第22話 絶望の始まり

文字数 3,279文字

「……つまんねえ」
 計量経済学の本を開きながら、鈴木が机の上にあごを置く。前に座っていた佐藤がフランス革命史の本を閉じた。
「『今の俺たちには勉強しかない』って言っておきながら、いきなりそれか」
「佐藤、確か妹いたよな?」
「いるが、まさか付き合わせろとか言うんじゃないだろな?」
「とりあえず練習させてくれ」
「俺の妹を何だと思ってるんだ」
「……悲しいな」
「ところで、進級券を見つけたこと成瀬に伝えて、どうなったんだ?」
「どうって……どうなるんだろ」
「あの進級券、どうすんだ?」
「解禁になったら、俺たちで15枚ずつ分けて……余りすぎだな」
「金にならないか」
「売る気か? それは人としてどうなんだ?」
「俺たちは苦労して探した。その対価だ」
「そうだな。金があれば巨乳も手に入る」
「ていうか、ちゃんとあるのか。誰にも見つかってないんだろな」
「さりげなく行って確かめてくる」
 机を離れ、棚に向かった鈴木は、分厚い六法全書を開けた。最初のページから最後までパラパラとめくっていく。それを何度か繰り返した後、本を棚に戻して帰ってきた。
「なかったのか?」
「六法全書だったよな?」
「そうだ。それに挟んだ」
「もう一回見てくる」
「いや、俺が行く。何度も行くと怪しまれる」
「……頼んだ」
 佐藤が棚に行き、六法全書の本を手に取った。一枚一枚めくっていく。本を棚に置くと早足で戻ってきた。
「なかっただろ」
「一年生は来ない場所だ。一体誰が……」
「田中だ。田中が持ち逃げしたとしか考えられない」
「協力してくれた後輩を疑うのか? それは人としてどうなんだ?」
「それ最近、俺がよく言ってるセリフじゃん」
「実は俺も言ってみたかったんだ」
「何の話?」
 二人が同時に顔を上げる。
「た、高橋」
「久しぶりだな。四国仲間とか言っときながら全然構ってくれないじゃん」
「いろいろあって……」
「そのいろいろを聞かせてくれよ」
 鈴木と佐藤は高橋に連れ出された。

 手から離れたボールは、床の上で曲線を描くことなく進み、磁石のようにガターに吸い込まれていった。
「これで三連続……そろそろ修正しろよ」
「この前、田村と来たんだろ。俺は久しぶりなんだ。最初のゲームは練習だ」
 ダブルを取っている成瀬が、市川に代わって投げる。美しいカーブを描いたボールは、磁石のようにヘッドピンに吸い寄せられ、ぶつかると共に力が波のように広がっていき、その場で立っていられるピンはなかった。
「七面鳥!」
 ガッツポーズをして振り返ると、市川はスマホに向かってしゃべっていた。
「……見てないのかよ」
 しばらくして通話が終わり、市川が顔を上げる。
「どうした?」
「……」
 返事はなく、目には涙が溜まっていた。
「何かあったのか?」
「……おばあちゃんが倒れた」

「刑事事件は刑法によって裁かれますが、どのように裁くかという手順を定めた法律もあり、それが刑事訴訟法です。刑法もこの刑事訴訟法も六法であり、民事事件についても民法と民事訴訟法があります。これで六法のうち四つが出ました。では、残り二つは何でしょうか。正解は憲法と商法で……」
 二限目が始まったばかりだったが、徹夜でオンラインゲームをしまくった鈴木は早くも睡魔に襲われていた。横にいる佐藤の視線を感じて、かろうじて目を開ける。
 気分転換にスマホをいじると、ショートメールが来ていた。登録していない番号で、誰からか分からない。内容を見ると思わず目を見開いた。
「……どうかしたか?」
 小声で佐藤が尋ねてきた。
「タカラナマ教授って誰だ?」
「ホウショウだろ。噂では滝山教授の代わりに来たらしい」
「滝山教授、何かあったのか……」
「それより宝生教授がどうした?」
「部屋に来いと……」
「まさか、俺にも来てないだろな」
 佐藤もスマホを手に取る。予感は的中し、同じ番号から同じ内容のショートメールが来ていた。
「お、俺にも来てんじゃん。何か悪いことしたか?」
「身に覚えは……なくはない」
「あるってことだな」
「あの進級券、ちょっと持っただけでアウトだったのか。厳しすぎるって……」
「俺は触ってもいないが」
「ここまで一年半やってきて、退学なんて……親に怒られる」
「親のことは考えたくねえ」
「夢だ。これはきっと悪い夢だ」
「俺たち実は、眠ってるんだな?」
「そこ! 静かにしてください」
 教官の鋭い声に、二人はすぐに現実に引き戻された。

「行きたくねえ!」
 叫び声と共に一号館に向かっていた鈴木の足が止まった。前にいた佐藤が振り向く。
「本格的な呼び出しを食らったのは小学校以来だ。メチャクチャ怒られたのがトラウマになってんだ」
「……何をした?」
「水道の蛇口に犬の糞乗せた」
「鈴木、それはメチャクチャ怒られるべくして怒られたんだ」
「とにかく行きたくねえ」
「どうせ行くんだ。行かなくても向こうから来る。ならもう、今行ってしまう方がいいだろ」
「……そうだな」
 階段を上がり、宝生教授の部屋の前に来る。
「失礼します」
 言いながら鈴木がドアを開けると、奥のデスクから鋭い眼光が飛んできて、思わず二人は身を引いた。
「……ノックを知らないの?」
「せ、千本ノックですか?」
「あなた、私をナメてるのかしら」
「ヒ、ヒッ……」
 鈴木はドアのノブを持ったまま、目を合わさないように肩をすくめた。
「……用件は?」
「よ、呼び出しを食らいました」
「名前は?」
「す、鈴木です」
「後ろは」
「佐藤です。俺たち、何か悪いことしました?」
「したわよ」
 二人の顔が青ざめる。部屋に入るよう促され、佐藤がドアを閉めた。
「図書室で本を叩きつけたり、片付けずに放っておいたり、大声でしゃべったり……苦情が来てるの。小学生じゃないんだから、ちゃんとしてよ」
「……それだけですか?」
 鈴木が尋ねると、宝生教授の目が釣り上がった。
「『それだけ』って何? そんなことで呼び出されたって言いたいの? 他人に迷惑かけてんのよ。反省する気がないの? それとも痛めつけられないと分かんないの?」
「い、いえ、そのようなことは……以後、気をつけます」
「二度としないで」
 二人が大袈裟なくらい大きくうなずくと、今度は部屋から出るよう促された。廊下で鈴木が胸に手を当てる。
「ああ、良かった。ドキドキして損した」
「……俺はまだドキドキしてる」
「えっ?」
「あのドS感、俺のタイプだ」
「佐藤、正気か?」
 鈴木の顔がまた青ざめた。

「マルサとは国税局の査察部のことで、額が大きいなど悪質な脱税を調査します。裁判所の令状を持っていて、会社や自宅の物品を強制的に押収もできますので、ただの税務調査とは全然違います。企業の税務調査については……」
 教官の言葉が頭に入ってこなくなる。お腹が鳴り、二限目も終盤を迎えていた。手元に置いていたスマホにメッセージが入ってくる。成瀬からだった。少し長めの文章に嫌な予感がする。
『市川が祖母の葬式で投票日に来れなくなったから、賛成に入れてくれ』
「えっー!」
 思わず声を上げ、近くにいる学生たちが振り向くと「すんまへん」と言って、狩野は頭を下げた。
「今さら、勘弁してえな……」
 また声に出し、代表なんか引き受けるんやなかったと後悔する。講義が終わると、狩野は手を上げながら立ち上がった。
「みんな、聞いて」
 企業コースの二年生たちの視線が集まり、緊張が走る。
「次の投票やねんけど、賛成に入れてください」
「えー、なんで?」
 そばにいた女子がすぐに反応すると、まわりからも不満が飛んできた。
「俺たちが一年生の分を払う義理なんてねえぞ」
「単位は血税だ。悪代官のやることだろ」
「代表なんだから責任持って説得してくれよ」
「か、会議で決まったことやねん。一年生は進級券を手放さへんし、こっちが折れるしか……」
 反論を試みるが、小声で届かない。沈黙が訪れると昼休みなので、みんな次々に部屋を出ていった。
「はあー、最悪や」
 一人の男子が狩野に近づく。顔を向けると高橋だった。
「狩野、聞きたいことがある」
「何や?」
「一年生が進級券を持ってることは、自分の目で確認したのか?」
 狩野は少し考え、首を横に振った。
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