったが、そうじゃないことを期待した。
「なんで私たちがこんな責任を負わなきゃいけないの?」
 素直な疑問にその通りだと思った。俺は感覚が麻痺していたのか。ただ、これは国際コースの一年生、みんなの物だ。これ以上、悪い方に流れてはいけない。
「……二年生の条例が成立すれば終わる。あと少しだけ我慢してくれ」
 芽以に視線を向けると、涙ぐみながらうなずいた。成り行きは恐ろしい。

 日曜は芽以と上野動物園に行った。前から約束していたデートだったけど、気分が上がらなかった。いつも通りに接しようとしても、芽以の口数は少なかった。進級券が見つかってしまった影響は否めない。
 穏やかに過ごせるはずの休日も終わり、一週間が始まる。10月17日、月曜。投票日の前々日、また成瀬さんからメッセージが来た。
『一年が進級券を持ってることを確認したい奴がいる』
 俺は罠だと考えた。見せれば、その進級券が狙われる。俺は『できないです』と返した。ただ、簡単に引き下がってもらえる気がしない。確認したい奴って誰だ? すぐに次が来た。
『その場合、コイン徴収条例案を可決できない』
 確認したい奴って代表の誰かなのか。まさか成瀬さん自身とか。可決されなかったら、どうなる……二年生の所持禁止の期間が終わるまで、進級券を持ち続けることになる。そうなれば二年生は交換してレートが爆上が……いや、隠しているのがバレた以上、二年生は俺たちの進級券を探し続ける。外に出したことも知られていて、このままだと芽以を巻き込んでしまう。
 罠というのは考えすぎかもしれない。一年生が持ってることを確認するのは筋が通っている。成瀬さんは味方のはずだ。隠していた進級券が見つかったことを教えてくれたし、「全員を進級させたい」みたいなことも言っていた。もう疲れた。これで終わりにしてもらおう。
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