第31話 ノスタルジー

文字数 3,032文字

 箸を持つ手が止まる。ご飯を飲み込まず、一点を見つめたまま、ずっと噛み続ける。
「どうしたの?」
 こたつで一緒に晩ご飯を食べる母親が心配して声をかけた。
「食欲ないの? 由香里の好きなローストビーフ、賞味期限まだそんなに近くないのに半額のシール貼ってもらって買ってきたのに」
「お姉ちゃんが食べないんだったら、私が食べるまでのことよ」
 沙里奈の箸がローストビーフに向かうが、母親に「ダメ」と言われて手が止まる。部屋の隅にあるテレビが全国のニュースを報じ出すと、由香里はリモコンを手に取り、電源を押して消した。峰岸の事件はすでにネットで見ていて、流れるかもしれないと怖くなったからだ。
 由香里も警察署に連れていかれ、取り調べを受けた。何度も同じことを聞かれた。峰岸と親密だったことから共犯の可能性を疑われた。ひたすら正直に答え続け、解放された時には気持ちの整理ができず、放心状態になっていた。
 アルバイトにも行けなくなった。来年度からキャンパスが変わるので、どうせ辞めると自分に言い聞かせ、そのことを電話で店長に伝えた。年末年始は忙しくなるからと止められたが、峰岸と出会った場所にはどうしても行くことができなかった。罪悪感を背負い、今年は早めに実家に帰ることにしたのだった。
「東京は危ない所だからね。いろいろあったのね」
 母親が勝手に想像してつぶやく。
「失恋したの?」
 続けて妹が冗談っぽく尋ねた。
「……」
「図星?」
「……ずっと好きだった人の告白、断っちゃった」
「え、なんで?」
「他に好きな人がいたから……」
「じゃあ、仕方ないじゃない」
「でも、その人……犯罪者だったの」
「え……」
 思いもしなかった返答に妹は絶句する。
「運が悪かったんだって。信じた自分が悪いわけじゃない。お父さんだって、犯罪者みたいなもんだから」
「そうなの?」
 姉の代弁をするように妹が聞き返した。
「……今のは言いすぎたかも」
 三人とも黙ってご飯を食べ始める。妹が生まれてすぐに離婚した父親のことを、由香里はほとんど知らなかった。

 年末年始は例年通り、こたつに入りながらテレビを見たり、トランプをしたりして過ごした。高校時代に着ていたコートを持って、冬休みの終わる1月5日に東京に戻ってくる。翌日、大学に行って掲示板を見ると、三年次の説明会が2月14日に行われると貼られていた。
 単位を売ることができなくなり、峰岸の存在がなくなり、大学受験をやり直すという選択肢は、どこかへ消えてしまった。進級できずに退学になれば、奨学金という借金だけが残ってしまう。今さら自分の頭脳で特待生になれるとは思えなかったが、目指すことで少しでも多く単位を取ると由香里は決めた。
 アルバイトがなくなって長く感じた土日が過ぎ、久しぶりに一週間が始まる。いつものように掲示板に足を運ぶと、投票のお知らせが貼られていた。
『進級券交換1人1日1枚条例案(二年生)が審査を通りました。この条例案の内容は1日に2枚以上進級券を交換機で交換した者を退学処分にするというものです。投票日は1月16日、一号館(旧本館)四階の投票所で行います』
 成瀬に言われた言葉が蘇る。
「1人が進級券を1枚ずつ交換していけば、レートが1ずつ上がっていくだろ。レートは6単位から始まってるから、2枚目は7、3枚目は8になる」
 公平なルール……あとは自分との戦い。嫌なことは忘れて、由香里は後期試験に集中することにした。

 どこまでも建ち並ぶビルの足元を、コートに身を包んだ歩行者が行き交う。時々視界に入る空は一面灰色で、服を貫通するような寒さが舞い込んでいた。物理的に違和感のない雪がチラチラと降ってくる。傘を差すほどではなかったが、たまらず田村弟はそばにあったコンビニに入った。
 レジカウンターに置かれたおでんを見つめる。数人の客が並び、店員は対応に追われていた。自動ドアが開き、冷たい空気が流れ込んでくる。その場を離れて奥に進もうとした時、入ってきた客と目が合った。
「あっ、芽以……」
「こんなとこで会うなんて」
 思わず笑みがこぼれる。大都会が今だけ小さく思えた。

 マシンからホットコーヒーを取り出す。イートインスペースに行き、通りに面した大きな窓に向かって、田村弟と芽以は並んで腰を下ろした。
「コーヒーって、いつから飲み始めた?」
「けっこう最近かな。でも、子供の時にコーヒー牛乳は飲んでた気がする。なんで?」
「俺は思い出せないから、ちょっと気になっただけ」
 芽以がマフラーを外して、ひざの上に置く。
「お正月は実家には帰ったの?」
「帰った」
「お兄さんと一緒に?」
「いや、兄貴も帰ったけど、一緒には帰ってない」
「そうなんだ」
「親父、ケガしてて」
「事故とか?」
「パルクール始めたらしくて、腕と顔ひどい擦り傷だった。やってる動画を見せてもらった、というか見せられたんだけど、あれは醜態だった」
「ケガした時の動画?」
「いや、それは見てない。見なくて良かったと思う」
「怖いね」
「……俺の家族、基本的に新しいもの好きで。だから、俺も兄貴もあんな大学に行っちゃったんだけど」
「後悔してるの?」
「してる部分もあるけど、あの大学じゃなかったら東京に来れてないし、芽以とも会えなかったわけだからな」
「……進級できるの?」
「二年生次第だな。ダメだったら、二浪になるけど受験やり直す」
 急に窓の外が明るくなって、目を細める。雲間から差し込んだ太陽の光を、濡れた車道のアスファルトが反射していた。

『投票率100パーセント、賛成166票、反対0票で可決。進級券交換1人1日1枚条例(二年生)が成立しました。明日より1日に2枚以上進級券を交換機で交換すると退学処分となりますので、ご注意ください』
 結果が貼り出された翌日から後期試験は始まった。期間は二週間。学生たちは一日に2コマか3コマずつ、こなしていく。

「国柴」
 顔を上げると、成瀬だった。
「来週から進級券の交換が始まるの、分かってるよな?」
「来週?」
「禁止してるの29日までだから、30日の月曜から解禁になる」
「うん、分かった。ありがとう」
「……大学辞めるの、やめたのか?」
「うん。いろいろあって、続けることにした」
「そっか。じゃあ、がんばって」
「成瀬くんは、順調?」
「試験は余裕だ。穴埋めばっかだからな」
「良かったね……」
 彼の顔を見つめる。口から「やっぱり一緒にアメリカに」と、そんな言葉が出そうになった。視線を外し、彼が立ち去る。厚かましい自分をなんとか抑えた。

 あっという間に2月に変わる。後期試験が終わり、この一ヶ月は最後の交渉期間になる。去年はノルマを達成していない者、達成したが単位が足りなかった者で集まり、ゲームをして勝ち残りを決めた。噂ではかなり揉めたようで、参加せずに済んだ由香里は成瀬に感謝してもし切れない思いだったが、今はその気持ちを恋愛とは切り離していた。
 交換機の前に並び、3枚目の進級券を手に入れる。すぐに引き返し、正門の出口のATMにコインと進級券を預け、キャンパスを出た。もう春休みだが、しばらく毎日来ないといけない。ただ、由香里は面倒だとは感じなかった。
 もし、こんなことでもなかったら、部屋に引きこもっていた。運動不足で健康が害されるので、外に出る理由ができて良かった。大学に行った後は、スカイツリーの周辺を散策したり、路地裏にあるカフェを発掘したりして、最後になるかもしれない東京の街を楽しんだ。
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